第7話「引きこもりだけど、対峙する」
夢だと瞬時にわかる夢を明晰夢なんて言ったっけか。とにかく、今俺が見ているものは夢だとすぐに分かった。
俺は学校にいて授業を受けている。でも俺だけクラスの後方に作られた透明な四角いスペースに閉じ込められ、マジックミラーの外側に俺がいるように、みんなは俺に見向きもしないし、俺も授業風景や休み時間の風景を見ることしかできない。そんな状態だ。
これは記憶だ。そう思った。当然こんな不可思議な状況が本当に存在したわけではない。これは俺が高校の時に感じていた感覚をそのまま表した夢だ。なんて分かりやすい。
早く覚めてくれ。席に座ってひたすら願った。時間は早送りのように一時間が五分くらいのペースで流れていく。だがそれすらも長いように感じていた。やがて日も暮れてみんなが帰ったあと、暖かな西日だけがようやくこの四角いスペースに干渉してきた。
カタン、と食器の置かれる音がして目が覚めた。いつの間にか俺は毛布を掛けられていたようだ。人肌に温まった毛布がやけに心地いい。寝ぼけ眼をこすって起き上がると小さいテーブルの前に置かれた食事が目に入った。
白米に味噌汁、野菜炒めと青菜のお浸し。ぼやけた頭がぐるぐると回る。母親が帰ってきたのか……?
「おはよう。ご飯作ったから。簡単なのしかできないけど」
混乱する俺に聞き覚えのある声が飛び込んでくる。日向が下からもう一食分を持ってきて上がってきた。ああ、そういえばそんな来客もあったな。
「……なんかすまん」
毛布もきっと日向が気を使ってかけてくれたのだろう。気まずさと恥ずかしさの中で振り絞れる礼を告げる。……礼ですらないか。こういうことを上手く言えないのがもどかしい。
「奥村の事だからどうせロクなもの食べてないと思って」
余計なお世話だ。とは言えず箸で野菜炒めをつまんで口に入れる。美味い。
「どう?あんまし濃くはしなかったけど」
「ああ……ちょうどいいと思う」
思ったことをそのまま言えない自分が子供っぽく思えた。日向はそんな俺を見て静かに笑う。
「よかった」
食膳に手を合わせて日向も野菜炒めを口にする。なかなかいいじゃんと自画自賛。そりゃよかった。
「一応ご飯多めに炊いといたから足りなかったら言ってね」
「ああ、すまん」
……気まずい。数時間ぶりに食事音だけが小さな空間で主張し始める。なんで引きこもりが自分の家にいるのにこうも気まずい思いをしているのだろうか。飯を作ってもらった分際で何も言えない自分が悔しい。
「あのさ……、」
日向が切り出す。それでも何か言いづらいことがあるのかそのまま黙ってしまった。
会話を切り出した手前、何かを言わなければならないと思っているのかもじもじとテーブルと俺の方を交互に見ながら少しだけうろたえている。
……ああもう。
「……別に居てくれて構わないって言ったろ。そんな気を使わなくていいから普通にしてくれ」
「本当?本当に大丈夫?」
申し訳なさそうに肩を縮めて確認を取ってくる。こんなん断れるか。
「お前が良いなら別に構わないよ。断ってお前に死なれたら寝覚め悪すぎだろ」
「……ありがと。何か手伝えることがあったらなんでも言ってね」
そう言うと、すっかり調子を取り戻したらしく元気よく飯を食べ始めた。
うら若き男女が保護者不在の家で二人暮らしのアレがスタート。生憎ほかの女の子に手を出す機会のある学園生活は望めそうにない。
今日は晴れた。快晴とはいかないが久々にまともな青空を見れた気がする。すがすがしいなぁ畜生。昨日はほとんど寝れてねぇよ。
引きこもりは睡眠時間なんて取ろうと思えばいくらでもとれるし、取らなければ取らないで起きていることもできる。昨日は夕飯を取った後適当にパソコンで情報交換という名の煽りあいをしてすぐに布団に入った。
日向が隣に座って頭をカクカクさせていたので「寝るなら母親の部屋を使ってくれ。ここ出て右だ」と声をかけると、すごく眠そうな顔をこちらに向けたまま相槌すら打たなかった。
「めちゃくちゃ眠そうだからベッドで寝た方がいいんじゃないか?」
「……眠くない」
その顔は嘘だね。幼稚園児でも分かるぞ。
「私はいいから、奥村はさっさと寝てよ。……寝るんでしょ?……私は……起きてるから……」
と言いつつ、もう重そうにしていたまぶたは重量に耐えきれなくなっていた。
「だからベッドで寝ろって」
「うるさい……!もう寝ろ……!」
起き上がった俺は日向に無理やり押し倒されて布団をかけられる。日向は布団を掴んだまま眠りこくってしまった。
「いやいやいやいやいやいや!!!ちょっと!!それはよくない!!」
「……寝ろ」
もはや寝言の範疇だった。それから日向が目覚めることは翌日までなかった。俺が眠ることも翌日までなかった。
「……なんかごめんなさい」
布団一枚を挟んで重なり合っているのに全く淫靡でない一夜を明かし、下を向いたまま謝る日向。俺は何も返答できない。この場合なんて返せばいいのか2chで聞いた方がいいかな?ごめん、なんでもないっす。
今日は我が根城に居候が増えたので、居候には探索済みの家で彼女が必要なものを適当にとってきてもらい、俺は未探索の隣家を探索する。
「……大丈夫なの?」
ベランダに出て日向がそんなことを聞いてきた。何を今更。
「こんな状況だし盗みは仕方ねぇよ。それに日向が行くのは既に俺が探索済みだ。家に人はいなかったから大丈夫だ」
隣の家のベランダまで日向を見送ると俺はもう反対側の隣家へと向かう。ベランダではなく屋根を伝えば梯子を使わなくて済むので梯子はそのままだ。
隣の家のベランダへと降りて窓へ手をかけるとそのまま窓はスライドした。ここは鍵かかってないのか。バットを持ってきてはいたが無用の長物だったようだ。
不用心なのはいけないことだ。俺みたいなやつがひと手間かけずに忍び込める。
確かこの家は若い夫婦と小さい女の子が一人、最近越してきたのでよく知らないが安田さんって名前だったかもしれない。隣の家でもこんな情報だけしかないんだ。最近のご近所付きあい舐めるなよ。
ここは誰かの部屋か。窓からゆっくり侵入する。本やコンポなんかを見る限り旦那さんの部屋だろう。随分と几帳面な性格らしく何から何までキチッと収納されている。特にめぼしいものはない。というか早くリビングに行っていろいろと食料品をもらうだけなのだ。泥棒じゃないからな。必要最低限のものしかとってかないからな。
階段を降りると少しだけほかの家とは何かが違うことに気づいた。
隣もその隣も急いで準備をしたせいか玄関近くや戸棚が荒れていることはあった。……しかし、
「なんだこの荒れ具合」
上手く言い表せないが、なんとなくほかの家よりも不自然に荒れている。汚れた床、綺麗な壁に不自然なシミ。ここだけ俺以外の誰かに物盗りにあったのか……?
なんだか急に空気が張り詰めたような気がして手に持っていたバットを強く握る。
警戒を強めたその時、踏みしめた足の裏に違和感を覚えた。
ぬるり。
不快な粘着質。踏んではいけないものを踏んでしまったような、そんな感触が伝う。
「……なんだ?」
何かしらの液体を踏んだらしく、おそるおそる足の裏を確認する。
……血だ。
それも赤黒いなんてもんじゃない。この血液はほとんど黒く粘性も普通の血液より強いような気がする。明らかに普通の血ではないのだが、ここに来て妙に働き始めた危機感が叫んでいるのだ。これは人の血液だと。
「……マジか」
……なんで俺はこういう可能性を考えずに平気で隣家に忍び込んでいたのだろう。
いないって保証はどこにもなかったじゃないか。
血の気が引いていくのを感じた。それに比例して今まで鼓膜の内を満たしていた耳鳴りの音量もだんだんと増していく。
ずさり。
人が歩くには速度の足りない足音。床に引きずるようなその音が耳鳴りに被さっていく。
ずさり。
分かっている。痛いくらいに。さっさと後ろを向いた方が良いと。だが体は思うように動かず、錆びついたブリキのおもちゃのように首はゆっくりと後ろを振り向く。
廊下の奥、薄暗い闇からそれはゆっくりとやってきた。青色のチェックのシャツを半分赤黒く染めた彼は、確かに何度か見かけたことのある顔だった。
目が合った。完全に瞳孔は開いているのだが目が合った。そう言い切れる。
凍ったように動けない俺を認識したのか誰かに齧られた右足を引きづりながら速度を増して近づいて来る。
「ぁぁぁああ……」
これは彼のうめき声じゃない。別に意図してないのに喉の奥から出てきた俺の悲鳴だ。
彼は無言で歯をカチカチと獣の威嚇のように鳴らしながら自分のわずか数メートルまで近づく。肩を掴もうとしているのか、腕が水平にこちらに伸びている。彼の薬指が食いちぎられて無くなっているのを目に入れる。そこから黒い滴が落ちて、液体にしては重量のある音を立て床に跳ねる。
「……っだああああああっ!!!!!!!」
反射的にバットを振り回して彼の頭を殴る。バットの真ん中に当たったのか鈍い音とともに彼は壁へと押し付けられた。
頭は勢いよく壁に当たったが手はそんなのに構ってられないのかこちらを掴むように伸ばしてきた。それを振りほどくようにバットをひたすら振り回す。鈍い衝撃がバットを通して伝わる。人を殴るってこんな感じなのか。いや、今はそれどころじゃなくて。
「死ねっ!!死ねっ!!!死んでくれ!!!」
相手は生ける屍だけどそんなこといちいち気にしてられるか!!!!
やたらめったらバットを振り回し、本来は頭だけを狙うべきなのにも関わらず色んなところを打ちまくると体勢を崩したのかようやく彼は地面に伏した。
「ああくそ!!!でも!!!ここで!!攻撃をやめたら!!!食われるんだよね!!!!!フラグでしょ!!?知ってる!!!俺知ってるよ!!!!!」
大きな声で独り言を言いながら横たわる彼めがけてとにかくバットを振り下ろし続ける。そうでもしないと目の前の恐怖に心が押しつぶされそうだった。
……頭を殴っていたらいつの間にか床を削っていた。何が起こったかは俺にも分からねー。でも相手の損傷具合はそんな感じだ。おかげでピクリとも動かない。
すっかり我を忘れていた。安堵のため息が漏れ、緊張の糸がほぐれたのか急に力が抜けてその場へとへたり込んだ。
ねぇ俺、気づいてる?ゾンビ一体でこれほど体力使うんだよ?良かったね引きこもってて。
「適材適所とはよく言ったもんだ」ため息とともに力や気力、緊張感といったものが色々抜けていく。隣に頭の中身がこんにちは!してるゾンビがいても動けないくらいには力が抜けているのだ。
「なんでこんな目に遭ってるんだっけ」
……食料を取りに来たんだ。もう早く用事を済ませて帰ろう。
リビングに向かい用事を済ませようとすると血まみれで歯をむき出しにしながら、急いで作られたらしき家具のバリケードの向こう側、ドアをバンバンと叩く元安田夫人と元娘さんの姿があった。中の様子が見えるガラス窓に少しヒビがはいっている。
自分の握るバットについた黒い血液を眺めながら深いため息をついた。……もう探索は無理だ。
旦那さんの部屋に戻り、一応カギと簡単なバリケードを用意してソファに寝転がった。下からは未だにバンバンとドアを叩く音が聞こえるがもうどうでもいい。
……隣の家でまさかこんなことが起こっていたとは。
リビングのドアの前には椅子や小さな棚で作られた、ゾンビから身を守るには不十分過ぎるバリが用意されていた。おそらく妻か娘さんが感染していてどちらかを襲い始めたのだろう。旦那さんはそれを止める際に噛まれて、命の危険を察したのかリビングのドア越しに最後の別れを告げた。……酷い話だ。
見知った顔なので余計に心が痛い。バットに付いた血液を見てなおさらやるせなくなった。さっきは命の危機が迫っていたからとはいえ、自分のやったことに必要のない後悔が残っている。
幸せそうな家族だった。なんせまだ娘だって幼い。一番かわいらしい時期でこれからの成長が楽しみだったろうに。予期せぬウイルスの登場で家族同士で殺し合いをするまでになってしまった。
大切な人を殺さなきゃいけない時ってどんな気分なんだろう。
天井を仰ぎながらそんなことを考えていた。
屋根を伝い再び自室へと戻る。一方の日向はもうとっくに戻っていたらしく、くつろいだままの姿勢でベランダに立つ、返り血を浴びた俺とバットをぎょっとしながら見ていた。
「……昼飯にしようぜ。……できれば肉は食べたくない。」
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