3-2 虐殺

 ティーピーがさらに破けた。


 大きな槍のような黒い物体が、ティーピーを突き破ったまま動く。

 革で出来ているティーピーが無残にもびりびりと破けていき、同時に謎の黒い物体の姿が徐々にあらわになっていった。


 黒い物体は、槍や斧などの道具ではなさそうだ。

 動きを見ていればそれが分かる。


 黒い物体はテントの革を破こうと、意識的に動いているようにしか見えない。



 あれは道具なんかじゃない。生物の身体の一部だ。



「もう時間がない。一人で逃げなさい!」


 異様な状況に圧倒され、あたしの身体は固まってしまっている。


「もう行くのよ」おばあちゃんは諭すように優しく言った。「愛してるわ」


 あたしはおばあちゃんの目を見つめた。

 深い湖のような、愛と慈悲に満ちた目をしていた。


 この目を見られるのは最後なんだ、とあたしはふと感じた。


 見つめあったまま、あたしはゆっくりと頷いた。


 あたしは生きなきゃいけない。

 あたしは、先祖がずっと大切にしてきたものを、守らなきゃいけないんだ。


 自分の首にかかっている石――“薔薇の雫”――をシャツ越しに触って確認する。


 勇気を振り絞り、立ち上がった。


 あたしは素早い動作で、床にぞんざいに置かれているガンベルトを手に取った。

 ホルスターにはリボルバーが入っている。

 これは以前、この集落に立ち寄った旅人と交換トレードして手に入れたものだ。


 実のところ、あたしはリボルバーの引き金トリガーを引いたことは一度もなかった。


 だけどさすがに丸腰で荒野に出るわけにはいかない。

 そのくらいのこと、あたしにだって分かる。


「ドクター・S、よ」


 あたしはガンベルトを腰に巻き付ける手を止め、おばあちゃんの言葉を聞いた。


「ドクター・Sなら、必要なことはすべて知ってる。ドクター・Sを捜し、彼を頼りなさ」


 血しぶき。


 あたしは顔面に血を浴び、とっさに目を閉じてしまう。



 自分の鼻筋を、血がゆったりと流れていく。



 血は暖かい。

 顔全体が痺れていくような妙な心地がした。


 生暖かい絶望に包まれていくようだった。


 あたしは震えながら目を開けた。


 おばあちゃんの胸の下あたりから、黒い棒のようなものが突き出ている。

 ティーピーを突き破いた、得体の知れないあの黒い物体だ。


「おばあちゃん!」


 おばあちゃんの身体は、謎の黒い物体によって串刺しになっていた。

 その物体はおばあちゃんの背中から突き刺さり、彼女の胸のあたりから飛び出ていた。


 おばあちゃんの意識はすでになく、手足はだらんとしている。


 おばあちゃんの身体を貫いている謎の物体は、まるであたしを地獄へ手招きするかのような動きをしていた。


 だ。

 黒くて巨大な脚なんだ。

 と、あたしは思う。


 脚と呼ぶには巨大すぎるその物体は、だがやはり生物の脚としか考えられない動き方をしていたのだった。

 赤い血で湿った脚の不気味な動きは、蟻地獄であがく昆虫を思い起こさせた。



 おばあちゃんは、死んじゃったんだ。



 死んじゃった。

 あたしの大事なおばあちゃん。


 死んじゃったんだ!


 激しい感情のせいで、あたしの身体は引きちぎれそうになる。


 死んじゃったんだ!


 大切なおばあちゃんの身体を貫通している物体は、彼女の死体を弄ぶかのようにうねうねと気色の悪い動きを続けていた。


 あたしは歯を食いしばった。

 悲しみと憎しみが、極限まで煮立った鍋のようにぐつぐつと音を立てる。


 右手に握りしめていたガンベルトを腰に素早く巻き付けると、あたしは黒い物体のところまで近づいていった。

 そして両手で力いっぱい、おばあちゃんの身体から突き出ているその脚を鷲掴みにした。


 脚は鋼のように固く、冷たかった。

 あたしが全力で掴んでも、びくともしない。


 ほんの少しだけ光沢を帯びた黒色のその物体には関節のようなものがあり、そこを軸にして動いているのが分かった。


 こちら側へ引っ張ろうとすると、その物体はものすごい力であたしの意思とは逆向きに動いた。

 今すぐにでもこの脚だかなんだかをへし折ってやりたいが、あたしの腕力では到底敵いそうもなかった。


 バケモノが咆哮した。

 例の爆音が再び大地を揺らす。


 あたしはもう一度全体重をかけ、バケモノの脚を引っ張った。


 だがやはりびくともしない。

 それどころか、そんなあたしを嘲笑うかのようにいきなり激しく暴れ、脚はあたしの手から勢いよくすり抜けていった。


「痛っ」


 手の平が切れ、出血する。


 脚はおばあちゃんを突き刺したまましばらくティーピーの中で暴れまわった挙句、ついにはティーピーを破きおばあちゃんもろとも外へと飛び出した。


 破けた天井から、夜の闇へと吸い込まれていくおばあちゃんの身体。

 崩壊するティーピー。


 血が頭上から、霧雨のように降りかかった。



 地獄だ。

 あたしは今、地獄にいるんだ。



 星空の下に繰り広げられる凄絶な光景をただ眺める他、あたしには何も出来なかった。

 脆くも崩れたティーピーの残骸の中で、取り残されたあたしは無力そのものだった。


 月と焚火によるほのかな光でしか現状の把握が出来ない中、目に映るすべては影絵のようだった。

 そしてあたしはこの時初めて、バケモノの全容を目にした。

 それは、まさにバケモノとしか形容の出来ない姿をしていた。


 巨大な一匹のバケモノが、十数人もの人間を相手に暴れ回っている。

 シルエットでしか見えないので詳細な全体像は依然分からないのだが、バケモノの全高は少なくとも人間の倍はあった。


 いや、三倍近いかもしれない。

 バケモノが常に動いているせいで正確にはつかめない。


 バケモノの体からは何本もの脚が生えていた。そしてそれぞれが好き勝手に狂った踊りをおどっていた。

 その内の一本は、いまだおばあちゃんの身体を突き刺したままだ。


 おばあちゃんはバケモノの脚と共に夜の闇を飛び回った。

 やがて彼女の身体は抜け落ち、大地に叩きつけられた。


 身体が地面に落ちる瞬間、あたしはとっさに目を閉じた。



 このままずっと目を閉じていたい。



 目を閉じていると、周囲の声や物音がよく聞こえた。

 断末魔の叫び声、大地が蹴り上げられる音、重いものがぶつかり合うような鈍い音。

 立ち尽くすあたしのすぐそばを走り過ぎていく男達。

 彼らは皆、バケモノへと向かっていくのだ。

 闘う仲間達に加勢するために。


 そっと目を開ける。


 影絵の世界で、殺戮の情景が展開されている。


 巨大なバケモノ、荒れ狂うバケモノの脚、人々は翻弄されながらも必死に立ち向かっていく。

 飛び交う弓矢、空を切るトマホーク

 人間が、いとも簡単に宙へと飛ばされていく姿。

 バケモノの何本もの脚は戦士達をなぎ倒し、彼らの身体は切断され、血が弧を描く。


 人々が攻撃の手を休めずとも、その人数が十人から二十人に増えようとも、バケモノはなんらダメージを負っていない様子だった。


 これは、バケモノと人間とのなんてものじゃない。

 大量虐殺だ。


 おばあちゃんのもとへと近づきたい。

 だけどそこへ行けば、あたしもバケモノに殺されてしまう。



 あたしは、生きなきゃ。



 生き残るのが、あたしの使命なんだ。

 それは、おばあちゃんに言われたこと。


 そして先祖代々守られてきた石――“薔薇の雫”――を、誰の手にも渡らせちゃいけないんだ。


 この石にどんな価値があるのかなんて分からない。

 だけど、そんなことどうだっていい。

 おばあちゃんがこの石を守れと言ったんだから、とにかくそうするしかない。


 生き残るしかない。

 たとえあたしひとりでも。


 意識を研ぎ澄まし、全身に力を込めた。


 あたしは回れ右をしてバケモノに背を向けると、崩壊したティーピーの残骸を踏みしめつつ歩を進めた。

 これでいいんだ、と自分に言い聞かせながら。


 命がけで闘う仲間達や、おばちゃんの身体に背を向けこの場から逃げ出すのがどれほどつらいことか。

 例えその先に死が待っていようと、部族の仲間達と共に闘うことを選択するほうがよほど気持ちが楽だろう。


 だけどあたしには使命がある。


 あたしは歩いた。


 その場から立ち去ろうとしているあたしのことを咎める者などいなかった。

 武器を手にした男はあたしのことなど目もくれず、夢中であたしの横を駆け抜けていった。


 背後からは、人々の痛ましい叫び声が聞こえてくる。


 身体中が燃えるような感覚だった。



 仲間を置き去りにし、たった一人で、あたしは地獄から這い出ようとしている。



 赤ん坊の泣き声を聞いた。

 恐怖に震える子供達を見た。

 祈る女達を見た。

 血の匂いを嗅いだ。

 無残に転がる死体を見た。


 バケモノによって殺された人々の身体。

 焚火の炎がゆらゆらと死体を照らしていた。


 死体から目を背けたいが、その数はあまりに多く、視界に入るのを避けることは出来ない。

 死体だけでなく、重傷を負ってもがいている者もいる。


 倒れている一人を見て、あたしは思わず足を止めてしまう。

 その顔に見覚えがあったのだ。


 死体に紛れ、倒れている少年。

 それはあたしの二つ年下の、幼馴染の男の子だった。


 本来は、心を鬼にしてすぐにでもこの場所から立ち去ることが賢明なのだろう。

 しかしながらあたしは幼い頃から日々の多くを共に過ごしてきた弟のような存在を見殺しに出来るほど、賢くはなかった。


 少年の名前を叫びながら、あたしは彼のもとへと駆け寄った。


 倒れている幼馴染の身体を揺すり、彼の名前を叫ぶ。

 頬を叩く。


「しっかりして!」


 意識がない。

 普段は笑顔を絶やすことのない彼の顔。今は無表情のままで、目は虚ろに開いていた。


「起きて!」


 身体を揺すっても揺すっても、なんの反応もない。


「ここから逃げなきゃ! あたしと一緒に!」


 バケモノの咆哮が轟き、大地と共に少年の身体も震えた。


「ねえ!」


 意識が戻る気配がない。


 あたしは少年の顔から、彼の身体へと視線を移していった。

 少年の両腕は力なく、手は土にまみれている。

 服はところどころがちぎれていた。


 そして彼の腰のあたりに目をやった時、あたしは絶叫した。



 腰から下がなかった。

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