1-10 少女

 立ち上がるコーンスープの香り。

 温かな湯気を顔に浴び、あたしは生き返る心地がした。



 貪るようにパンを食べ、浴びるほど水を飲む。



 生命力がみるみる回復していくのを感じる。

 ベッドの上に運ばれた食器類をすべて空っぽにするまで、あたしは一瞬たりとも手を休めなかった。

 食事の間は身体の痛みなどどこか遠いところへ飛んでいってしまった。


 食事を用意してくれた親切な少女は今、ベッドの傍らの椅子に腰を下ろしていた。


「体調、良くなってきた?」

「かなり良くなってきたみたい」あたしは空になった食器類を指して言う。「こんなことまでしてもらっちゃって、本当にありがとう」

 少女は首を横に振った。「全然いいよ。そんなことより、たくさん食べられたみたいでよかった」

「普段はこんなに食べないんだけどね」恥ずかしくなって、あたしは苦笑いを浮かべた。

「他に何か欲しいものとかある?」

「ないわ。柔らかいベッドに、温かい食事。これ以上望むものなんて何もない」

「そっか」少女は安心したような笑顔を見せた。「そうだ、まだ私の名前言ってなかったね」


 あたしは頷いた。

 食べることに夢中で、少女の名前を気にする余裕など持ち合わせていなかった自分に気づいた。


「私、アイリーンっていうの」

「アイリーン?」

「うん、アイリーン・ギネス。お父さんはチャールズで、この町の保安官をしてる。お母さんはいないの」

「そうなんだ」とあたし。

「あなたは? 訊いてもいい?」

「あたしは、ジェーン」少し間を置いてから付け加える。「ジェーン・カスク。ハウル族なの。お父さんもお母さんもいない」


 アイリーンは頷いた。


「唯一の家族は、おばあちゃん。だけど――」そこであたしは言葉に詰まってしまう。


 アイリーンはあたしの言葉を待った。


 あたしの頬を涙が伝った。

 それを見てアイリーンは驚いた。


「どうしたの? 大丈夫?」


 言葉を発することが出来ない。

 あたしを救ってくれた少女――アイリーンを心配させたくなかったのだけど、涙は止まってくれなかった。


 少女は困惑と心配が混ざり合った表情でこちらに近づくと、あたしの肩に優しく手を置いた。

 もう片方の手でハンカチを取り出し、あたしに手渡してくれた。


 ハンカチで頬を拭う。

 今まで心の底に抑えていた悲しみが、一気に溢れ出てきてしまった。


「ありがとう」ようやく声を発することが可能になると、あたしはびしょ濡れになったハンカチを彼女に返した。あたしは言葉を絞り出す。「おばあちゃんは、死んじゃったの」


 少女は何も言わなかった。


「みんな……死んじゃったの……。生き残ったのは、たぶんあたしだけ」

「何があったの?」アイリーンは狼狽えていた。

「ひどいこと。言っても信じてもらえないかもしれない。あたしだって、まだ信じられないくらいだし」あたしは深く息を吸う。「とにかく、ひどいことが起こったの」

「そうなんだ……」少女は言った。「話したくないことは、話さないでいいからね」


 うん、とあたしは首を縦に振った。


 窓の外に目をやる。

 太陽の光が通りを照らし、鳥が飛び、町の人々が行き交っている。

 こうして平穏な日常を眺めていると、数日前あたしの身に降りかかった悲劇は、遠い世界で起こった幻の出来事のような気がしてくる。


 だが、たしかに惨劇は起きた。

 あたしの首からかかっている薔薇の雫がその証拠だ。



 少女が淹れてくれたコーヒーを飲んでいる頃には、あたしは大分落ち着いていた。

 あたしはブラック、アイリーンはミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲んでいた。


 少女は口を開いた。「もしかして私達って、同じくらいの歳?」

「たぶん」

「十七?」目を丸くして彼女は訊いた。


 あたしはうんうん、と二度頷いた。


「じゃあ一緒だ!」アイリーンはぱあっと笑顔になる。「嬉しい! 私、同年代の友達っていなくて」

「そうなの?」

「そう。だからこうして同い年の女の子と喋れるのは私にとってすごく貴重なんだよ」

「あたしも、喋れる相手がいるのはありがたいわ。一人でいると余計なこと考えちゃうから」

「分かる分かる! 私なんていつも一人だから、毎日余計なことばっかり考えてるよ」

「なにそれ」あたしは笑った。久しぶりの笑いだった。


 少女は右手を差し出して言った。「よろしくね」


 あたしも右手を出す。「うん、こちらこそ」


 あたし達は手を握り合った。

 アイリーンの手は、温かかった。


「帰る場所がなければ、ずっとここにいたっていいんだからね」アイリーンはそう言ってくれた。


 あたしは何と返答していいか分からなかった。

 彼女の言葉の通り、あたしには帰る場所がなかったから。


 黙ったまま俯くあたしを見たアイリーンは、「本当だよ。本当にずっといてくれていいんだからね。その方が、私だって嬉しいし」

「ありがとう」その言葉しか出てこなかった。

「今まで色々大変だったかもしれないけど、もう安心して。なんたってここは保安官事務所なんだから」そう口にした後、ほんの少し彼女の顔が曇った。

 あたしはそれを見過ごさなかった。「何?」

「いやなんでも……」アイリーンは一瞬躊躇してから口を開いた。「一つだけ気がかりなことがあるんだ。有名なギャング団がこの町に近づいてるっていう話があって」

「ギャング団?」

「うん。でも所詮人から聞いた話だし、何かの勘違いっていう可能性もあるしね。それに今朝、優秀な保安官助手デュピティも来てくれたことだし、心配しなくても大丈夫だよ」

「保安官はこの小さな町に、今二人いるってこと?」

「そういうこと」アイリーンはさらりと続けた。「お父さんと、ジョーンズさんミスター・ジョーンズ



 ミスター・ジョーンズ。



 この時、あたしはその名前を知らなかった。


 彼は恐ろしい男だった。

 彼はデュピティを務めるべき人間ではなかった。


 そもそも彼は、人間ですらなかった。



 バケモノだった。

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