1-5 クモの洪水

 ようやく眠りについたその晩、悪夢を見た。



 今にして思えば、あれはただの悪夢なんかじゃなかったと分かる。

 しかし当時のあたしはヴィジョンや精霊やなんかについてろくに信じてはいなかったし、そんなのはまやかしの一種だとすら思っていた。教訓を大いに含んだ昔話同様、抽象的な比喩だと。

 だから夢の“意味”など、この時のあたしは考えもしなかった。


 考えてさえいれば――

 と思うことがある。


 あの悪夢がある種の警告だったということにもし気づいてさえいれば、おばあちゃんは死なないで済んだのではないか。


 でも、おばあちゃんが死んだのはあたしのせいじゃない。

 だってあたしは、まだ子供だったんだ。難解な啓示になど気づけるわけがなかったんだ。しょうがなかったんだ。

 罪悪感に押しつぶされてしまいそうになる度、あたしは自分にそう言い聞かせる。


 それでも、罪悪感が消えてなくなることはない。



 それはクモの夢だった。



 夢の中であたしは横になっていた。

 ティーピーの中、ぼんやりと目を開けていた。

 おばあちゃんはいない。一人だった。


 足首がむず痒かった。

 あたしは横になった姿勢のまま、足首のあたりに手をやった。

 しかし痒みは改善されない。不思議なことに、痒みはしているようだった。それは足首からふくらはぎ、太腿へと移っていった。

 移動を手で追ったが、痒みの核心に追いつくことは出来なかった。

 いたたまれなくなったあたしは身体を半分起こし、くすぐったい太腿を見やった。


 クモ。

 一匹のブラックシードが、あたしの太腿を這うように歩いている。


 あたしはクモが苦手だ。

 普段なら、悲鳴を上げて身体からクモを払い落とすところだ。


 だが夢の中のあたしは、大胆だった。


 あたしはクモを手の平に迎え入れた。

 手の上を歩く小さなクモ。長い脚を器用に使って移動する様をあたしは観察する。



 そして、握り潰した。



 その瞬間、何かが破裂したような音が微かに聞こえた気がした。

 ぷちっ、と弾けるような音が。


 不吉な予感がする。


 あたしは右手をゆっくりと開いた。


 手の中に、おびただしい量の血が広がっていた。

 真っ赤な血。

 その量、色からも、明らかにクモのものではない。種子シードのような小さな体に、これほどの液体が詰まっているわけがなかった。

 動物の血。もしかしたら、人間の血かもしれなかった。


 あたしは怯えた。

 布切れを手にし、急いで手を拭う。

 ベージュ色をした薄い布に、べっとりと赤い液体がついた。

 非常に気味が悪かった。


 屋外では風が吹き荒れていた。

 その風はティーピーを揺らし、悲鳴に似た風音は不安定なあたしの心をさらに搔き乱した。


 手を何度も布切れで拭いながら、あたしは風の音に耳を傾けた。

 風は時に低く唸り、時に金切り声を上げる。

 ティーピーは滅多なことでは破壊されないが、“万が一”を考慮するに足るような強風のようだった。


 あたしはおばあちゃんのことを気にかけた。

 こんな風の中、おばあちゃんはどこにいるんだろう。


 不安と恐怖が喉の奥で膨れ上がりはじめた。

 胸が苦しい。


 そして悲鳴に似た風の音は、やがて人間の叫び声へと変貌していった。


 あたしは耳を疑った。


 だが確かに、人の声だ。

 それも一人ではなく、大勢の。



 人々が一斉に叫び声を上げている。



 心臓が早鐘を打つのを感じながら、あたしはティーピーから少しだけ顔を出し、外の様子を窺った。


 あたしは戦慄した。


 全くの無風だったのだ。

 頬に当たる風はなく、微動だにしないティーピーが平常通りに並んでいるばかりだった。荒野の砂は、大地にへばりついているかのようにぴくりとも動いていない。


 人の姿もない。

 だがしかし、奇妙な叫び声はいまだに響き渡っている。


 一体、なんなの?


 ティーピーの中に戻ったあたしは、床に置いてあるリボルバーに手を伸ばした。

 銃を手にすることで多少動揺が収まってくれるのではないかという期待は、グリップを握った瞬間に裏切られた。


 リボルバーを片手に、ティーピーの外へ出た。


 叫び声は四方から聞こえた。くぐもった悲鳴。

 あたしを取り囲むように点在するティーピーの中で、人々が泣き叫んでいた。

 男の声、女の声、子供の声。

 耳にしているだけで神経がすり減ってしまうような声。

 ティーピーの入り口の覆いはすべて閉じてあるため、中の様子を窺い知ることは出来ない。


 誰一人としてティーピーから出てくる者はなかった。


 あたしは意を決した。

 リボルバーのハンマーを起こし、あたしの正面に位置するティーピーへと歩み寄る。


 入り口の前で足を止める。

 中には幼い女の子がいるようだ。彼女の金切り声はまるで、人間が出せる高音域の限界に挑戦しているかのようだった。

 あたしは鼓膜に痛みすら感じた。


 銃を構え、入り口を覆う革を掴む。

 一気に持ち上げた。



 誰もいない。



 叫び声を上げる少女の姿はおろか、ティーピーの中には誰もいなかった。

 もぬけの殻だ。


 少女の刃物じみた声はもう聞こえてはいなかった。

 あまりに混乱を極めた状況に、あたしの思考は歪んだ。


 すがるような気持ちで、別のティーピーへと走る。

 今度は、成人の男女の叫び声がティーピーから漏れ聞こていた。

 自分が正気かどうか確かめるみたいに、勢いよく覆いを持ち上げた。


 またしても室内は無人だった。

 隣のティーピーでも、その隣のティーピーでも事態は同様だった。



 あたしは“無人の悲鳴”に取り囲まれていたのだ。



 不穏だった。

 何もかもが、不穏だった。


 耳馴染みのある声が耳に入った気がして、あたしは立ち止まった。


 おばあちゃん?

 おばあちゃんなの?


 耳に押し寄せる無数の悲鳴の中に、あたしはおばあちゃんを探した。

 数多の声帯から絞り出される叫び声は混じり合い溶け合って、まるで巨大な獣の咆哮のよう。


 あたしは目を閉じ、聴覚にのみ意識を集中させる。


 するとやはり、そこにおばあちゃんの声が混じっていることが分かった。

 何を言っているのかは分からない。でも、間違いなくおばあちゃんの声。


 混沌としたノイズの森。

 それでもあたしは辛抱強く、その中からおばあちゃんの声を手繰り寄せようとする。

 細く頼りない糸を切ってしまわないように、丁寧に手繰る。

 徐々におばあちゃんの声だけが分離されていく。


 ……げなさ……

 ……さい……に……

 なさい……



 “逃げなさい”、とその声は言っていた。



「おばあちゃん!」あたしは問いかける。「どこにいるの?」


 あたしは走った。

 あらゆるティーピーの覆いを持ち上げては、中を覗いた。

 その度に無人の空間から睨み返される。

 それでもあたしはおばあちゃんの姿を探した。

 逃げなさい、という彼女の言葉を無視して。


 集落のほとんどのティーピーを見て回り、残された最後のティーピーの前に立った時、あたしはそこにこれまでと同様の光景が広がっているのを予期した。

 覆いの革をめくっても、きっと誰もいないはず。

 おばあちゃんがこの中にいる確率はおそらく極めて低いだろう。

 だが、あたしは一縷の望みに賭けて覆いを一思いに持ち上げた。


 そこにおばあちゃんはいなかった。


 誰もいない。

 少なくとも人間は。


 代わりにそこにいたのは、クモだった。


 にわかには信じ難い状況にあたしは凍りつく。



 ティーピーの床は一面ぎっしりと、クモで埋まっていたのだった。



 膨大な数のブラックシードがそこにいた。

 無数のクモが隙間なく重なり合い、蠢いている。


 クモ達はお互いの背中を登り、あるクモは下に、あるクモは上になった。下は上に、上は下に随時更新された。

 何千……いや、何万ものブラックシード。

 それはまるで、黒い波だった。



 そしてまことに不運なことに、その波はあたしに寄せてきていた。



 こちらへ向かってくるクモの波。

 彼らは一斉にこちらを目指していた。


 無数の脚がかさかさと細かな音を立て、無数の目がぎらついていた。

 その様子はあたしの神経をひりつかせた。


 あたしは一歩後ずさる。

 だが、それ以上足が動かなかった。あたしは固まってしまった。


 迫りくるクモの集団。

 悪寒が身体を走り抜ける。


 波はうねり、ティーピー内を寄せては返していた。

 声が出ない。喉元まで出かかっていたあたしの悲鳴は、すんでのところで喉の奥へと引き戻された。


 そしてついに先頭のクモが、あたしの履物モカシンの足先に触れた。

 ブラックシードはモカシンを登る。

 あたしは必死にそれを手で払う。


 だが払っても払っても、次から次へとやって来る気色の悪い小さなお友達はあたしへの登山を諦めない。


 モカシンからさらに上を目指し、ふくらはぎ、太腿へと移る。

 太腿で動き回るその憎たらしい生き物を、あたしは片手で思い切り叩き潰した。


 するとまた、例の赤い血が炸裂した。


 太腿と手が血で染まる。

 だがそんなこと気にしてなどいられなかった。

 まだまだクモはたくさんいるのだ。

 溢れかえるほどのクモが。


 地上を這うクモはモカシンで踏み潰し、身体を這うクモは手で叩き潰す。


 あたしはクモの虐殺に没頭した。

 あたしの下半身はすぐに血だらけになり、血は服に沁み込んだ。足元には血だまりが出来た。

 生暖かい液体が、つーっとモカシンの中にまで入り込んだ。


 いくら潰しても、クモは続々とやって来る。

 キリがない。本当に、キリがない。


 


 あたしはその場から逃げようとした。一歩、また一歩後退する。

 だがパニック状態に陥っているせいで身体が思うように動いてはくれない。あたしは足を絡ませた揚句、その場に尻もちをついてしまった。


 低い視点から臨むクモの大群。

 それはさらにグロテスクで、あたしを震え上がらせた。



 クモの洪水だ。

 クモの洪水が押し寄せてくる。



 あまりの状況に、あたしは腰砕けになってしまう。

 立ち上がろうとしても力が入らず、無尽蔵に溢れ来るクモの地獄から抜け出すことが出来ない。


 その時だった。


 目前に、一本の手が差し出された。

 上品に長い指は細く、おそらく女性の手だと思われた。


 突如として現れた、救いの手。



 それはまるで、暗闇に差す一条の光のようだった。



 あたしはその手をしっかりと掴んだ。

 向こうもあたしの手を力強く掴む。


 温かな手の感触にあたしは安堵する。

 視線を上げ、救い主を見た。


 女性だった。

 というより、女の子だ。あたしと同年代の女の子だった。

 初めて見る顔だ。部族の人間ではない。

 金色の長い髪が美しい、可憐な少女だった。



 ――そして少女は、水色のドレスを纏っていた。

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