3-16 秘密の部屋

 陰気だった。

 薄暗い部屋の空気はどこか冷たく、アルコールのような香りが鼻をついた。


 室内には様々なものが散乱していた。初めて見るものも多かった。


「不気味……」アイリーンがあたしの耳元で囁いた。


 壁紙はくすんだ灰色をしていた。

 数枚のメモが、壁に張り付けられている。メモは釘で固定されていた。


 大きな棚がいくつも並び、部屋の奥には赤黒い色をした革張りのソファが置かれていた。


 棚は金属製だった。珍しい。


 あたしは棚に並べられているものを眺めた。

 液体の入った小瓶、小さなナイフ、長い柄のついた手鏡(鏡の部分はやたらと小さかった)、微妙に形の違う何本ものハサミが几帳面に並べられている。

 何のための道具なのか、あたしには見当もつかない。


 あたしはぎょっとした。

 大きな瓶が所狭しと並べられている場所があった。

 瓶はすべて液体で満たされていて、その中には両生類や爬虫類の死体が一匹ずつ入れられていた。


 瓶自体の色なのか液体の色なのかは分からないが、若干オレンジ色がかった瓶の中に、四肢を広げたカエルが浮いていた。

 カエルが動いていないおかげで、水かきが詳細に観察出来る。

 カエルと目が合ったが、カエルの目からは何の感情も汲み取ることは出来ない。まさに、“死んだ目”だ。


 奥の瓶に視線を移すと、そこには小さな心臓のようなものが浮かんでいた。生々しいピンク色をしている。

 気持ちが悪くなってあたしはすぐに目を逸らした。


「この部屋って……」あたしは訊いた。

「研究室みたいなものだな」ドクター・Sが答える。

「あなたって、一体何者なの?」アイリーンが尋ねる。

「研究者だ。いや、と言うべきか」

「東部にいた頃?」とあたし。

「そうだ。ある研究に携わっていた」ドクター・Sは棚からナイフを一本取り上げ、興味なさげに眺めた。「今は後悔しているが」


 カーテンはすべて閉まっていて、カーテン越しの光が部屋の中をかろうじて照らしていた。


「この部屋のものに勝手に触れるなよ。下手に触れるとケガするからな」ナイルが言った。


 言われなくても、触りたくないものばかりだ。


 部屋の隅には洗面台が備え付けられていた。

 元々は真っ白かったはずの洗面台は薄汚れ、ところどころが欠けていた。黒いシミも見受けられる。

 洗面台の中には濁った水が溜まっていた。


 洗面台の下に、死体が横たわっているのをあたしは発見した。

 思わず声を上げた。

 死体には髪がなく、禿げあがっていた。全体的に茶色く、そして全裸だった。


「模型だよ」ドクター・Sはあたしに目もくれずに言う。「人体模型だ」


 模型?

 あたしは死体を改めて凝視した。


 たしかに、死体ではなかった。

 それは石膏で出来ていた。


 あたしは胸をなで下ろした。


「ソファの前にある、あの黒いのは何?」


 そう質問をしたアイリーンの視線の先にあるのは、木製でも金属製でもない、不思議な材質で出来たとても大きな箱だった。先ほどのカセットプレーヤーとは比べ物にならない大きさだ。

 何かの装置のようだった。ソファに向いている面にのみ、湾曲したガラスのようなものが嵌め込まれている。装置自体は黒い色をしており、ガラス面もまた同様だったが、ガラス面だけは、汚れた鏡のように周囲を鈍く反射していた。

 ガラス面の脇には、のようなものが二つ並んでいた。


「ああそれか」ドクター・Sはそう言うと、装置へと近づいていった。


 彼は腰を屈め、装置のつまみを回した。


 ガラス面の中央に一点の光が生まれた。

 光は徐々に大きくなり、やがてガラス面全体へと広がった。


 装置はざーっ、という雑音を響かせ、ガラス面上では白と黒の粒子がランダムに動き回った。


 あたしは目を丸くした。


「テレビだ」とドクター・Sは言った。

「東部からの電波は、ここまでは届かないけどな」ナイルが残念そうに言った。


 ドクター・Sがさっきとは逆方向につまみを回すと、画面の外側から光が消えていき、最終的に光は中央の一点に集まった。

 そして中央に残る最後の光も静かに消えた。


「映像と音声を再生する機械だよ」


 そう説明されても、あたしには何のことだかさっぱり分からない。


「電子ビームを用いて画面上に画像を表示する、ブラウン管テレビと呼ばれる装置だ。東部では極めて一般的なものだよ」ぽかんとしているあたしとアイリーンを見て、ドクター・Sは続けた。「簡単に言えば、この箱の中で“写真”が動き、それに連動して音も流れるという――」

「写真が動くの?」アイリーンが食いついた。

「そうだ」

「すごーいっ! 見たい見たい!」興奮するアイリーン。

「テレビ会をするためにこの部屋に集まったわけではない」ドクター・Sが厳しく言った。

「えー」分かりやすく不満げな顔をするアイリーン。

「ちょっとくらい見せてやってもいいだろ?」ナイルが助け舟を出す。

「あたしも……ちょっと見たい」


 うーん、とドクター・Sは唸った。


「ビデオを見せてやろうぜ?」ナイルが提案した。

「しょうがないな」ドクター・Sはため息をついた。「じゃあ、そこのソファにでも掛けてくれ」


 ドクター・Sに従い、あたしとアイリーンは革張りのソファに腰掛けた。

 アイリーンは分かりやすくわくわくしていた。


 テレビと呼ばれる装置の横に、低い台があった。

 台の上にはまた別の装置が置かれていて、それはテレビと太い紐でつながっていた。装置は平べったい形をしていた。

 台の下には観音開きのガラス扉があった。ドクター・Sは扉を開け、中から本を取り出した。


「何の本?」あたしは訊いた。

「本じゃない。これはビデオテープだ」ドクター・Sは言った。

「言ってみれば、魔法の本みたいなもんさ」ナイルが説明した。


 ドクター・Sは“ビデオテープ”を、台の上に置かれた装置に挿し入れた。

 彼はテレビのつまみを回した。テレビのガラス面が光る。

 画面に生じた一点の光は大きく広がる。


 あたしは、感嘆の声を上げた。



 画面には写真が映っていた。

 驚くほど鮮明なその写真には、なんと色までついている。



 線路上から撮影した写真のようだった。

 画面の中央を線路が走り、奥には駅のプラットホームが写っている。


 あたしは機関車に乗ったことがなかったので、駅の写真を見ているだけで胸がときめいた。

 それに、白黒でない写真を見るのも初めてだ。

 色つきの写真を眺めていると、まるで自分が本当にその場所にいるかのような気がしてくる。


「色のついた写真なんて、初めて見た」アイリーンがテレビの画面にくぎづけになっている。

「だね」

「……あれ?」

「どうしたの?」

「写真があんまりにも綺麗すぎて、プラットホームのお客さんが動き出したように見えたよ。目の錯覚だ、きっと」アイリーンは言った。


 こぢんまりとしたレンガ造りの駅舎。屋外のプラットホームには、列車を待つ客の姿がある。

 その内の一人、派手な羽飾りのついた帽子を被る女性がかすかに動いたように、あたしにも見えた。


「目の錯覚じゃないぞ」とナイル。「写真だって言ったろ?」

「え? ってことはやっぱり……」アイリーンは画面に顔を近づけた。


 あたしも帽子の女性を注視する。


 帽子の飾りが揺れた。

 風が吹いたのだ。写真の中で。


 その後さらに強い風が吹き、突風に飛ばされてしまわないように女性は右手で帽子を押さえた。


 写真が、本当に動いたのだ。


 あたしにはまるで、テレビと呼ばれるこの箱の中に本当に人が入っているかのように感じられた。


「すごい……。動いたよ」アイリーンがあたしに向かって言った。

「うん、動いた」


 あたし達がそんな会話を交わしている間に、駅舎から大荷物を抱えた男が出てきた。

 彼は、荷物を引きずりながらプラットホームを歩いた。


 駅舎の前に置かれたベンチに目をやると、そこでは二人組の婦人が談笑していた。

 婦人の一人が、口に手を当てて上品に笑っている。


 動く写真、とはこういうことなのか。

 まるでマジックだ。


 あたしとアイリーンは、画面に映る写真から目を離すことが出来なかった。


 音が聞こえた。

 あたし達は耳を澄ました。


 しゅー、と空気が吐き出されるような音だ。

 続いて、重い金属的なノイズが混じる。


 音は徐々に大きくなる。


 ぼーっ、と力強い音が鳴った。

 線路の向こうに、小さな車体が見えた。



 機関車だ。



 機関車が、重々しい音を立てながらこちらへとやって来ているのだった。


 圧倒的な速度で機関車は進んでいた。

 煙突から、白い煙がもうもうと上がっている。


 黒く光る堂々たる車体、三角形に尖ったカウキャッチャー、ロッドが車輪を動かし、車輪は線路と擦れ騒々しい音を立てる。

 荘厳なまでに勇ましい、威厳に溢れたその姿。


 機関車はあたし達に向かって弾丸のように疾走し、小さく見えたその姿はあっという間に大きくなっていった。


 やがて機関車は、汽笛を鳴らし駅へと進入した。

 だが駅には停車しなかった。


 スピードを緩めないまま機関車は一瞬でプラットホームを通過し、待合客の帽子や衣服を突風で揺らした。


 見惚れている場合ではなかった。

 あたしが身の危険を察知した時には、すでに汽車はあたしの目前にまで迫っていた。


 巨大な鉄の塊が、線路上のあたし達に向かって突進している。

 避ける余裕はなかった。

 目前で響く汽笛の爆音が、あたしの耳と胸を破いた。


 轢かれる!

 そう思ったあたしは両腕で頭を抱え込み、目を閉じて叫び声を上げた。



 落雷のような轟音を立て、迫りくる機関車。

 その音量は極限まで大きくなり――

 小さくなっていった。



 機関車があたしを通り過ぎたが、あたしは平気だった。


 目を開ける。

 あたしの目の前にはテレビがあった。

 機関車の姿はすでになく、画面には元の通り線路と駅舎だけが映っていた。


 あたしの横には、薄ら笑いを浮かべるアイリーンがいた。



 あたしは咄嗟に急ごしらえの訳知り顔を浮かべ、ふむふむと頷いた。


「技術の進歩って、すごい」

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