第10話「引きこもりだけど、外に出る」

 今日は朝の早い時間帯から強い雨が降った。暖かい日が続いていたし、二月下旬とはいえ暦の上でも、実際に肌で感じる四季でももう春といってもいいだろう。この雨はそんな春の訪れを知らせる雨なのだろうか。


 本日無線を取りに外へ出る。久々に靴を履くようだなこれ。


 防具の代わりとして腕に雑誌や新聞紙を巻いておいたのでなんとなく動きづらい。腕の可動範囲を確認したが一応無線を取りに行くときの動きくらいなら支障はなさそうだ。……これが役に立てばいいが。


 人間が何かを噛む際、生じる痛みを考量しなければどこまで噛みちぎれるのだろう。奴らは痛みなど感じない。咬筋力を惜しみなく発揮して確実に噛み千切ろうとしてくるはずだ。ゆえにこの簡易的すぎる防具を信頼しすぎてはいけない。


 武器はバット……では心もとないような気がするので、外の物置からスコップを用意してから奴らに臨むことにする。


 準備は万端。いつでも出発できる。……そのはずだ。


「……本当に大丈夫?無理して行かなくても」


「大丈夫だ。無理もしてない」


 ……これは嘘だ。玄関で靴に履き替えてからもう一歩も動けていない。


 ドアを開けたら、いつ死んでもおかしくない。その事実は俺の足を止めるのに十分すぎる理由だ。


 怖くて仕方がなかった。体は隠しきれないほどガタガタと震えている。日向と交わす会話も声がひたすらこわばっていて情けなくなるほどだ。


 安田家で起きたことが脳裏をよぎる。


 頭に当てるはずのバットが空を打ち、その向こうから安田さんだったモノが俺の頸動脈にかじりつく。そんな想像が頭から離れなくなる。


 外にいる全員は俺を確実に食い殺しにくる。ゾンビ映画の主人公や、今も勇敢に立ち向かっているかもしれない人たちに問いたい。


「奴らが怖くないのか?」


 俺は怖いよ。殺すのも殺されるのも生きるのも死ぬのも。怖くて仕方がないよ。


 震える体を震える手で押さえつける。


 俺はこんなにも怖いんだよ。


「奥村」


 日向が俺の名前を呼ぶ。しかし振り向くことすらできないくらい体はこわばっていた。返事をしようにも声が出てこない。


「……私をもう一人にしないでよね」


 細い声とともに日向の体温が背中越しに伝わる。息が首筋にかかる。こんな生活でも美しさを損なわない髪から彼女の香りがする。


「行かないで」でも、「気を付けて」でもなく「一人にしないで」と言った日向。


 どういう行動をとっても、もう日向を一人にしない。それだけは絶対に守りたかった。


 震えが少しだけ治まった。


「……ああ。絶対に戻ってくる。一人にはしないから」


 振り向いて無理やり笑顔を作った。たぶん変な顔をしているかもしれない。



 守らなきゃいけない。それだけが前に進むきっかけになった。






 久々に外の空気を吸う。屋根には出ていたが、屋根の上の外とドアの上の外では大きく意味が違っているのだ。引きこもり的にも、この状況を考えても。


 庭には侵入されていないようなので、物置から慎重にスコップを取り出す。


 雨は窓から見た時と同じように強いままだ。こちらとしては都合がいい。


 奴らが音に敏感なら雨の打ち付ける音にまぎれて行動ができる。音に敏感なこと以外は把握しきれていないのでもしかしたら臭いも嗅ぎ分けるかもしれない。それは承知で臨もう。


 心臓の鼓動が雨よりも強く聞こえてくる。喉の奥から声が漏れそうになる。でもそれ以上にやるべきことを成そうとする気持ちが燃え滾っていてそれらすべてをかき消していた。


 庭のブロックをよじ登ると最短距離で駐車場までいける。庭の奥まで進み、ブロック塀の縁を掴み、顔をのぞかせてゾンビの数を確認する。


 通りに見える範囲で八体。駐車場に四体。互いの距離はまちまちといったところか。全部を相手にするのは無理なので駐車場までの直線距離の間にいる男女三体を倒せばいい。


 イメージするのは俺が喰われるイメージではなく相手の頭をたたき割ること。……いける。


 倒そうと思って倒すのは初めてになる。ブロックから飛び降りて音に気付いた一体目と対峙したとき、初めてであるにも関わらず「タイミングは最高だ」と思った。


 今までゾンビどころか人とまともに喧嘩もしたことが無い。


 しかし、呼吸が、スコップを振る際の筋肉の弛緩が、関節の動きが、すべてのタイミングが完璧だと直感で分かった。


 ──────ィィィン!


 硬質な金属音が辺りに響き渡る。


 音にはさんざん注意を払ってきたが、今はそんなのどうでもよかった。



 殴り飛ばされたゾンビの頭にスコップを突き立てる。骨の中で最も固いと言われている頭骨をもってしても力強く突き立てるスコップの前にはまるで氷のようなものだ。すぐに奴らの中枢を傷つけることができた。


 右斜め前女性の形をした奴が襲い掛かる。スコップを地面に対して九十度の向きに変えて頭へと振り下ろす。頭に突き刺さってそのまま抜けなくなった。焦って思わずスコップから手を放すとそのまま地面へと伏した。


 頭に足をかけて引き抜く。どうやらしっかり破壊できていたようだ。


 先ほどの音に気付いたのか別のゾンビがのそのそと襲ってくる。


 血に濡れたスコップを大きく振りかぶり、上から頭へと振り落とす。金属と骨の折れた鈍い音。完全に奴の首は折れ曲がった。


 普通の人間ならこれで終わりだ。しかし、俺の知っている奴らなら脳を破壊しない限りは襲い続けてくる。


 続けざまにスコップで横合いから殴りつける。完全に首の骨は折れ、頭が大変な方向へ曲がっている。……だからなんだよ!


 衝撃で横に倒れたゾンビをひたすら殴打する。あの時のように。


 手を止めれば負け。完全に動かなくなるまで徹底的に殴りつける。


 頃合いを見計らって手を止めた。雨で地面とともに流れ出す大量の血液とその他もろもろ。さすがに嘔吐は避けられなかった。



 まさに地獄だった。自分がしていること。相手がしようとしていること。どれも正気じゃない。でも自分がしていることは正しいことだと信じて疑わなかった。これは正義でも英雄の行いでもない。けれど大切な人を守るというなによりも大事なことなんだ。それはどんな正義よりも正しいことに思えた。


 駐車場前、俺を視認したゾンビが大口を開けてけん制してきたので、その口めがけてスコップを突き刺す。そのまま噛みつこうとしているのがスコップ越しに伝わってきたので頬を貫くようにして振り抜く。


 ずるりと顎が落ちた。これで噛みつくことはできない、が容赦する気はまったくない。

 前のゾンビ同様頭蓋を破壊するまで叩きのめす。



 駐車場には残り三体。三体同時にこちらを視認したようでゆっくりと近づいてきた。  


 三体同時はさすがに無理難題だ。一体一体相手にしたいがそういうわけにもいかないようで三体は同じような間隔を維持しつつ確実にこちらへ向かってくる。


 大きく息を吸い込んで思い切り踏み込み、できるだけ大きくスコップを振りかぶる。その遠心力でこちらが持って行かれそうになるほどだったがなんとかゾンビの頭へとフルスイングをかます。


 ふっとばされて倒れたゾンビは執拗にとどめを刺さずその場に放置。襲い来る二体目の顎を打ち抜くようにして下から振り上げる。


 ここまで来たら無線を取って戻るだけ。体力の限界をひしひしとその身に感じていたので戦闘は極力避けたかった。


 最後の一体は何も考えずにただ力任せにスコップを振り抜いた。


 父親の車へと走り、鍵を開けてトランクから無線を取る。


「……はぁ、とりあえずはあったみたいだ」


 しかし、随分としくじった。無線を入れる袋を持ってきていない。片手でスコップを握るか?無理だ。もう攻撃手段はここに置いていくしかない。



 仕留め損ねた三体は再び態勢を立て直してこちらへと向かってくる。吹っ飛ばしただけあって間隔はさっきよりも広い。これなら抜けられる。あとは家まで走ればいい。


 息を再び整えて思い切り走りだした。


 その時だった。


 ビィィィィッ!ビィィィィッ!ビィィィィッ!


 態勢を立て直したゾンビが車へと勝手に激突したのか周囲にクラクションが鳴り響く。


 血液が凍るのを感じた。冷えた血液が全身を駆け巡り、心臓を強く叩いた。



「……マジか」


 無線を抱えて走り出す。三体は思惑通り抜けられた。だが駐車場に出たとき、無数の殺意が俺を突き刺したような感覚に襲われる。


 すべてのゾンビがこちらに向き、歯をカチカチと鳴らしながら低いうめき声をあげていた。


 倒した時に生じた音が少しづつゾンビを寄せ集めていたのか。数はパッと見で先ほどの三倍にも見えた。どっから湧いて出てきたんだよ。


 最短距離であるブロック塀の前に数体がたむろしている。……分かっててやってるのかよそれ。簡易的な防具も染み込んだ雨と耐久限界を超えた運動量によってボロボロになりつつある。もう残された道は一つ。走るしかない。


「っ……ああああああああああああああああああ!!!!!!!」


 吠えなきゃやってられねぇ!!!!


 土砂降りの中響き渡るクラクション、俺の咆哮、奴らのうめき声。それはまるで激しいノイズに冒された下手クソなシューゲイザーのようだった。



 右足を前に出して左足を前に送る。左腕を振り上げて右腕を振り下ろす。


 決して振り返らず、襲い掛かるゾンビをよろよろと下手くそなステップを踏みながら避ける。そしてすぐに踏み込んで走り続ける。


 かぽかぽと水に浸りまくって音を立てる邪魔臭い靴を脱ぎ捨て裸足で水たまりを踏みつける。

 水や泥が顔まで跳ねた。まぶたの上に溜まる雨水とともに拭い去ってから眼前に向かってひたすら走る。


 通りすがったゾンビに服の裾を掴まれかけたが気に留める前に振りほどかれた。


 未だかつてないほど爆走する。たぶん人生で一番早い百メートル走だろう。そして一番長く感じる百メートル走になるはずだ。


 三十メートル手前で自宅の窓からのぞく日向を確認できた。


「ドアを開けといてくれ!!!!!」


 忙しなく首を縦に振ると急いで窓から立ち去った。


 目の前にはゾンビが二体。一体が背を向けたままで自分の進行方向を邪魔している。


「邪魔だああああああああ!!!!!」


 無線を抱えたままゾンビへとタックルをかます。アメフトなんてやったことないけどだいたいこんな感じだろうか。


 ゾンビが倒れる先を見る余裕なんてなかった。

 ただ見据えていた。

 その先でドアを開けて待つ、日向の姿を。





 玄関の上で突っ伏してしばらく動けずにいた。無抵抗のまま日向にバスタオルで頭をわしゃわしゃされる。


「……疲れた」


 本当は自分の状態を表すのにもっといろいろな言葉があると思う。でも、それしか出てこなかった。


 体を起こすと無言で日向が抱きしめてきた。

「……いや、気持ちは分かるけど濡れるから離してくれていい」


 さらにきつく抱きしめられる。いや、抱き絞められる。


 嗚咽が漏れているのを耳元で聞く。


「……だから帰ってくるっていっただろ。引きこもり舐めんな」

 引きこもりはこの際関係ないが言葉が出てこない以上は仕方がない。


「うん……。うん……。」


 お互い言葉に詰まっている。


 そういえばこいつがここに来た時もよく言葉につかえていた。でもそれとは違う。言葉には表せなくても心の奥深くを互いに分かっているような気がした。


 未だに離そうとしない日向の背中を優しく抱きしめた。





 バン!!! バン!!!! バン!!!!


 静寂を引き裂くようにしてドアや雨戸を強く叩く音が響く。


 ……だよなぁ。



 無線は手に入れた。しかし、その代償として本来の意味での籠城戦を強いられることになるのは頭の隅で分かっていた。


 家の近くにいたゾンビを始末し損ねた。たぶん始末していたとしても同じ結果だろう。俺の姿を見られて、ここに入っていくのも奴らの中の誰かが遠くから見ていたに違いない。避けられない事態だった。



 地獄は今からようやく始まるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る