#9 後日譚

 家に帰った後、佐賀内から渡されたボイスレコーダーを再生した。

『渚。もし僕が君の前から消えたら、僕のことは死んだと思って探さないで。じゃあね』

 わずか十秒のメッセージ以外、何も録音されていなかった。

「他にもっと言うことがあるだろ!」

 手にしていたボイスレコーダーをベッドに叩きつけようとした時、床の上に落ちていた本に目が留まった。白地の表紙に赤色の刺繍が施されているカバー。それは、ハルが持っていた十年ダイアリーだった。

 本を開くと、そこには自分の身体が動かなくなっていくことに対する恐怖が綴られていた。丁寧に書かれていた文字は時を経る毎に歪んでいき、後半に書かれた文字は心電図のように波打っていて読むことが出来なかった。

 紙の上に一滴の水滴が落ち、水滴はやがて土砂降りの雨になった。

『高橋君や天音さんは渚の親友じゃないの?』

『知人。それ以上でも以下でもない』

『じゃあ、僕は?』

 ハルはあの時、どんな答えを僕に求めていたのだろう。自分の命より大事な人だと言ってくれたのに、僕は彼を大事にするどころか拒絶してしまった。自分を守ることに必死すぎて、相手の気持ちを考えることが出来ない僕を、それでも見捨てずにいてくれた彼は、きっと友達なんて言葉では言い表せない。

 僕は泣きながら何度も彼の名前を呼んだ。それが無意味なことだと分かっていても、僕は彼の名前を呼ばずにはいられなかった。



 ハルが失踪した翌朝、僕は冷蔵庫の前で目が覚めた。コップに白湯を注ぎ、リビングのイスに腰かけた。現実から目を背けたくて二度寝しようとしたその時、ズボンのポケットの中に入っていた携帯が震えだした。

『もしもし。深海、生きてる?』

「死んでたら電話に出てないだろ。一応言っておくけど、ハルは帰って来てないぞ」

『うん、そんな気がしてた。今日電話したのは、お前が帰った後の出来事について報告しておこうと思って』

 昨日の騒動に感化された元3-Aのクラスメイトたちが職員室に押し寄せ、自分たちも加害者なのだと騒ぎ出し、一時パニック状態になったらしい。後日、限られた人だけで佐賀内の家に謝罪しに行くことになったのだと、高橋が教えてくれた。

「わざわざ教えてくれてありがとう。じゃあ、切るぞ」

『ちょっと待てって!他にも、お前に聞いてもらいたい話があるんだ。気を悪くしたらごめん。だけど、お前には知っておいてほしくて』

誰かに気を遣うなんて、彼らしくない。

「いいよ。最後まで聞くから話せよ」

『ごめん。ありがとう』

 その後、高橋は十年前の出来事について話し始めた。

 当時、僕の兄と横山の兄が生徒会長に立候補していたが、投票の末、僕の兄が生徒会長の座を手に入れた。しかし、その数日後、兄が死亡した。

 兄の死後、代役として横山の兄が生徒会長に就任することになったが、生徒会長になれなかった腹いせに、陰で僕の兄に嫌がらせをしていたのではないかという噂が出回った。精神的に追い詰められた横山の兄は、任期を終えることなく不登校になり、現在も引きこもりの状態が続いているとのことだった。

 日常的に暴力を振るう父に耐え切れず、横山の母は横山が幼い時に家を出て行ったらしい。父と兄の三人で暮らしていた横山にとって、横山の兄はヒーロー的存在だった。だが、生徒会長選以降、変わり果てた兄の姿を見て、誰かを傷つけることで自分の精神状態を保とうとしたのではないかと、高橋は言った。

『横山がお前に執拗に嫌がらせをしていたのは、自分の兄を滅茶苦茶にされたからなんだと。あいつから直接聞いた。お前は何も悪くないのに、ひどい話だよな』

 高橋の話を聞いて、全身の体温が急速に下がっていくのを感じた。

「高橋、お前・・・・・・」

『お前、お兄さんを随分前に亡くしていたんだな。辛い話をして悪かった』

「え?ああ、うん。別にお前が気にすることじゃないよ」

 どうやら彼は、新学期に養護教諭として現れた男を僕の兄だと気づいていないらしい。当然と言えば当然だ。亡くなった人間が再びロボットになって戻ってくるなんて、普通ではあり得ないことなのだから。

『一部は氷室先生から聞いた。氷室先生も、お前の兄が亡くなっていることを知ってたみたいだぞ』

「氷室先生が?」

 なぜ彼が十年も前に死んだ兄のことを知っているのか不思議に思ったが、おそらく家庭訪問か何かで知ったのだろう。

『話はそれだけ。ああ、それと、天音もお前のことを心配してた。ちゃんと食べているだろうか、ちゃんと眠れているだろうかって。聞かされる俺の身にもなれ』

「ありがとう。心配しなくても僕は平気だって、天音に伝えておいて」

『俺は伝書鳩じゃないっつーの。自分で伝えろよ。ったく、お前はいつもそうだ』

「いつも?」

『お前の善意は分かりにくすぎるんだよ。お前が俺に傘を貸してくれたり、佐賀内の漫画が破られる度に一々買い直したり、挙句の果てに、Tellmoreで散々人助けなんかしちゃってさ。なんでお前はそんなに人に優しく出来るんだよ』

「傘?・・・・・・ああ」

 中学の頃、登校中に前方を歩いていた高橋の傘が強風に煽られて全壊したのを見て、帰り際に自分の傘を彼の下駄箱に入れたのを思い出した。

「なんで傘も漫画も、僕だって気づいた?」

『お前、傘と一緒に『良かったら使って』って書いたメモを入れただろ。佐賀内の時もそうだ。書道の先生みたいな字を書く奴なんて、クラスにお前しかいない』

 そういえば、高橋と佐賀内にノートを貸した覚えがある。佐賀内はメモの字を見て、漫画を入れているのが僕だと気づいたのか。最悪だと、手にしていたスマホで自分の頭を叩いた。

『お前さ、優しすぎるよ。もっと自分を大事にしろよ』

「違うよ、高橋。僕は優しい人間なんかじゃない」

『だから、なんでお前はいつもそうやって・・・・・・』

 突然プツンと通話が切れた。スマホを見ると、液晶画面に電池切れの表示が出ていた。スマホを机の上に置き、ボイスレコーダーを手に取った。

『渚。もし僕が君の前から消えたら、僕のことは死んだと思って探さないで。じゃあね』

「・・・・・・じゃあねって、なんだよ」

 ハルが自分の手の届かない場所に行ってしまったという事実を受け入れたくなくて、僕は自分の手を爪痕が残るほど強く握りしめた。その痛みさえも憎かった。

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