Chapter 3 ドクター・S
3-1 砂は血の味
荒野だった。
砂ぼこりと強烈な自由の匂いが混じりあうざらついた空気を、肺がいっぱいになるまであたしは吸い込んだ。
歯ぎしりをすると、じゃりっと音がした。砂のせいだ。
そして血の予感が、あたしの口の中に広がった。
――復讐の味がする。
ホルスターに収まるリボルバーの感触を指先で確かめる。
人差し指で、アイボリーのグリップを優しく撫でた。
銃は滑らかな曲線を描いている。そして冷たい。
「きっとあの町にいるはず」
あたしは
眼前に広がる、一面の荒野。
大地は地平線まで延々と続いていき、ところどころに転がる大きな石、巨大な岩山や雑草、枯れた低木がその単調な光景に気持ちばかりの彩りを加えていた。
ここはインディカ大陸西部、――荒涼地帯を意味して名づけられた――“デソレーション・エリア”のど真ん中。
代り映えのしない景色の向こう側、はるか遠くにその町は見えた。
まるで、大海にぽつんと浮かぶ小さな船のようだ。
そこは、アウトローや流れ者のカウボーイに賞金稼ぎ、ギャンブラーのような人間しか寄り付かないと噂の町だった。
町はここからでは豆粒のようにしか見えないが、それでも悪徳の香りが風に乗ってここまで漂ってくるような気がした。
あの町に、あたしが捜す人間がいるはずなのだった。
その名はドクター・S。
ドクター・Sについて、あたしはほとんど何も知らない。
男か女か、若い人間か、それとも老人なのか。そんなことだって分からない。
彼、もしくは彼女についてあたしが知っていることといえば、名前くらいのものだった。
だがこの無慈悲なまでに茫洋とした世界であたしが頼れる人間が存在するとするならば、それはドクター・S以外には誰一人としていない。
それだけは、あたしにははっきりと分かっていた。
死んだおばあちゃんが最後に遺した言葉、それが“ドクター・S”の名だった。
ドクター・Sを捜しなさい、と口にした瞬間、おばあちゃんは死んだ。
殺されたのだ。
思い出したくもない、あの光景。
だけどおばあちゃんが死んだ時の、鮮烈な悪夢のようなイメージは頭の中にべっとりとこびりついていて離れてくれない。
あたしはあの日、すべてを一瞬にして失った。
穏やかな日常、家、集落で共に暮らす部族の仲間達。
両親のいないあたしを育ててくれた、たった一人の大切な大切な家族であるおばあちゃんまで。
悲劇はなんの前触れもなく、人に襲い掛かる。
悲劇はこれ以上ないほど残酷なやり方で人生を踏みにじり、そのくせ知らん顔をして通り過ぎていく。
そうして悲劇に取り残された人間がふと気が付いた時には、一生癒えることのない傷をその胸に抱えているのだ。
経験者の立場から、あたしは確信を持ってそう言い切れる。
それははじめ、人の形をしてやって来た。
カウボーイハットをかぶった男があたし達の集落を来訪したのは、その日の夕暮れ時だった。
あたしは
集落に客人が訪ねてくることなんて滅多になかったから、どんな人なのか興味があった。
それに前回の来訪者はとっても素敵な旅人で、あたしに色々なものをくれたし。
集落には
ティーピーとは、円錐状に立てた何本かの支柱の周りに革を巻いた、テントのようなつくりの住まいのことだ。
平和な集落だった。
あたしの部族はインディカ大陸の先住民で、みんないい人ばかりだ。
一人一人が協力し合い、大地と共に、豊かな生活を送っていた。
あたしは生まれてずっと、この集落から出たことがない。
いつかここから飛び出し自由な旅に出て、広い世界をこの目で味わい尽くしたい。そうひそかに夢見たりすることもある。
訪問者は流れ者のガンマンのような恰好をしていた。
黒いハットに、濃い茶色のダスターコートを着ているようだ。
辺りはすでに薄暗くなっていたし、あたしのいるティーピーから男の場所まではある程度の距離があったので、細かなことまでは分からなかった。
はじめに訪問者の対応をしたのは、部族の若者三人だった。
若者と訪問者は四人でしばらく会話をしていた。その後一人の若者がその輪を抜けた。部族のチーフを呼び出しに行ったのかもしれない。
あたしは覗き見をやめた。
あまり面白そうなことも起きないようだったし、きっと物売りか何かだろう、と勝手に予想してあたしはティーピーの中央まで戻った。
ティーピーの中は、おばあちゃんとあたしの二人きりだった。
いつもの光景だ。
あたしにとって一番居心地のいい空間。
おばあちゃんは夕食の準備をしていた。
「どんな人だったかい?」
「わかんない。流れ者みたいな感じに見えたよ」
おばあちゃんは頷くと、食事の準備を再開した。
おばあちゃんの声は優しくて暖かくて、聞いているだけで眠くなってきてしまう。
それからしばらくの間、あたしは黒いハットをかぶった訪問者のことなどすっかり忘れていた。
あたしはのんきに床に寝ころびながら、夕飯を待っていた。
鍋の中からは美味しそうな匂いが漂ってくる。
「手伝おっか?」
「いいわよ。子供は静かに待っていればいいの」
「おばあちゃん、あたしはもう子供じゃないわ」
「はいはい」
あたしはおばあちゃんの背中を眺める。
今日も穏やかな一日が静かに終わる、はずだった。
あたしが異変に気付いた時、すでに殺戮は始まっていた。
ティーピーの外を人々が動き回る音。
人々の話し声、服が擦れる音、足音、そのすべてから不穏な何かが感じ取れた。
寝転んでいたあたしは身を起こし、耳をそばだてる。
変だ。
何かが起こっている。それもよからぬ何かが。
あたしは外の様子を見ようと立ち上がったが、おばあちゃんに止められた。
「そこにいなさい」
おばあちゃんは落ち着き払って言った。それが逆に怖かった。
そしておばあちゃんはティーピーの入り口まで行って、あたしの代わりに外の様子を覗いた。
重いものが落ちるような鈍い音。つづいて、誰かが叫ぶ声がした。
おばあちゃんはティーピーの入り口を覆っている革の隙間から様子を眺めている。
「……ついにこの時が来たか」
おばあちゃんはそう言うとティーピーの中央まで戻り、その場に座り込んだ。
そしてさっきまでとはまるで違う、固い表情であたしと向き合った。
外の騒ぎはどんどん大きくなり、あたしの胸は早鐘を打った。
どうやら、いままで経験したことのないようなとんでもないことが起きているようだ。それがどんなことなのかは想像すら出来ないけど。
「一体、どうしたの?」あたしは、自分の声が震えているのに気づく。
「……この時がいつか来るとは分かっていた」
おばあちゃんはすでに覚悟を決めたような顔をしていた。
「何が起きてるの?」
「悪の種から花が咲き、それがついにここまでやって来た」
おばあちゃんの目を覗き込む。
「“悪の種”って……まさか、あの言い伝えの?」
おばあちゃんは首を縦に振った。
小さい頃、おばあちゃんから聞かされた言い伝え。
子供を寝かしつける時に話す、昔話。
“謙虚であることを忘れるな”と子孫に伝えるための比喩と含蓄に満ちた寓話。
「だって、あれはただの……」
「言い伝えよ。そしてそれは時に真実を語っているの」
彼女の鬼気迫る表情にあたしは圧倒されてしまい、それ以上喋ることが出来なかった。
あばあちゃんは首にかけている首飾りを外すと、あたしの前に突き出した。
「これを守りなさい」
首飾りと呼ぶには簡素すぎるそれは、革の紐に赤い石がぶら下がっているだけのシロモノだった。おばあちゃんが常に身に着けているものだ。
赤い石は半透明で、長細い球体だった。まるでその中に煙を閉じ込めているかのように濁っていて、そして美しい石だった。
“薔薇の雫”。石はそう呼ばれていた。
この石が先祖代々大切に受け継がれてきたものだということは、あたしも知っていた。
「守るって、誰から?」
「外で暴れているバケモノから」
「バケモノ?」
「そう。それに、魂を売り渡した愚かな人間達からも」
あたしは震える手で首飾りを受け取り、首にかけた。
石が周りから見えないように、服の中に隠す。
「皆、価値あるものを守るため命を懸けて闘っている。そしてあなたは、“薔薇の雫”を守るのよ」
家の周りはすでに戦場のような様相を呈しているようだった。
聞こえてくる音によってしか周囲の様子を判断出来ないが、事態が刻々と悪化しているのは分かる。
人々の叫び声、呻き声、走り回る音、弓が引かれる音。
そして初めて聞こえる、巨大な獣が咆哮するかのようなけたたましい音。
金属同士が擦れ合うような耳をつんざく高音と、大地を震わす重低音が同時に響き渡る。
ティーピーが震える。
あたしの胸の奥までも震わせる爆音だった。
「何が……どうなってる……の?」
あたしは、恐怖で身体が硬直してしまう。
「浅はかな人間が、長い間眠っていた邪悪なスピリットを叩き起こしてしまった」
「外で暴れているっていう、“バケモノ”のこと?」
おばあちゃんが頷く。「皆、必死でそれと闘ってる。いつかこの時がやって来るのは、分かっていたことだから」
みんなが闘っているという、得体のしれないバケモノ。
あたしには何がなんだか……。この状況が全く飲み込めない。心臓があまりにも激しく動いているせいで、痛い。
「あたしも一緒に……みんなと一緒に闘わなきゃ……」
あたしのおばあちゃんは首を横に振った。
「あなたは生き残るの。これから闇に覆われるであろう世のために、あなたは光となるのよ、ジェーン」
「それって……あたしだけ逃げろ……ってこと?」
「そうよ。逃げなさい。皆がバケモノを引き留めている間に、あなたは“薔薇の雫”と共に逃げるの」
「そんな、そんなこと出来ない……。みんなを見殺しになんて」
「あなたが一緒に闘っても、殺されるだけ。早くここから逃げなさい」
「逃げろって、どこへ? あたしはこの集落を出たことだってないんだし」
おばあちゃんはあたしの両手を掴んで次のように言った。
「これはあなたの“役目”なの。ここから逃げるのよ」
おばあちゃんの手を握り返して、あたしは叫ぶ。
「じゃあせめて、おばあちゃんと一緒に逃げる!」
その時だった。
ティーピーが裂ける音がした。
あたしはとっさに上を見上げる。
黒い槍のような物体がティーピーに突き刺さっていた。
それは槍なんかじゃなく、想像をはるかに超えるほど恐ろしい“バケモノ”の一部に過ぎなかったのだが、この時のあたしにはそんなことが分かるはずもなかった。
あたしはまだ子供で、世間知らずだった。
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