1-7 旅立ち――ジェーンの場合――
人生には忘れたくても忘れられない出来事がある。
少なくともあたしには、ある。
頭の中のごみ箱に入れておいたはずなのに、忌々しい記憶は何の前触れもなく再びあたしの目の前に現れる。
思い出したくもない光景や音、匂い。
ふとした時、それらが大挙して押し寄せあたしを苦しめる。
バケモノの咆哮、弄ばれるおばあちゃんの亡骸、霧雨のように降りかかる血、断末魔の叫び声、切断された身体の一部……。
悪夢的なイメージがあたしを襲う。
あの日の記憶はまるで鋭い刃物。触れるものすべてを傷つけ、あたしの心は血を流す。
あの日。
おばあちゃんが死んだ日。
一人の男が集落にやって来た。
久しぶりの来訪者だった。
夕暮れ時に訪れたその人物は黒いハットに濃い茶色のダスターコートといういでたちで、特に目を引くような印象はなかった。デソレーション・エリアではありふれたガンマンに見えた。西部をうろつく、流れ者のガンマン。
あたしはティーピーの中から来訪者を観察していた。
遠くから見る限り、男はあまり若くはないようだった。
その男は“蜘蛛”だった。
名前はミスター・ジョーンズ。
だが当然、この時のあたしはそんなこと知る由もなかった。
ティーピーの中、あたしはおばあちゃんと二人で過ごしていた。
しばらく訪問者の様子を見ていたが、特に面白い展開も期待出来そうになかったので興味をなくした。
物売りか何かだろう、と勝手に予想して覗き見をやめた。
実際のところ男は物売りでも、流れ者のガンマンでもなかった。
男はバケモノだった。
あたしが男から目を逸らしている間に彼は
異変に気付いた時――すでに辺りは真っ暗闇だった――には、殺戮はすでに中盤に差し掛かっていた。
おばあちゃんは事態を察すると、あたしに薔薇の雫を手渡した。
そしておばあちゃんは死んだ。
串刺しだった。
あたしは血の雨を浴びた。
霧雨のように降りかかる、おばあちゃんの血。
死の直前、おばあちゃんはあたしに逃げろと言った。
おばあちゃんが死んだ後、あたしは彼女の言葉通りに行動した。
罪悪感に苛まれながらもあたしはバケモノに背を向けると、ティーピーの残骸を後にして歩を進めた。
狂乱のさなか、あたしは馬の姿を探そうとしたがすぐに諦めた。
馬はすでにどこかへ逃げただろうと思われた。もしくは、バケモノに殺された可能性だってある。
この騒ぎだ。馬が定位置に突っ立っているわけがなかった。
あたしは部族の仲間達が殺される様を目撃し、あまたの死体の匂いを嗅ぎ、悲鳴を聞いた。
幼馴染の少年を、半分になった死体の姿で発見した。
地獄を歩いている気分だった。
赤い石を首にかけ、一度も撃ったことのないリボルバーを携えて、あたしはたった一人、集落から逃げ出した。
方角も分からないまま、あたしは走った。
バケモノから薔薇の雫を守る、ただそのために。
ひたすら荒野を走った。
顔は涙と血で汚れ、耳の奥では悲鳴がこだましていた。
暗闇の中、あたしは走り続けた。
朝が来た。
朝の光は永遠に続くかと思われる荒野を照らし出し、あたしの孤独を浮き彫りにした。
荒野は大海原で、あたしは漂流する小舟だった。
身体中が傷だらけになっていた。
太陽が傷を抉る。皮膚に付着した血は乾き、砂が肌を覆っていた。
気分はどん底で、浮上する気配は微塵もなかった。
己の身体がもはや、自分のものとは思えなくなっていた。
それでもあたしは歩くのをやめなかった。
歩いても歩いても景色は代り映えせず、飢えと疲労があたしを責めた。
人を求め、水を求め、食料を求め、安息の場所を求めて歩いた。
脳は使い物にならず、時間の感覚は捻じ曲がった。
この時の記憶は曖昧だ。今となっては、はっきりとしたことは覚えていない。
何日間荒野を彷徨っていたのか、どれほどの期間飲まず食わずの状態でいたのかなど、正確には分からない。
自分がどこにいるのか見当もつかず、助けが来る見込みなど一切ない絶望的な状況で、あたしは死を意識した。
こんなところで死ぬんなら、いっそバケモノと闘って死んだ方がよかった。ぼんやりとした頭でそんなことを思った。
あたしは、自分の置かれた状況を呪った。
バケモノを呪った。
運命を呪った。
情けない自分自身を呪った。
でもいくら呪ったところで状況が好転するわけもなく、残酷な太陽はあたしと荒野を燦燦と照らすのをやめなかった。
ネガティブな思考に陥り、自己憐憫の心地よさに身を委ねてしまえば、微かに残っているかもしれない希望の光さえも完全に見失ってしまうことになりかねない。
絶望は希望を運んできてはくれない。
天に向かって悪態をついても、それはすべて自分に返ってくるのだ。
このまますべてを呪って死ぬくらいなら、最期くらいは“光”に
闇に飲まれて死ぬよりは、(たとえそれが幻想だとしても)光に抱かれて死んだ方がマシだ。
あたしは、最期の希望を“精霊”に託すことにした。
おばあちゃんやチーフは常々、精霊はあたし達を守ってくれていると話していた。
目には見えないが、あたし達の周りには常に精霊がいる、そう聞かされてきた。
あたしはこれまで、精霊の存在を信じてこなかった。
でも今は、信じるしかない。
目を閉じた。
あたしは頭の中で精霊を思い描く。
姿形ではなく、精霊の“存在そのもの”をイメージしようと努めた。
こんなのバカげてる、と懐疑主義的なもう一人のあたしが横槍を入れた。
そんな自分を力づくで払いのける。
あたしは精霊に意識を集中させた。
部族のシャーマンやメディシンマンが儀式でするように。
もし――
もしあたしの声が聞こえるのなら、どうか
どうか、あたしを助けてください
お願いします
助けてください
祈る。
見えざる存在に、ひたすら祈った。
はたして精霊が本当に存在しているのか、あたしには分からなかった。
それでもあたしは信じようとした。
今はとにかく、信じるより他はなかった。
だがしばらく祈ったところで精霊は姿を現すどころか、その“
信じようとしているのに。
必死で信じようとしているのに。
そこであたしは気づく。
信じようとするんじゃだめなんだ。
信じなくては。
あたしは息を深く吸い、静かに吐いた。
再び目を閉じる。
意識を研ぎ澄ます。
光をイメージする。
精霊に向けて、心をフォーカスする。
あたしを守護してくれている精霊よ、力をください
あたしは今死にかけています
だけどあたしには役目がある
先祖代々大切にされてきた石――薔薇の雫を守る役目が
今ここで死ぬわけにはいかないんです
だから、お願いです
力をお貸しください
“祈りの意識”が、肉体を乗り越えた瞬間があった。
精神が身体からふわっと分離されたような、不思議な感覚。
眩い光が炸裂し、己の精神がまるで天を衝く一本の巨大な柱のように感じられたその時――
その時、音が聞こえた。
耳元で囁く、小さな音が。
それは羽音だった。
あたしは静かに目を開ける。
目の前を、一匹のハチが飛んでいた。
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