1-6 旅立ち

「カスクはどうだ?」


 出発の朝。

 旅人は唐突にそう言った。


 あたしは昨晩見た悪夢について考えていた。

 見ず知らずの少女に救われたところで目が覚めた、あの夢。

 奇妙で、恐ろしい夢だった。


「なんの話?」思考を中断させられたあたしは、質問に質問で返す。


 あたしの手には旅人の鞄。

 彼の出発に際し、あたしは荷物運びの手伝いをしていた。


「君のことだよ、ジェーン・カスク」と、前を行く旅人はあたしを振り返る。

「ああ」あたしは納得した。


 遡ること数分前、ティーピーの中で荷物をまとめていた旅人にあたしが話したことについて、彼はずっと考えていたらしい。

 ファミリーネームに憧れているということを、何気なくあたしは言ったのだった。

 それで今、旅人は“カスク”という名をあたしに提案しているのだ。


「足が止まってるぞ、ジェーン・カスク」

「人の名前を勝手に決めないでよ」


 嬉しかった。

 でもあたしはなるべく、それが表情に出ないよう努めた。

 なんとなく気恥ずかしいような気がしたから。


「なんでカスクなの?」不満げな顔を浮かべて質問する。

「思い付きさ」

「……変なの」

「変かな?」

「うん、変」あたしはいたずらっぽく彼を見る。「でも、まあいいわ」

「気に入ってくれた?」

「嫌いじゃない」


 ふっ、と旅人は優しく笑った。



 別れの時が来た。

 慣れた手際で馬の背に荷物をくくりつける作業を終えた旅人は、出発前に集落を目に焼き付けていた。

 これは正しい行いだった。なぜなら、この“景色”は近いうちに失われてしまう運命にあったのだから。


 旅人は馬に跨った。


「また、会える?」あたしは旅人を見上げて訊いた。

「会えるさ、きっと」彼はあたしを見た。


 彼は馬の脇腹を極めて優しく蹴った。

 馬が歩きだす。


「今度会う時には、きっとあたしも立派な旅人になってると思う」旅人の背中に声を掛ける。

「そうかな?」彼はにこやかに振り返る。

「そうに決まってる」あたしは大きな声で言った。「今度会ったら、あたしの話をたくさん聞かせてあげるから。あたしの旅の話を」

「そりゃいい」旅人は真面目な顔をした。「次に会う日を楽しみにしてるよ」



 彼は旅立った。



 旅から旅へ。

 彼の旅は、もしかしたらいつまでも終わらないのかもしれない。

 あたしは旅人の姿が消えるまで、ずっとその背中を見つめていた。


 旅人と過ごした時間は本当に素敵だった。

 集落には丸一日も滞在しなかったけれど、彼はあたしにたくさんのものを与えてくれた。


 彼と出会ってからのあたしは、旅に対する憧れをそれまで以上に強く持つようになった。

 持て余すほどの憧れを。

 ガンベルトを巻いては馬に乗り、リボルバーを握りしめては遠い世界に思いを馳せた。

 そんなあたしを見て集落の仲間達は笑ったが、あたしは真剣だった。


 旅の準備は着々と進んだ。

 西部の町に溶け込むような衣装も揃えた(普段の生活でもそれらを身に着けて過ごした)し、交易所を訪れた際には情報収集も欠かさなかった。

 ほんの少しずつではあっても、旅立ちの日は着実に近づいてきている予感があった。


 旅についての秘めたる思いをおばあちゃんに打ち明けることは、なかなか出来なかった。

 旅に出るにあたっては当然おばあちゃんの許可が必要だと思ったし、おばあちゃんならあたしの思いを分かってくれるとは考えていたが、それでもやはり言い出しにくかった。



 しかし実際、残念ながらその必要はなかった。



 旅人と別れてから五ヶ月が経過したある日。

 あたしは旅立ちの時を迎えた。


 それはあまりにも唐突な出来事だった。

 あまりにも悲惨な出来事だった。

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