1-2 素敵な旅人
林の中に馬を止めた。
馬を降りたあたしは、木の陰に隠れてこっそりと男を観察した。
男は銃口を空に向けたまま、片手で銃をぷらぷらと弄んでいた。
もう片方の手は枕代わりに、頭の下に敷いている。
さきほどの銃声にあたしはひどく肝を冷やしたが、どうやら緊迫した事態ではないらしい。
それにしても木の陰から男の様子を覗くなんて、なんだか気が引ける。
遠くから見た限りでは、その男は若く見えた。
ハットは被っておらず、ラフな格好をしている。上半身はシャツ一枚だけで、肘の上あたりまで豪快に袖をまくっていた。
両膝を立てて寝そべる姿は、なんともお気楽だ。
「さっきから何見てるんだい?」
男はこちらに目も向けずに言った。
あたしは驚きのあまり、えっ? と声を発してしまう。
男は上半身を起こし、今度はしっかりとこちらに顔を向けた。
目が合った。
どうしよう。
あたしは足がすくんでしまう。
冷汗が額を流れた。
木の陰から半身を出したままあたしは固まった。
緊張の時間が流れた。
男はこちらを不思議そうに眺める。
リボルバーはその手に握ったまま、だが銃口をあたしに向けることはしなかった。
そして彼は口元をふっ、と緩ませた。
続けて彼は、優しげな笑みを浮かべる。
「こっちにおいでよ」彼は言った。
あたしは戸惑う。「いや、あ……えーっと」
「ちょうど暇してたところだったんだ。話でもしようよ」
「ど、どうしよう……」
「大丈夫さ。噛みつきゃしない」
迷ったあげく、あたしは彼の誘いに応じることにした。
ここで変に拒絶して面倒な事態になることも避けたいし、それに彼が怖い人には思えなかった。
あたしは男のところまで歩いていった。
「座ったら?」男はあたしを見上げて言う。
「あ、うん」
男の柔らかな前髪が風に揺れていた。
あたしは、男と少しの距離を空けて座った。
彼はあたしを一瞥すると、すぐに目を逸らした。
あたしを会話に誘っておいて、彼は黙っていた。
なんだか気まずい。あたしは意味もなくただ地面を見つめる。
「……銃、撃ったでしょ。さっき」あたしは訊いた。
「え? ああ」と彼は、右手のリボルバーをぼんやり眺めた。
「何を撃ったの? 鳥?」
「そんなかわいそうなことしないさ。
「空? なんで?」
「暇だって、言ったろ?」
ああ、とあたしは呟いた。
なんだか脱力してしまう。
「あなた、何者なの?」
「質問が多い子だな」と彼は笑った。「別に、何者っていうほどの者じゃないさ」
「何それ」あたしは呆れ気味に言う。
「じゃあ逆に君は、何者なんだい?」
「……そう訊かれると」
「僕は僕、君は君。それで十分じゃないか」
男はリボルバーの先っぽで頭を掻いた。
「ま、強いて言うなら“旅人”ってとこかな」少ししてから彼は言った。
ふーん、とあたし。
「質問しておいてそっけないね」
「あら、ごめんなさい」
「別にいいさ。……ところで君は、なんでこんなところに来たんだい?」
「交易所から帰る途中、突然銃声が聞こえたから」
「ああ、驚かせてしまって申し訳ない」
「大丈夫」
「交易所では何か手に入った?」と彼は訊いた。
あたしは腰にぶら下げている袋を振って、かちゃかちゃと音を立てて見せる。
「おお、色々と手に入れたようだね」
あたしは溜息を漏らしながら首を横に振った。「これ全部、あたしの売り物。一つも売れなかったの」
「……ああ、そういうことか」旅人は苦笑いを浮かべた。
「あなたはなぜここにいるの?」
「うーん、特に理由はないんだけどね。昼寝するのにちょうどいい場所だし」
「旅の休憩?」
「ああ」
「ずっと、一人で旅してるの?」
「そうだよ」
「旅してて、楽しい?」
「そうだなあ。……うん、まあ楽しいよ」
旅人は清々しい表情を浮かべていた。屈託のない顔だ。
「あたしもね……実は旅がしたいの」あたしは自らの秘めたる思いを告白した。人に言うのは、これが初めてだった。
「そりゃあいい。でも、なんで旅がしたいんだい?」
あたしは少し考えてから言った。
「……不安だから、かな」
「不安?」
「なんて言えばいいのかな……。この世界についてなーんにも知らないまま、そして何者にもなれないまま、おんなじような毎日をただ過ごして、それでそのまま死んじゃうのかなって思うとすごく不安……っていうか。そういうの、分かる?」
旅人は空を見上げていた。
「なんとなく分かるかもしれないな」と彼は言った。
「あたしは、世界から置いてきぼりのまま人生を終えたくないの」
「なるほどね」旅人はそう呟くと、傍らに置いてある茶色い鞄の中身を物色しはじめた。そして、ぼろぼろの本を一冊取り出した。「これはね、僕のお気に入りの本なんだ」
「何の本?」
「詩集さ。これを書いた詩人は、若くして筆を折ってしまったんだけどね」
へー、とあたしは表紙を眺めた。
絵などはなく、タイトルと詩人の名前が印字されているだけの地味なものだった。
「彼もまた、旅人だったんだ」
「会ったことあるの?」あたしは訊いた。
「ないさ。なんたってかなり昔の人だからね。だけど詩を読むことで、彼の心と深く繋がることは出来るけど」
詩を通してはるか昔の詩人と繋がるというのは、どんな感覚なのだろう。あたしは想像してみる。
「彼はこの世界が嫌いだった。人々の度し難いエゴや強欲、暴力に溢れ、“強き者”ばかりが我が物顔でのさばるこの世の中を、好きにはなれなかった。だから彼は旅に出た。こんな世界にもまだ美しい場所が残っているのか、知りたかったんだ。彼は理想郷を探して長い旅を続けた。しかし、理想の場所を見つけることはついぞ出来なかった。少なくとも、彼が筆を折った時点ではね」
「悲しい詩人ね」
「ある意味ではね」旅人は視線を落とした。「ただ彼自身は、とても優しい人間だったんだ。ガラスのように繊細で、傷つきやすい男さ」
「そんな詩人の、どこがいいの?」
うん、と彼は一呼吸置いた。「彼について僕が特に好きなのは、“人は誰もが聖なる存在なのだ”っていう彼の考え方でね」
「その詩人はこの世界を嫌ってたんでしょ? なら、人間のことも大嫌いだったんじゃないの?」
「そこがやっかいなところでね。実のところ彼は、人が大好きだったんだ。“本来、人の心は
旅人の話す内容が難しくて、あたしはあまり理解が出来なかった。
そんなあたしを見た旅人は、「うん……まあとにかく僕もその詩人のように、人間の中に眠る美しさを探すために旅を続けているのさ」と言った。それから、「僕も、不安なんだよ」と付け加えた。
不安、か……。
「あたしの心は、あんまり綺麗じゃないかもしれない」あたしは呟いた。
「そんなことないさ」と旅人はあたしを見た。
「なんでそんなこと分かるの?」
「君の目を見れば分かるさ。不純なものなんて一つも混じってない。これまで色々な人間を見てきた僕が言うんだから、間違いない」彼は笑った。「……たぶんね」
あたしはなんだか嬉しくなってしまった。
旅人ともっと話をしていたかったし、彼にならなんでも話せそうな気がした。
あたしもこんな大人になれたらなあ、と思う。
「今日はこれから、どこへ行くの?」。
「いや、特に決めてないよ」と彼は答えた。
旅人の目は、美しかった。
たくさんの人間と出会ったことのないあたしにだって、それくらいのことは分かった。
素敵な旅人に、あたしは訊いた。
「だったら、あたしの集落に来ない?」
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