2-11 父の死

「逃げろ! 逃げろ!」客車の誰かが叫んだ。馬車は猛然と走った。


 バケモノは私達を放っておかなかった。クモのバケモノは馬車を追いかけはじめた。

 客車の男女は追手に向けて発砲を繰り返したが、バケモノ――ミスター・ジョーンズはそれを物ともしなかった。


 かちゃ、と金属音がしたので横をちらりと見ると、ジェーンの手にリボルバーが握られていた。トランクの隙間から入る微かな光に、銃身が鈍く輝いている。

 彼女は両手で銃を握ったまま、ただ、震えていた。


「撃たないの?」私は訊いた。

「撃ったことなくて」

「撃ったことないの?」

「うん。よかったらあなたが撃って」ジェーンはリボルバーを私に寄こそうとした。

「私も撃ったことないもん!」私は両手をひらひらさせて拒絶した。


 観念したジェーンはおずおずとハンマーを起こすと、銃口を隙間――トランクと上蓋の間――に差し入れた。これではまともな銃撃が出来ないであろうことは明らかだった。照準だって使えないし、弾丸は明後日の方向に放たれるに決まってる。私は、彼女が正確に撃てるように私達の頭上すれすれにあるフタを押しやり、開けようとした。


「ダメ!」いきなりジェーンが叫んだ。

「なんで?」

「ミスター・ジョーンズに、あたし達がトランクに隠れてるのがバレちゃうから!」


 私はすかさず手を引っ込めた。そうか、ミスター・ジョーンズは私達がいることを知らないんだ。


「分かった。だけど、そんな隙間からちゃんと撃てるの?」

「やってみる」彼女はジョーンズに狙いを定めることに集中した。閉じ込められた箱の中、銃撃にはまるで適さない体勢のジェーンだったが、状況を考えれば仕方がない。


 耳元で銃声が炸裂した。

 一瞬、全てが真っ白になった。聴覚はおろか、視覚も触覚も、ありとあらゆる感覚が


 感覚が戻り、私はすかさずバケモノの様子を確認した。バケモノの溌溂はつらつとした姿を確認した私は、ただ首を横に振った。ジェーンの弾が命中したのかは分からない。だが、どちらにせよ結果は変わらなかったと思う。


 馬車は出せる限りのスピードを出していたにも拘わらず、バケモノとの距離は残酷にも縮んでいった。

 やがて我々に追いついたバケモノは、客車と横並びになった。トランクに閉じ込められた私の限られた視野では、余計に状況が把握しづらくなった。

 客車から女性の悲鳴がした。次いで馬車に大きな衝撃が走った。バケモノが馬車に体当たりしたのだ。

 衝撃はその後二度に渡って繰り返され、最後の衝撃と共についに馬車は横転した。私は全身を打ち平衡感覚まで失い、トランクの中でもみくちゃになりながら、もうおしまいだ、と思った。


 馬車は横倒しになった。

 この世の終わりのようなバケモノの咆哮が鳴り響き、私は絶望という言葉の意味を初めて知った。狭いトランクの暗闇の中、破裂しそうな自らの肉体が、意味もなく脈打っていた。

 ジェーンの息づかいを首筋に感じて、ほんの少し救われた。


「大丈夫?」とジェーン。

「たぶん」


 横倒しになったトランクの中で、なんとか体勢を整える。

 私はトランクのフタを注意して(ジョーンズに見つかっては絶対ダメ)かすかに押し開けた。地面に倒れ、腹ばいになっている女性が見えた。客車の女性が、衝撃で投げ出されたのだ。彼女は襲い掛からんとするクモに銃を向けていた。発砲した。しかしながらクモは悠然と彼女に近づいていった。

 お父さんの姿もあった。お父さんは右足をかばうように座り込んでいた。御者台から落ちた際に怪我をしたんだろうか。

 私は反射的に飛び出そうとした。お父さんのところへ行こうと。それをジェーンは止めた。腕を掴む彼女の力に私は驚いた。今出て行ったら殺されるだけ。何も言わずとも、彼女の手に込められたメッセージが伝わっきた。

 でもだからといって、ここでただぼんやりとお父さんの運命を最後まで見物しているなんて、そんなこと出来ない。だってお父さんは、このまま殺されてしまうかもしれない。私はジェーンを振り払おうとする。


「アイリーン、お願い」小声で懇願する、ジェーン。


 その声には、重い響きがあった。

 ジェーンはすでにバケモノの恐ろしさを目にしている。家族、仲間達が殺されるのを、その目で見た人間だ。ハウル族の虐殺の、唯一の生存者であるジェーンの一言は、あまりにも重かった。

 私はゆっくりと力を緩めていった。


 女性が殺された。

 クモは次の仕事を求め、お父さんに向かっていった。お父さんは座ったまま、リボルバーによる銃撃を続けた。立ち上がることが出来ないようだ。

 やはりリボルバーでは目覚ましい効果を上げることなど出来なかった。クモは歩みを止めず、そしてそのまま流れるような動作でお父さんの首を刎ねた。

 すんでのところで悲鳴を上げそうになった。だが、生存本能が私をぎりぎり正気にさせた。

 ジェーンが私の手に彼女の手を重ねた。私の呼吸は乱れに乱れ、全身の震えがおさまらない。


 残る生存者は私達二人と、客車の男達だけ。


 二人の男は、いまだ客車の中にいるようだ。トランクの内壁越しに、客車から続けざまに発砲する二丁の拳銃の音が聞こえた。こちらからは当然客車の様子は見えないが、彼らに向かっていくバケモノの姿は目に入った。

 私は目を閉じた。くぐもった声と共に、トランクが大きく揺れた。銃声はやんだ。

 二人が殺されたのが分かった。


 残るは私達。

 幸いなことにミスター・ジョーンズは、ここに私達二人がいることを知らない(ジェーンによるさっきの発砲でバレていなければ、だが)。彼はこの場にいる“目撃者”全員を殺したと思っているはずだ。

 だから、落ちつけ。

 私は息を殺した。バレなければ、命が救われる。

 バレてしまえば――、ここで私の人生が終わる。

 このまま去ってくれ。それだけを願う。


 生きた心地がしなかった。隣り合うジェーンの身体が冷たかった。

 私は祈った。信心深い方ではないが、とにかく祈った。死にたくなかった。目を強く閉じ、千切れるほどに両手を組んだ。


 必死の祈りが通じたのかは分からない。

 バケモノは、去っていった。

 そして私は気を失った。

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