3-11 飛び散る鮮血
いつの間にかミュージシャンは演奏を止め、店内には話し声どころか物音一つ聞こえなくなっていた。
もはやサルーンにいる人間は一人残らず、あたし達の睨み合いに注目していた。
実際に息を飲む音が聞こえてくるほど不気味に静まり返っている。
あたしと革のジャケットの男は向かい合ったまま、身動き一つしない。
男はあたしに銃を抜かせようとしている。
あたしが抜いた瞬間に、彼は早撃ちであたしを殺すつもりなのだ。そうすれば、あたしを殺したところで彼は罪に問われない。
男にとって、こんな状況は日常茶飯事に過ぎないのかもしれない。
彼が今まで何人のガンマンを墓場に送ったのかなんて見当もつかないし、考えたくもなかった。
あたしはもちろん、ホルスターからリボルバーを抜くつもりなどない。
もしリボルバーに手をかけようものなら、あたしは銃のハンマーを起こす間も与えられず彼に殺されるだろう。
向こうはおそらくプロのガンマン、対するあたしはずぶの素人だ。
あたしに勝ち目などあるはずがないのだ。
それに、いくら腹を立てていようとあたしは感情に任せて人を殺すようなタイプの人間ではない。
挑発に乗せられるほどの間抜けでもない。
あたしがリボルバーを抜く素振りを見せなければ、あたし達はどちらも死なずに済む。
男にいくらそそのかされようが、あたしが銃を抜かない限り誰も死ぬことはない……はずだ。
ふと不安がよぎった。
ここはジェンタ。西部の“常識”が通用しない町だ。
この町には、
それに加え、目の前の男はこの町でもトップクラスに危険な男だと思われる。
あたしがリボルバーを抜く抜かないに関係なく、いきなり彼があたしに発砲する可能性だって十分にあるということだ。
「どうした? 抜かないのか?」
男の口調は穏やかだった。
その言葉は静かな狂気を孕んでいた。
彼の目は、人殺しの目だった。
あたしはヘビに睨まれたカエルだ。
ぎょろついた目が、獲物であるあたしをひたと見据えている。
あたしはただ震えていた。
手が凍るように冷たい。
あたしがリボルバーに手をのばせば、その瞬間に撃たれる。
かといって何もせずに立ちすくんでいても、無残に撃ち殺される可能性は否定出来ない。
チェックメイトだ。
打つ手なし。
バケモノへの復讐を果たすどころか、ドクター・Sに出会う事すら叶わずにここであたしは死ぬんだろうか。
右手とリボルバーの間に、途方もなく距離があるような気がした。
右手は小刻みに震えてしまって使い物になりそうもない。
死を覚悟した。
そして次の瞬間、あたしは本当に死を味わった。
まず、男が動いた。
男の右腕が時計の振り子のようにゆったりと――少なくともあたしにはそう感じられた――下ろされ、彼の右手がホルスターのリボルバーに触れた。
ホルスターに収まっていた銃が抜かれた。あたしはその様子を傍観している。
シルバーの銃身。
下を向いた銃口が、残酷な正確さであたしの身体へと向けられる。
ハンマーを起こすため彼の左手がリボルバーへ近づく。
左手の小指がハンマーの突先にかかる。
すべての動きがスローに見えたが、実際には一秒も経っていないはずだ。
ハンマーが起きた。
と同時に銃声が響く。
撃たれた。
そう思った。
そして死の感覚が、あたしの全神経を支配した。
己の身体が、徐々に自分のものではなくなってしまうような不思議。
硬直した筋肉がそのまま彫刻になってしまうような――。
だがあたしの目には、そんな感覚とは矛盾する光景が映っていた。
指が一本、宙に飛んでいる。
鮮血をまき散らしながら。
くるくると回転しながら飛んでいく指。
回転に伴い、赤い液体が弧を描く。
切断された指。
曲がった関節、爪。
あまりに非現実的な場面に、恐怖どころか何の感情も湧いてこない。
指はやがて、木製のテーブルの上へと着地した。
静寂の後、男の絶叫がサルーンの窓を震わせた。
痛みと怒りが混然一体となったような激しい叫びが、あたしの耳をつんざく。
男のリボルバーが床に落ちる。
あたしを挑発した茶色のジャケットの男は、失った右手人差し指の付け根を左手で庇い、悶絶しはじめた。
この時点でようやく、あたしは自分が撃たれたわけではないと悟った。
撃たれたのはあたしではなく、男の方だったのだ。
撃ったのはもちろんあたしじゃない。
あたしは、男がリボルバーを抜く様子をただ見つめていただけなんだから。
何者かが男の指を撃ち抜いたのだ。
リボルバーを握る彼の指を。
でも一体誰が?
あたしは店内を見回す。
あたしを救ってくれた人間はどこにいるのか。
床に膝をついて手から血を流す男、その様子を黙って見ている彼の四人の仲間、酔いがすっかりさめてしまった客達、目を丸くして微動だにしないアイリーン、テーブルの上にいるナイル……、
あたしの目が留まった。
銃を構えた老人がいた。
老人は、極めて異質な存在感を放っていた。
彼のリボルバーの銃口からはいまだ煙が立ち上っている。
痩せた老人。
顔には皺が目立ち、頬は痩せこけている。
知性を感じさせる鋭い眼光は、だが同時に野生的でもあった。
顔は縦に長く、上下の唇は強く閉じられている。
目尻は下がっていて、目の下には老人特有のたるみがある。
都会的なスリーピースのスーツに痩せた老体を押し込めた謎の男。
ネクタイをした人間など、この店では彼一人に違いない。
彼の帽子もまた、そこらのカウボーイが被っているようなものではない。
そのハットは彼のスーツと同じような色合いをしたグレーで、カウボーイハットとはまるで違った印象だ(後で知ったことだが、彼のようなハットを東部では“フェドラ”と呼ぶらしい)。
腰のホルスターは黒く、ガンマンのようなそれは彼の装いにあまり合っていないように感じられた。
リボルバーを握る指は上品に長く、骨ばっていた。
誰もが口を噤む中、老人が口を開いた。
抑揚に欠けた調子で、まるで文章を読み上げているような口調だった。
彼の声質も独特で、棘があってしゃがれている。
「悪いな。だが君の差別的な言動は聞くに堪えなかったのでね」老人はリボルバーを収める。「先住民がどうの女がどうのとほざくんじゃない、男のクセに」老人は皮肉を込めてそう言い放った。
撃たれた方の男はというと、老人に反論するどころか立ち上がることすら不可能な様子だ。
男のリボルバーは店の床に無残に転がったままだった。
どうやら危機は去ったらしい。
あたしは胸を撫で下ろした。
あたしは窮地を救われたのだ。
謎の老人によって。
アイリーンと目を合わせ、二人して大きく安堵の息を吐いた。
やがて人々は何事もなかったかのようにまた酒を飲みだし、ある者は賭け事に戻り、ある者はごそごそと会話をはじめた。
ミュージシャンは演奏を再開した。
痩せた老人は、こんなこと朝飯前だとばかりに平然とした表情を浮かべている。
年齢は、七十は優に超えているように見えた。
あたしは老人に感謝を述べようと、口を開きかけた。
しかしナイルの言葉を聞いて、あたしはその口を閉じた。
テーブルの上から、ナイルが老人に向かってこう呼びかけたのだ。
「ドクター・S!」
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