3-13 奴らを振り切れ!
肩にナイルを乗せ、足早に店から出ていったドクター・S。
ドクター・Sを追いかけるようにしてあたしとアイリーンはスイングドアから勢いよく飛び出した。
屈強な四人組の視線を背中に感じながら。
後ろを振り返る余裕はなかった。
彼らに追いつかれたらおしまいだ。
あたしは、彼ら四人組のリーダーの指を吹っ飛ばした老人と行動を共にしているのだ。もしあたしがあの四人組に捕まりでもしたら、指を失くすどころでは済まないだろう。
一刻も早く逃げなきゃ。
店を出た後、馬を繋いである場所へと向かってあたしは全力で走った。
アイリーンも必死に走る。
すでにドクター・Sは馬に乗っていた。
老人の右肩に乗っているナイルが、あたし達に叫んだ。「急げ!」
心臓の鼓動がみるみる早まっていくのを感じながら、あたしは馬に跨った。
「きゃっ」
アイリーンは焦ってしまって、うまく馬に乗ることが出来ない。
「落ち着いて。まだ奴らは店の中よ」
ガラス窓の向こう、大柄な四人の男達はまだ店内にいた。
彼らが悠長に歩を進め、スイングドアへと向かっていくのをあたしは目で追った。
「私達、殺されちゃうのかなあ……」ようやく馬に跨ることに成功したアイリーンがぼやいた。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」あたしは喝を飛ばす。「ようやくドクター・Sを見つけたのよ、こんなところで死んでる場合じゃないわ」
「……そうだね」
「とにかく、今は奴らから逃げることだけを考えなきゃ!」
馬を急発進させた。
アイリーンの馬も走り出し、あたし達は並走した。
前を行くドクター・Sを、あたし達は馬二頭で追いかける。
ナイルは、後ろ向きに老人の肩に掴まっていた。ドクター・Sの背後に目を光らせるためだ。
ドクター・Sは店を出て以来無言を貫いていた。
月明かりの中、無人の通りを全速力で駆ける三頭の馬。
ナイルは大きな目で注意深く、あたし達の背後を静かに見つめていた。
彼が黙っているということは、おそらくまだ四人組の姿は現れていないのだろう。
このまま振り切れるといいんだけど。
やがてあたし達は十字路に出た。
ドクター・Sは迷いなく右折した。あたしとアイリーンもそれに続く。
十字路は、あたし達がついさっき通った場所だった。
つまり、あたし達は来た道をそのまま引き返していることになる。
右折後の道は、何一つ照明が灯っていないせいでさらに暗かった。
あたし達の進む先にぶらぶらと奇妙に揺れる黒い影が見えた。
“インチキ”をしたという、あの死体だ。
こんなに早く再会出来るなんて思ってもなかった。
「ねえ、私達どこに向かってるの?」アイリーンがあたしに訊いた。
「あたしに分かるわけないでしょ。黙ってあの人についていくことしか出来ないわ」
「あのおじいさん、信用していいと思う?」
「まあね。……なんたってドクター・Sなのよ」
「このまま逃げ切れると思う?」
「逃げ切らなきゃ!」
ナイルが大声を上げた。
「来たぞ!」
あたしは後ろを見る。
十字路の角から、追手がその姿を現した。
「ドクター・S、もっと早く!」ナイルが言う。
「これ以上は無理だ」
十字路を曲がり終えた四人の男達が、馬に跨り猛スピードでこちらへやってくる。
彼らは信じられないほど早かった。
月明かりが四人の追手を照らし、恐ろしい姿が次第にあらわになっていく。
このままでは、追いつかれるのは時間の問題だった。
あたしは背後をちらりと気にしては前方に目をやり、また後ろを見た。
全速力で駆ける馬の手綱を、あたしはありったけの力を込めて握りしめた。
鞍の代わりに馬の背にかけてある毛布が少しずれた。緊張感がさらに高まる。
追手の足音はどんどん大きくなる。
あたしにはそれが、死の足音に聞こえた。刻一刻と迫る死の足音に。
「ジェーン、前! 前!」
アイリーンの叫びを聞き、あたしは前方に視線を戻した。
首つり死体の足が、あたしの目の前にあった。
「うわっ」
あたしは即座に屈み込む。
死体のブーツがあたしの頭上をかすめた。
危ないところだった。
あたしの髪に触れるか触れないか、本当にぎりぎりだった。
アイリーンのおかげであたしは落馬せずに済んだ。
耳をつんざく銃声。
一安心する間もなく、次の脅威があたし達を襲う。
銃声は背後から聞こえた。
追手が発砲したのだ。
「あいつら、私達に向かって撃ってるの?」
「それ以外、何があるってのよ!」あたしは声を張り上げた。
「撃ち返せ!」とドクター・S。
「こんなに暗いんじゃ、当たりっこないわ!」老人の背中に向かってあたしは叫ぶ。
「当たらなくてもいい、少しでも奴らを怯ませるんだ」
あたしは手綱から右手を放し、ガンベルトのリボルバーにその手をかけた。
人に向けて発砲したことなんて、一度もない。
だが躊躇している場合じゃない。
今はまさに、
ガンベルトから銃を抜いた。
親指でハンマーを起こす。
左手は必死に手綱を掴んでいる。
後ろを振り返り、追っ手に銃口を向けた。
ここからでは追手の表情までは伺えない。
それは却ってありがたかった。相手の顔を、撃つ前に直視などしたくはないから。
トリガーに指をかける。
指が震え、力が入らない。
数分前、あたしはサルーンで殺されかけた。
ドクター・Sに救われていなかったら、あたしはあの時あっけなく殺されていただろう。
自分の身を助けるのは自分だ。
殺される前に、殺す。
悲しいかな、ここは“西部”なのだ。
あたしは思い切ってトリガーを引いた。
轟く銃声、リボルバーを握る手には衝撃が走り、銃口が光る。
あたしは思わず目をつぶってしまう。
右手が温かかった。
火薬の匂いがした。
あたしは怖々と目を開けた。
そこには変わらず四人の追手の姿があった。
弾は誰にも当たらなかったようだ。
弾丸は残りあと五発。
すかさず奴らも撃ち返してきた。
しかも今回は何発もの銃声が一斉に響く。
あたしはまたリボルバーのハンマーを起こす。
「みんな大丈夫?」叫ぶように訊いた。
「今のところはな」ナイルの声。
「大丈夫だ」ドクター・S。
「大丈夫なんかじゃないよ!」これはアイリーン。
どうやらみんな無事なようだ。
あたしは追手に再度銃口を向ける。
彼らとの距離はさらに近くなっていた。
追手とあたし達との中間地点では、例の死体が相変わらずぶらぶらと揺れていた。
あたしは追手の一人に照準を合わせた。
努めて冷静に、リボルバーのトリガーを引く。
乾いた音が響いた。
またしても命中はしなかった。
あたしの放った弾丸は追手ではなく、よりによって死体を吊るしているロープに当たってしまったようだ。ロープがちぎれ、死体が落ちた。
失敗した、と思った。
だが次の瞬間、あたしはその考えを改めた。
追手の馬が一頭、目の前に突如として落ちてきた死体に驚いて急停止した。
全速力の馬がいきなり止まったのだ。馬に乗る男が馬から放り出されるのも無理はなかった。
男は放物線を描くように、派手に宙を飛んだ。
その後、彼は激しく地面に叩きつけられた。
馬はパニックに陥っているのか、乗り手を放り出したまま夜の闇へと消えてしまった。
あたしは追手の一人をやっつけたのだ。自力で。
まあ、まぐれではあるけど。
「一人減ったわ!」あたしは喜んだ。
「ナイスショットだったな」一部始終を見ていたナイルが言った。
「ジェーン、すごいじゃん!」
「……狙い通りね」あたしは澄まして言った。
追手は残るところあと三人。
リボルバーには残り四発ある。
あたし達は町の出口に差し掛かっていた。
町の外では、広大な夜の荒野があたし達を待ち構えている。
「町から出たら、一斉に広がろう。分かったか?」ドクター・Sが口を開く。
「分かった」あたしとアイリーンが声を合わせる。
あたし達はドクター・Sを頂点に、小さな三角形を形作っていた。
あたしは進行方向左側の頂点、アイリーンは右の頂点だった。
たしかにこのままみんなで固まっていたのでは、奴らから狙われやすい。追手とこれ以上距離が詰まれば、彼らが当てずっぽうに撃った弾丸ですらあたし達の誰かに当たってしまう危険性も高くなる。
ドクター・Sが町の境界線を抜けた。続いてあたし達もすぐさま町を後にする。
さよならジェンタ。
出来ればもう二度と訪れたくはない町だ。
そしてあたしは暗黒の荒野に舞い戻った。
町を出るなりあたしとアイリーンは速やかに左右に広がり、あたし達が形成する三角形はたちまち大きくなった。
お互いに会話が出来ないほどの距離が開いてしまい、そのことがあたしを少しナーバスにさせた。
アイリーンはリボルバーどころか武器の一つも持っていない。そのことも気にかかった。
後ろに目をやると、三人の追手もすでに町の出口に近づいていた。
無人の建物が並ぶうらぶれた町のメインストリートを駆け抜ける三人。
暗闇に浮かぶ彼らは、死神のようだった。
彼ら三人組も町を抜けると大きく左右に膨らんだ。
あたし達それぞれに、一人ずつ追手をつけるつもりなのだろう。一対一で追い詰めようとしているのだ。
ドクター・Sの指示に従い荒野に散ったはいいが、あたしはこれから一体どうしたらいいのか分からなかった。
馬上では銃の狙いをつけることすらままならないあたしと、丸腰のアイリーン。
頼りに出来るのはサルを肩に乗せた老人ただ一人。
そんなあたし達を追う屈強な三人の男達。
そして距離は刻一刻と近づいている。
どう考えても、あたし達は分が悪かった。
追手を確認するためにあたしは振り向いた。
あたしの真後ろに、男が一人いた。
右手にはライフルが握られている。
リボルバーより一回りも二回りも大きなライフルは、その姿だけであたしの恐怖心を増幅させるのには十分だった。
ライフルは射程距離が長いことに加え、威力、そして命中精度もリバルバーのそれを上回っているのは言うまでもない。
死にたくない。
“死”を身近に感じてはじめて、人は自らの“生”がどれほど危うい綱渡りの上でかろうじてバランスを取っているかということに気づかされるものだ。
こんな場所で、あたしは死なない。
死ぬわけにはいかない。
アイリーンとドクター・Sにもそれぞれ追手が迫っていることだろう。
武器を手にしていないアイリーンのことが気がかりだが、まずは自分の命だ。
あたしが無事でないことには、アイリーンを救うことも出来ない。
背後でライフルが火を吹く音が響いた。
幸運にも、その弾はあたしをかすりもしなかった。
しかしこのまま逃げ続けていたのでは、距離をさらに縮められ、至近距離からライフル弾で撃ち抜かれてしまうのがオチだ。
あいつを殺さなきゃ。
だけどどうやって?
イチかバチかの賭けに出ることにした。
あたしは馬を左方向にカーブさせ、左回りの大きな輪を描くように馬を走らせた。
馬はスピードを保ったまま走り続けてくれた。ライフルはあたしに向かっていくつか弾丸を送り出したが、命中はしなかった。
あたしの馬は半円を描き終え、あたしとライフルの男は真正面から対峙する格好となった。
男がこちらへ向かってくる。
暗闇に浮かび上がる彼の目。
逃げて死ぬくらいなら、立ち向かって死んだ方がいい。
あたしは、男に向かって一直線に馬を走らせた。
ライフルの男は戸惑っているはずだ。
逃げていた少女が突如くるりと向きを変え、自分に向かって突進してきているのだから。
ライフルの銃口は下を向いていた。
あたしに勝機があるとすれば、今しかない。
恐怖を克服するには、恐怖に真正面から立ち向かうことだ。
覚悟を決め、歯を食いしばる。
あたしの馬は死神に向かって疾走する。
男との距離がみるみる縮まる。
男の顔がはっきりと見える。
あたしは恐怖心と焦りを、努めて胸の底に沈めた。
静かにハンマーを起こし、照準を定める。
落ち着け、落ち着くんだ。
男の顔が驚きに引きつっていく様子があたしの目に映った。
時間の流れが遅い。
思い出したように、男がライフルを構えようとする。
銃声。
右手に反動。
黒い液体が、男の背中から派手に噴き出た。
命中だ!
男の全身の筋肉が弛緩し、彼はゆったりと優雅に落馬した。
地面に叩きつけられる際のどさっ、という音があたしの耳に突き刺さった。
人を撃ってしまった。
止まっていたあたしの心臓が、いきなり動き出す。
胸が痛かった。比喩なんかじゃなく、本当に激しく痛んだ。
生まれて初めて、人間を撃ち殺した。
あたしが撃たなければ、あたしが殺されていた。仕方のないことなのだ。
それは分かっている。
とはいえ、やはり重苦しい罪悪感を拭うことは出来ない。
心臓を直接押しつぶされているような心地だった。
だがまだ敵は二人いる。
罪悪感に飲み込まれている場合ではない。
弾丸は残り三発。
アイリーンの叫び声。
あたしはすぐさまアイリーンの方を向いた。
丸腰のアイリーンは両手で必死に手綱に掴まり、一人の追手から逃れていた。
彼女と追手の距離が、じんわりと残酷なペースで詰まっていくのが見えた。さっきまでの自分を客観的に見ているような気がした。
アイリーンが危ない。
あたしは馬を走らせた。
アイリーンの場所まではかなりの距離があった。
ドクター・Sと彼の追手もまた別の追跡劇を繰り広げていたが、彼らの方があたしには近かった。
ドクター・Sとアイリーン、あたしが二人を救おう。
あたしは腹を決めた。
追手のいないあたしにしか、二人を救うことは出来ないんだ。
あたしは弾丸のように突進していった。
まず、ドクター・Sを追う男に近づいた。
男はドクター・Sを追うことに夢中で、斜め後ろから迫るあたしにはまだ気がついていない。
この男を片付けよう。
あたしは銃を構えた。
馬の足音で、男はあたしの存在に気づいてしまった。
男はすかさずあたしに銃を向ける。
男はまだ若かった。それに、童顔だ。
あたしやアイリーンと比べても、大して歳の差はないだろうと思われた。
少し丸みの残る顔立ちは、所謂悪人面とはかけ離れていた。
一瞬躊躇したが、自分に向けられている銃口を目にしたことであたしは緊張の糸を切らずに済んだ。
立て続けに二発、幼い顔をした男に見舞った。
男には撃ち返す暇もなかった。
二発の内少なくとも一発は命中したようで、若い男は低い声で呻きつつ左腕を右手で庇った。あたしの放った弾丸は彼の左腕に当たったのだ。
彼は、落馬はしなかった。
これで一人片付いた。
残るはもう一人だけ。
左腕を庇いつつ呻き声を上げる男の目前をあたしは駆け抜け、アイリーンを追う男のもとへと急いだ。
自信のつきはじめたあたしは、自分の中に眠るガンマンの血が徐々に目覚めていくような感覚を味わっていた。
馬と一体となり、リボルバーまでも自分の身体の一部であるかのような気がしていた。
アイリーンのドレスの裾が激しく揺れている。
馬にしがみついている彼女が見えた。
彼女を追うのは、やたらと背の高い男。
男の上半身を見ただけでも、彼の並外れた長身ぶりが想像出来た。
長身の男はアイリーンに向けて発砲した。
男とアイリーンとの距離を考えると、弾丸が彼女に当たる可能性も決して低くはない。
アイリーンはきゃっ、と声を上げたが、その後も彼女は馬にしがみつき続けていた。
どうやら無事なようだ。
とはいえ、いつ彼女が撃たれてもおかしくない状況ではある。それに、状況は悪化していく一方だ。
事態は一刻を争う。
あたしは焦った。
このままではアイリーンが危ない。
パニックに陥りかけたあたしは、追手の注意をアイリーンから逸らそうと彼に向けて一発撃った。
男に当たるつもりでは撃っていない。男とあたしにはいまだ大きな距離があった。
狙い通り、アイリーンを追う男にあたしの存在を気づかせることが出来た。
男はすぐさまあたしに撃ち返してきた。
そして彼は馬を方向転換させ、あたしに向けて走らせた。
あたしも怯まず、男に向かっていく。
撃たれる前に、撃て。
あたしは銃のハンマーを起こした。
照準を男に合わせる。
そしてあたしは躊躇なくトリガーを引いた。
発砲音の代わりに聞こえたのは、かちっ、という情けのない音だった。
状況を理解したあたしは凍りついた。
弾切れだ。
自分の愚かさが怖かった。
あたしは丸腰で、銃を持った相手のもとへと疾走しているのだ。
完全に我を忘れてしまった。
馬の向きを変えることも、誰かに助けを求めることすらも出来なかった。
絶望に包まれたまま、あたしは馬に揺られ続けた。
真正面から迫り来る長身の男。
顔は細長く、ハットが彼の面長をことさら強調していた。
あたしが生前最後に目にする光景がこの顔なのかと思うと、なんだか虚しくなった。
そんなことを考えている内にも、男との距離は詰まっていく。
それもそのはず、我々はお互いに向かって全力疾走しているのだ。
彼が持つリボルバーを見た。
銃身は黒く、あたしのよりも長かった。
銃口はあたしに向いている。あたしは銃口に吸い込まれるような錯覚に陥った。
向けられた銃口を正面から覗き込んだ経験のある者にしか分かってもらえないだろうとは思うが、それは死神の鎌の輝きを目の当たりにした時に感じるのと似たような心境だった。
あたしは観念し、目を細めた。
死の瞬間を待つ。
一発の銃声が響いた。
びちゃ、と黒い液体が炸裂した。
長身の男の胸の辺りから。
あたしは細めていた目を見開いた。
男は馬の上で一瞬硬直し、その後背中から派手に落馬した。
救われ、た?
あたしは、銃声の聞こえた方角にすぐさま向き直った。
そこにはドクター・Sがいた。
ドクター・Sの構えるリボルバーの銃口から、煙が立ち上がっている。
老人の口は固く閉じられていた。落ち着き払った表情だ。
あたしは呆然としたまま、感謝の言葉すら出てこない。
「伏せろ!」ドクター・Sが口を開く。
あたしは言われるがまま、すぐさま上半身を伏せる。
乾いた銃声がまた、夜の荒野に響いた。
次いで呻き声が聞こえた。
聞き覚えのある呻き声だった。
それはドクター・Sの声ではなかった。
あたしは伏せた姿勢のまま顔を少しだけ上げて、呻き声を上げた男を探した。
右後方に、童顔の若者がいた。
先ほどドクター・Sについていたあの男だ。片付けたとばかり思っていた男。
あの時あたしが撃った弾は、たしかに彼の左腕に命中していたというのに。
どうやらそれは、男に致命傷を与えるには及ばなかったのだ。
男は左腕を力なく垂らしたまま馬に跨っていた。
彼の右手にはリボルバーが握られている。リボルバーの銃口は、あたしに向いていた。リボルバーのハンマーは起こされたままだ。
彼は喉元から、掠れるような呻き声を漏らしていた。
ドクター・Sは、たった一発で男に致命傷を負わせたのだった。
老人の銃撃を受けたその男は、首から黒々とした血液を流すがままにしていた。
ドクター・Sの銃弾は、彼の首に命中したのだ。
やがて男は力なく落馬し、彼の馬は主人を残して走り去った。
「もう大丈夫だ」ドクター・Sは告げた。
あたしはゆっくりと上半身を起こした。
自分がまだ生きているということが不思議だった。
あたしはまるで自分の“命”を噛みしめるかのように、浅い呼吸を何度も繰り返した。
またしても、あたしはドクター・Sに救われたのだった。
自分の情けなさが身に染みた。
何度彼に救われれば気が済むというのか。
あたしのすぐ脇に、二体の死体が転がっていた。
辺りは生臭い血と煙の臭いで充満していた。
「終わった……の?」
「ああ。お前さんはよくやったよ」ドクター・Sの肩の上から、ナイルがあたしに声をかけた。
あたしはようやく、窮地を脱したことを実感した。
アイリーンがあたしのもとへと馬で駆け寄った。「大丈夫だった?」
「なんとか、ね。ドクター・Sが助けてくれたし」
「よかった……。ジェーンが無事でホントよかったよ……」アイリーンは安堵の表情を浮かべる。「もう追手はいないのよね?」
あたしは大きく息を吐きつつ、頷いた。
「よし、家に帰ろう」
ドクター・Sは、平然とした調子でそう言った。
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