3-5 ジェンタのヴィジョン

 ヴィジョンを見たのは九日前の夜のことだ。

 アイリーンとの旅が始まって、まだ二週間しか経っていない頃のことだった。


 あたし達はその頃、完全に途方に暮れていた。

 アイリーンは父を亡くしたばかりだったし、あたしは自分自身の無力さに改めて気づかされて打ちひしがれていた。


 復讐の相手がどこにいるのか見当もつかないし、あたし達の唯一の救いであるドクター・Sについての情報も何一つ得られていなかった。


 あてもない旅を、二週間続けた。

 その間様々な人に聞き込みをして回った。

 成果はゼロで、ただ無力感と疲労だけが溜まっていった。



 そんな時だった。

 安ホテルのベッドで、“ジェンタ”のヴィジョンを見た。



 旅の途中仕方なく立ち寄った寂れた町の薄汚れたホテルで夜、不思議な夢を見たのだ。


 カビ臭いダブルベッドで、あたしとアイリーンはお互いの背中を向け合いながら横たわっていた。

 あたし達が少し動くだけでベッドは耳障りに軋んだ。


「剥がれかけの壁紙ほど気が滅入るものって他にないよね」などとアイリーンは相変わらず文句を言っていた。


 寝苦しい夜だったが、アイリーンが眠りに落ちてから少しして、あたしも寝てしまった。



 夢の中で、あたしは彷徨っていた。


 アイリーンもいないし、他の誰一人としてあたしの周りにはいなかった。

 馬もいない。


 あたしはただ一人、目的もないままに荒野を歩いていた。


 持ち物はなく、リボルバーもなかった。それがあたしを不安にさせた。

 疲れと喉の渇きでぐったりとしていたが、夢の中のあたしはそれでもなぜか歩みを止めはしなかった。


 どこを目指すのか。

 あたしは一体、何がしたいのか。


 太陽はちょうど真上に位置していて、方角すらも分からない。


 見渡す限り何もなく、誰もいない。


 空っぽの荒野、だな。

 なんてことをぼんやりと考えるあたし。


 あたしにはもう誰もいないんだ、とふと思う。


 父と母の記憶もないし、祖父に会った記憶だってない。

 あたしにはおばあちゃんしかいなかった。


 だけど、おばあちゃん一人で十分だった。

 だって、温かくて穏やかで情熱的な愛であたしを包んでくれるおばあちゃんさえいてくれれば、それ以上何も望むことなどないんだから。


 おばあちゃんが死んじゃって、あたしは本当に一人ぼっちになっちゃった。


 一人ぼっちになって初めて、自分は何も持っていない人間なんだ、ということに気づいた。


 知識もない、力もない、勇気もない……。

 武器もまともに扱えない、料理も出来ない、狩りをすることだって出来ない。


 あたしは何者でもない。



 空っぽなのは、あたしの方だ。



 陰鬱な気持ちでふらふらと、何もない世界を歩く。

 空っぽの荒野を、空っぽのあたしが彷徨う。

 空っぽと空っぽとが混じり合い溶け合ったら、最終的にこの世界には不安と悲しみだけが残るのかな、なんて空想してさらに憂鬱になる。


 どこからか、声が聞こえてきた。


 暖かな風のような声。耳にしているだけで安心感が心の底からこみ上げてくるような、そんな声。

 おばあちゃんの声だ。


 おばあちゃんの声に違いない!


 あたしは懐かしい気持ちになって叫ぶ。


「おばあちゃん? どこにいるの?」あたしは辺りを見回した。「……おばあちゃん? いるんでしょ?」


 おばあちゃんの姿はどこにも見当たらない。

 しかし声は聞こえ続けている。その声はあたしの名を呼んだ。


 “ジェーン、ジェーン……”


 その声はあたしの耳元で発せられているようだった。


「おばあちゃん?」


 “ドクター・Sを捜して……”とその声は告げた。


「おばあちゃん、いるのなら出て来て。もう一度だけでもいいから、会いたいの」


 “ジェーン、ドクター・Sを捜すのよ”


「おばあちゃん! おばあちゃん!」今にも泣きそうになりながらあたしは叫んだ。


 だがやはりおばあちゃんは出てきてはくれない。

 耳元で聞こえていた声も遠ざかっていく。


 “ジェーン”、と小さく呼ぶ声が聞こえたのを最後に、それ以降は何も聞こえなくなってしまった。


 おばあちゃん……。

 束の間の喜びは一瞬にして過ぎ去り、おばあちゃんを亡くした喪失感が改めてあたしに襲い掛かった。



 あたしはついに、歩みを止めてその場に立ち尽くしてしまった。



 あたしはどこへ行けばいいのか、何をするべきなのか。


 欠落感と無力感でいっぱいになり、思いっ切り泣きたいような気分だったが、その水分すら身体には残されていない。


 あたしは空を見上げた。

 頂点に位置する太陽はなんにもない世界を残酷に照らし、あたしは太陽に責められているような心地さえした。


 あたしの視界に何かが入った。

 小さな、動く点のような何か。

 動きと共に、羽音がぶん、と微かに聞こえる。


 ハチだった。


 鮮やかな黄色に、黒のラインが印象的だ。

 小さな羽を震わせて、あたしの顔の少し上を飛んでいる。


 ハチはあたしのパワーアニマルだ。


 しばらく空中を漂った後、ハチはやがてあたしの鼻の上に止まった。鼻がくすぐったい。


 あたしは思わず笑みを浮かべる。

 刺されるかもしれない、という恐怖はなかった。


「あなたも一人ぼっちなの?」


 あたしはハチに訊いたが、もちろん返答などない。


 鼻の上で必要なだけ休息を取ると、ハチは再び羽を震わせ、広い空へと飛び立っていった。


 好奇心から、あたしはハチの後を追うことにした。


 ハチは下降と上昇を気ままに繰り返していた。まるで飛ぶこと自体を楽しんでいるかのようだ。

 あたしは無心で目の前のハチを追いかける。


 ハチのおかげで、喉の渇きも疲労もあまり気にならなくなっていった。


 あたしの足取りは次第に軽くなり、さっきまでの落ち込んだ気分も、ハチの羽音で次第に癒されていく。


「あなたは自由でいいね」


 ぶん、と、まるであたしの声に反応するかのようにタイミングよくハチは羽音を鳴らす。

 あたしは軽く笑って、それからも相変わらずハチのストーキングを続けた。


 ふと、目の前に町があることに気がついた。

 あたしの眼前にいきなり町が出現した、といった感じだった。

 夢の中では、そんな不自然なこともすんなりと受け入れてしまえるものだ。あたしは特に不思議に思ったりはしなかった。


 あたしは町を観察した。


 町に人はいなかった。

 連なる建物の中にも人気は感じられない。

 いやにひっそりとしている。


 メインストリートと思しき通りはぬかるみが酷く、通りに面して掲げられている看板はどれも色褪せていた。

 まるでゴーストタウンだ。

 ゴールドラッシュに沸いたブームタウンの成れの果て、といったところだろうか。


 町の入り口に達するとハチは前進を止め、一定の高さを保ってホバリングをした。


 小さな町。

 この町はもうすでに死んでいるか、もしくは今まさに死にかけているところだ。

 “死”の匂いがぷんぷんする。


 ハチはゆっくりと下降をはじめ、落ちている木材に止まった。羽を休めるつもりらしい。


「ここが気に入ったの?」


 ハチは沈黙を守っている。


 ハチが止まっている木材は、どうやら看板か何かのようだった。

 腐りかけの木の板には文字が書いてあった。


 町の入り口付近に落ちている看板だ。おそらく、町名を記してあるのだろう。

 腰を屈め、あたしは文字を読んだ。


「ジェンタ……」


 開いたその口が閉じる間もなく、唐突にハチが猛烈なスピードで飛び上がり、あろうことかあたしの口の中へと入っていった。


 衝撃の事態。

 あたしは声にならない声を漏らし、勢いよくベッドから飛び起きた。


 必死に口の中からハチを吐き出そうとするが、なかなか出て来てはくれない。


 そんなあたしを無言で、怪訝な顔をして見つめるアイリーン。

 あたしは馬鹿みたいに口を開けたまま、アイリーンを見つめ返す。


「……大丈夫?」


 アイリーンがあたしを心配している。

 あたしは状況をとっさに理解する。


 夢だ。

 夢を見てたんだ。


 あたしは口を閉じる。



 夢だ。

 でもこれは、ただの夢なんかじゃない。



 おばあちゃんの声……ドクター・Sを捜せという声……パワーアニマルのハチに導かれ……町の名を記した看板が……

 一瞬にして、頭の中でそれらすべての意味が繋がり合う。


 点と点がつながり、線となる。


 これは啓示だ。

 夢という形で、あたしに訪れたヴィジョンなのだ。


 雷に打たれたように、あたしは叫んだ。



「ジェンタ!」



 アイリーンはぽかんと、不思議そうな表情を浮かべていた。

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