3-14 ランチョ・ビート

 夜の帳の隙間から、ほんの僅かに朝の光が漏れていた。

 夜と朝に挟まれた、一日の内で一瞬しか存在しない静謐で美しい時間帯だった。


 あたしとアイリーン、ドクター・Sとその肩に乗るメガネザルは、――ドクター・Sの言うところの――“家”に向かっていた。


 逃走劇から数時間。

 夜の荒野を馬に揺られ続け、蓄積された疲労はとうにピークを越えていた。もはや全身の感覚はほぼ麻痺している。


「まだ着かないの?」張りのない声でアイリーンが呟いた。

「もうすぐだ」とドクター・S。


 こんなやり取りをもう何十回と聞かされたような気がする。

 あたしはただ溜息を漏らした。


「ていうか、もう朝だよ……」


 アイリーンの言葉に、今度は誰も反応しない。


 先頭を行くドクター・Sの右肩にちょこんと座っているナイルは、どうやら眠っているようだ。あたしからはナイルの背中しか見えていないが、彼が寝ているのは一目瞭然だった。


 地の果てまでも続くかと思われる荒野をあたし達は夜通し進んだ。

 その間、人っ子一人として見かけなかった。


「ほら、見えてきたぞ」


 青い光が大地を薄く照らす中、ドクター・Sは太陽の方向を指差した。

 彼の指差す先に、小屋らしきものが遠くにぼんやりと見えた。小屋はいくつもあった。敷地をぐるりと囲む柵のようなものも見える。


「あそこが……?」あたしは訊いた。

「そうだ。牧場ランチョだよ」

「あなたのランチョなの?」

「ああ。我が家ホームだ」


 ドクター・Sはわざわざ馬を止めて、あたし達を振り返った。


「その名も、“ランチョ・ビート”だ」



 ランチョ・ビートに辿り着いた頃には、朝になっていた。

 朝の光が眩しかった。


 朝の太陽の下、柵の入り口からあたしはランチョを観察した。

 広大な土地を柵が囲い、その中には小屋が点在している。

 たしかに牧場だ。

 しかし、何かが変だ。

 小屋はどれも立派とは言い難いつくりでまるで廃屋だし、それに肝心の牛の姿がどこにもない。


 あたしの頭上には、大きな看板が掲げられていた。それはその他の設備同様、お世辞にも綺麗などと形容出来るシロモノではない。

 看板には大きな字で、“ランチョ・ビート”と記されていた。


「ここ、本当に牧場ランチョなの?」アイリーンがあたしに訊いた。

「正確には、違う」ナイルが答えた。さっきまで寝ていたはずだが、いつの間に目を覚ましたのだろう。

「じゃあなんなの?」

「世間の目を誤魔化すためのものさ。俺とドクター・Sにとってここは、……隠れ家みたいなもんだな」ナイルは大きな目をぎょろつかせた。

「へー」アイリーンは気のない返事をした。

「隠れ家っていうからには、あなた達は隠れる必要があるってこと?」あたしは訊いた。「誰から隠れなきゃいけないの?」

「うーん……。話せば長くなるな……」

「とりあえず、細かい話は後だ。二人とも疲れているだろう」ドクター・Sが割って入った。そしてドクター・Sは小屋の一つを指して言った。「そこで寝てもらおう」


 小屋は例に漏れず小汚くみすぼらしかったが、贅沢も言っていられない。

 安全に寝られる場所があるだけありがたかった。



 小屋の前であたし達は馬から降りた。

 ドクター・Sに続いて、あたしは小屋の中へと入っていった。


 部屋は薄暗い。

 明かりの灯っていないランプがひび割れているのが目に入った。


 部屋は埃っぽい匂いで充満していた。

 古い木材のような香りもする。

 普通なら不快であるはずのその匂いは、なぜかあたしを安心させた。


「ベッドは四台あるぞ。選び放題だな」ナイルが笑った。


 アイリーンは適当な笑いでそれに応じた。


「ちょっと口を閉じていてくれ」そう言うと、ドクター・Sは両手で派手にベッドを叩きはじめた。


 ドクター・Sが叩く度、溜まっていた埃が目に見えて舞い上がった。


 げほっ、げほっ、とアイリーンが咳き込んだ。


「こりゃあひでぇや。この部屋ずっと使ってなかったからな」ナイルが呟く。


 簡単なベッドメイキングを終えたドクター・Sは「好きにゆっくり過ごしてくれ。話は明日、ゆっくりしよう。聞きたいこともたくさんあるしな」と言った。


 ドクター・Sとナイルは部屋から出た。


「ありがとう」あたしとアイリーンは声を合わせ、部屋から出る二人を見送った。


 はあ、と荷物を床に投げ出して、そのままベッドに倒れこむアイリーン。

 またもや埃が舞う。

 ベッドにうつ伏せになりながらアイリーンが咳き込んだ。「もお!」


 あたしは笑った。

 困り顔のアイリーンはそんなあたしを見て、柔らかな笑みを浮かべる。

 あたし達は笑い合った。


 それは安堵の笑いだった。


 それにしても、長い一日だった。

 見知らぬ町を訪ね、首吊りの死体に迎えられ、喋るメガネザルと遭遇し、男に脅されたあげく四人の手下に追いかけまわされた。



 そして、ドクター・Sに出会えた。



 長い間ずっと捜してきた人。

 今、その人の家にいるこの状況がなんだか不思議だった。


 あたしはアイリーンの隣に置かれたベッドに腰を下ろした。「あたし達、間違ってなかったのね」

「うん」アイリーンは苦笑いした。「私達とりあえずまだ、死んでないし」

「そうね」


 あたしは両脚を思いっきり伸ばし、ベッドの上で大の字になった。気持ちよかった。


「ねえ、ジェーン」

「ん?」

 アイリーンは小さな声で、「ありがとう」と囁いた

「……何が?」

「私のこと、助けてくれた」

「うん。でもあたしには結局、何も出来なかったけどね」

「そんなことない。命懸けで私のことを助けようとしてくれた。それだけですごく嬉しい」


 そっか。


 そしてあたしはすぐ、深い眠りに落ちた。





 ……


 …………


 ……おーい……


 …………


 ……


 ……起きろー……


 ……


 ……もう昼過ぎだぞ……


 おーい……


 男の声がした。


「おい! 起きろ!」


 見知らぬ男の声で、あたしは目を覚ます。


 誰?

 誰の声?


 あたしはベッドから飛び起き、声の主をとっさに探した。


 だが男などいない。

 隣にはアイリーンが寝ているが、その他に誰の姿もない。


「俺はここだ!」


 また声がした。


 声の聞こえた方を向くと、テーブルの上に一匹の小さなサルがいた。


 あたしは寝起きのぼんやりとした頭をふわふわと揺らし、ねぼけまなこを擦りつつそのサルを見た。


「やっと起きたか」サルが言った。

「……サルが喋ったぁ!」あたしは叫んだ。


 サルは呆れ顔をして、「何寝ぼけてんだよ! もう昼過ぎだぞ!」


 へ? あたしは目をぱちくりさせた。


 隣のアイリーンが目を覚ました。


「はー、よく寝た」彼女はくしゃくしゃになった髪の中に手を突っ込んで頭を掻き、その美しい髪をさらに乱しながらあたしとメガネザルを交互に見た。「おはよう。ジェーンにナイル」

「お、おはよう……」あたしはようやく夢の世界から這いずり出た。


「おはよう。ようやく目が覚めたようだな、お二人さん」偉そうな口ぶりのメガネザルは続ける。「ドクター・Sが朝飯あさめしつくって待ってるぞ」


 溜まりに溜まった疲れで身体はぐったりとしている。

 まだこのまま一日でも二日でも寝られそうなくらいだ。

 だが“朝飯”という言葉を耳にして、いきなり強烈な空腹感があたしを襲った。


 昨日の昼からずっと、食べ物を口にしていなかった。


 欲求に従い、あたしとアイリーンは寝ぐせ頭のままナイルに連れられ小屋を出た。


 小屋を出た瞬間、太陽光があたしを直撃した。


「眩しいよー」朝一から文句を垂れるアイリーン。

「……眠い」あたしも、つい。

「どれだけ寝りゃあ気が済むんだよ」


 あたしとアイリーンは日光に頭を焼かれながら、重い足取りでナイルの後をついていった。


「ここだ」独り言のように呟いてナイルが小屋の前で立ち止まる。


 そこは、ランチョにある小汚い小屋の中では一番マシな部類の建物だった。少なくとも外見上は。


 入口のドアへと続く段差は砂で覆われ、窓枠に嵌まるガラスは白く汚れていた。

 ありあわせの木材でつくったかのような屋根は、太陽の光で変色していた。

 だがそれでも、あたし達が寝た小屋に比べたら幾分綺麗に思えた。


 あたしは扉を開けた。

 その瞬間、肉が焼ける芳ばしい匂いとコーヒーの豊かな香りが鼻をついた。


「やっと起きたな」小綺麗な白いシャツの上にエプロンを羽織ったドクター・Sがフライパンを片手に、あたし達を出迎えた。「もう少しでベーコンが焦げるところだったぞ」



 あたし達を待っていたのは、最高の朝食だった。

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