3-9 メガネザルのナイル

 テーブルの上のサル。

 サルと見つめ合うあたし。


「なんだよ」サルが口を開く。

「しゃ……喋った……」あたしは、今にも気を失ってその場に倒れ込んでしまいそうだった。


 驚いて当然だ。

 だって、サルが喋ったんだから。


「喋っちゃいけないのかよ」サルがまた人間の言葉を口にした。


 はー、と息を吸う音が聞こえた。

 驚きのあまり声も出せず、その代わりになぜかアイリーンは勢いよく息を吸っていた。


 サルなんて、本に載っている絵などでしか見たことがない。

 あたしの目の前にいるサルはしかし、本で見たのよりもずっと小さかったし、それになんだか妙なフォルムをしていた。

 このサルは、あたしの手の平に乗ってしまえるほどの大きさだ。

 手の指などは非常に細い。まるで赤ん坊の指だ。いや、もっと細い。


 そして、目がやたらと大きかった。

 小さな顔の内、目の占める面積はおよそ三分の一程度あった。


 そんな大きな目が二つ、ぎょろっ、とあたしを見つめる。


 申し訳程度についている両耳は布切れのように薄く、光が透けて見えた。

 小ぶりな鼻と口は可愛らしく、まるでぬいぐるみのようだ。


「あなた……一体何……?」とあたし。

、ってことはないだろう」サルは不機嫌そうに言った。「いきなり尻尾踏んづけておいてそんな質問するなんて、ずいぶん失礼な奴だ」

「ごめんなさい……。でもあまりに驚いてしまって」

「俺はナイルだ」

「ナイル?」

「ナイルって名だ。お前さんは?」


 サルが名乗った。あたしはキツネにつままれた気分だ。いや、サルか。


「えーっと……あたしはジェーン。それから、隣にいるのが」

「……アイリーン」

「ジェーンと、アイリーンだな」サルは言った。


 サルは目を動かさず、顔全体を動かすことによって視線を移動させた。

 人間の黒目にあたる部分はのように小さく、どこを見るにもそれはずっと目の中心にあった。


「ねえ、一つだけ訊いてもいいかしら」まだ夢を見ているような感じがする。

「なんだ?」

「なぜ、あなたは喋れるの?」

「喋りたくて人間の言葉を喋ってるんじゃないさ。人間の言葉しか喋れないんだ。メガネザル同士での会話が出来ない代わりにな」

「メガネザル?」とアイリーン。

「ああそうさ。俺だって、ただのメガネザルとして普通に生まれたかったもんだよ」ナイルはアイリーンに目をやった。「だが俺はヒトの言葉を喋るバケモノとして生まれちまった。何もかもシード計画のせいだ」

「……計画?」あたしは訊いた。

「あー、忘れてくれ」ナイルは手をひらひらと振った。「とにかく、正気を失った人間達のせいで俺みたいなバケモノが生まれたってことさ」

「それにしても、可愛らしい手」アイリーンは屈んで、メガネザルのか細い指に触れた。


 メガネザルのナイルは手を引っ込めた。


「やめてくれ、可愛らしいだなんて。俺の方がお前さん達なんかよりもずっと長いこと生きてるんだぞ」

「そんなにちっこいのに?」アイリーンは無邪気に言った。

「大きさは関係ないだろ」


 憤慨する小さなナイル。


「なんであなたはここにいるの?」質問の止まらないあたし。

「連れがここに来たがったもんでな」ナイルは続けて「それにしても、ここはいい店だろ? そう思わないか?」

「そうは思えないわ」

「そうだね」アイリーンもあたしに同意する。

「俺みたいな奴にとっちゃ、天国みたいな場所だ。ここなら誰に気にされることもなく酒が飲めるしな。ここにいる連中は、みんなどっかから逃げてきたようなのばっかりなんだ。他人のことなんか気にしちゃいない」ナイルはしみじみと周囲を見渡して、「ここには古き良き西部がかろうじて息づいてる。言ってみりゃ、“自由”の墓場みたいな場所だ」

「自由の墓場だなんて。西部には、まだまだ自由が残ってるでしょ? 開拓されてない場所だっていっぱいあるし」アイリーンが言った。

「それは違うぞ、アイリーン。東部は完全にやられてる。西部にだって、もうすでに“支配”の魔の手が伸びはじめてるんだ」

「支配?」とあたし。

「そうだ。下手をするとこの店でも、誰かさんが目を光らせているかもしれないしな」

「誰かさん、って一体誰の事? ていうかあなた、東部を知っているの?」知りたいことがたくさんあった。

 ナイルは少し考えてから言った。「いや、もう質問はなしだ。要らないことを言って悪かったよ」


 しばらく沈黙が続いた。


 それにしても、喋るメガネザルがいて誰からも注目されないのが不思議だ。

 ナイルより、あたし達のほうがよっぽど不審がられたくらいだ。

 彼はこの店の常連なのだろうか。


 沈黙を破ったのはナイルだった。


「そういえばお前さん達こそ、なぜこんな物騒な町のサルーンになんかいるんだよ?」

「それは……」

「人を捜しているの」アイリーンが答えた。「ドクター・Sって人なんだけど……。まあ、あなたが知ってるわけもないよね」


 ドクター・Sという言葉を耳にした時、ナイルは明らかに動揺した。

 その瞬間をあたしは見逃さなかった。


 すぐに気を取り直した彼は、取り繕うように言った。「残念ながら、そんな名前一度も聞いたことがない」


 それきりナイルは、あたし達に背を向けてしまった。

 そして自分の体より一回りも大きなグラスを両手で持ち上げてウィスキーを煽った。


 あたしはアイリーンに耳打ちした。「絶対嘘ついてる」

「そう? メガネザルって嘘なんてつけるのかな」

「人間の言葉を喋って、お酒まで飲んでるんだよ? あのサルだったら嘘くらい簡単につけるわよ」


 ナイルの耳がぴこっ、と小さく動いた。

 あたし達の会話が聞こえてなければいいんだけど。


 あたしは確信していた。

 ナイルは絶対にドクター・Sを知っているはずだ。


 ナイルがこの店の常連なら、ドクター・Sもまたそうなのだろうか。

 もしかすると、この店のどこかにドクター・Sもいるかもしれない。

 メガネザルはとここに来たと言ったが、その連れがドクター・Sである可能性だって否定は出来ない。


 それにしてもなぜ、ナイルはドクター・Sのことを隠そうとするのだろう。

 ドクター・Sの名を耳にしたナイルは、何者かに怯えているようにも見えた。彼は警戒していた。


 何にせよ、あたし達がドクター・Sに迫ってきていることは確実だ。

 やはり自分達は間違っていなかった。それを知るだけでも、多少心の支えにはなる。


 あとは、あのメガネザルからどうやって情報を引き出すか、というところだ。


 そんなことを考えつつナイルの小さな背中を眺めていたら、スイングドアが威勢よく開かれ、男達がどかどかと入ってきた。


 先頭にいるのは茶色い革のジャケットを着た若い男。

 その後ろには四人の男達。


 先頭の男は都会的な顔立ちをしていて、荒野の砂ぼこりとは縁のなさそうな人間に見える。

 目は切れ長で、皺のない白い肌は輝いていた。

 短い髪は彼の綺麗な顔を際立たせていた。


 彼は背後の四人に何かを指示した後、一人でカウンターへ向かった。

 男の喋り方、目つき、姿勢、動作、そのどれもが彼の持て余すほどの自信を周囲に喧伝しているかのようだった。


 彼がカウンターに辿り着く頃には、あたしやアイリーン、ナイルを含めた客の多くがその男に注目していた。


「ビール」バーテンダーに注文する男の声を、その場にいる客達は注意深く聞いた。


 男と共にやってきた他の四人は、店の隅で酒も飲まずに立ち話をしていた。

 カウンターの男と違って、彼らは一般的な西部の男といった風情だった。


 グラスいっぱいに入ったビールがカウンターの上を勢いよく滑り、注文をした男の手へと収まった。


 ビールを受け取った彼は、グラスを片手に店内を観察した。

 それまで男を見つめていた客達は、彼と目が合わないように視線をずらさなくてはならなかった。

 あたしもまたそうするべきだったのだがそのタイミングを逸してしまい、男と目が合ってしまった。


 男はあたしの目を見たが、すぐに彼の方から視線を外した。

 一瞬あたしの全身に緊張が走ったが、どうやら男はあたしになど何の興味もないようだ。


 彼は素早い目の動きで店内を注視し続けた。



 男の目が止まった。



 男はある一点を見つめている。

 あたしは、男の目線の先を追った。



 目線の先には、アイリーンがいた。

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