最終話 ひまわりのタルト(2)
「先輩!」
朝の6時。私はえとわーるの玄関に飛び込んだ。本当は別に放課後でも構わないのだけどいち早く先輩に見せたいと思ったのだ。厨房に居た大路先輩は少し呆気に取られた様子だったけれど、すぐに私の用件を察したようだった。
「まとまったのかい?見せて」
私はスクールバッグのポケットからデザイン画を取り出す。
「……」
「できますか……?」
「なるほど。2重構造か。そうだね……ひとまわり小さいセルクルを使おう。タルト生地には重石をして空焼き、セルクルの内側にガナッシュを入れて、温めて型を外す。それから外側にレアチーズフィリングを流し込む——チョコレートを28度以下、ゼラチンを20度以上に保てば——それとグレープフルーツか、いいところに目をつけたね。これは重曹を使うか……」
デザイン画を見て考え込む先輩の口から漏れる言葉は、ほとんど呪文のようだった。けれど
「うん!いけるよ!」
その言葉と明るい顔で、私がやり遂げたことはわかった。
「ホントですか!」
「うん、よく頑張ったね。ひまわりちゃん」
そう言って、先輩はおもわずとばかりに私の頭をなでる。私はされるがままになりながら、頬が緩むのを抑えることができなかった。
「よし、なんとか数を揃えられたね」
エプロンを外しながら僕は言った。移動ショーケースの中には、数十ホールのタルトが詰まっている。
ひまわりちゃんが作ったケーキは、その名も『ひまわりのタルト』。レアチーズタルトをベースとして、種の部分をビターチョコを使ったガナッシュクリーム、花びらをグレープフルーツで表現した、目にも鮮やかなタルトだ。
文化祭前日、えとわーるは休業し、厨房をフル稼働でひまわりのタルトを量産した。今回は、ひまわりちゃんにも厨房に立ってもらっている。手が足りないというわけではないが、せっかくひまわりちゃんが作ったケーキなのだし。そういう意味では、タルトを選んでもらえたのはありがたかった。タルトは手間こそかかるがひとつひとつの手順を丁寧に積み重ねていけばきちんと出来上がるケーキだから。これがメレンゲを使うケーキや、バタークリームを使うケーキだと、どうしても作り手の実力が現れてしまう。
「はい。というか、えとわーるにこんなのあったんですね」
ひまわりちゃんがしげしげとショーケースを眺めながら言った。
「屋台のこと?昔、姉さんがね。文化祭だけじゃなくてクリスマスなんかにも重宝してるんだ」
言いながら僕はふと冷蔵庫を振り返った。
「あれ?まだ1個残ってるじゃないか!ひまわりちゃん、これは?予定数はもう入ってるよね?」
「あ、それは……」
ひまわりちゃんが焦りの色を見せる。胸の奥に苦い味が広がった。いつかの僕の『大切な人のことを考えて作ってごらん』という言葉が頭の中で反響する。
「そうだ!せっかくだし、味見してもいいかい?」
僕はこともなげに言った。不自然ではないはずだ、完成品の味見をするくらい。僕は冷蔵庫の隅にしまわれたタルトに手を伸ばす。
「ダメですッ!!」
ひまわりちゃんの声がそれを遮った。いままでで聞いたこともないくらい鋭い声だった。冷蔵庫の扉を閉めてひまわりちゃんに向き直る。
「あ、えっと、その」
ひまわりちゃんは狼狽えた様子で目を泳がせた。僕は微笑んで首を横に振った。微笑めて、いるだろうか。
「ううん、大丈夫。変なこと聞いちゃってごめんね。明日はがんばろう」
分かる、分かってる。食べさせたい相手がいるんだね?
物語の結末が近づいている。
「先輩!大盛況ですね!」
文化祭が開幕し、ものの数分で出来上がった行列を前にひまわりちゃんが弾んだ声で言った。
「ああ、でもこれぐらいは想定内だよ。少なくとも今日中は保つはずだ」
これまでの文化祭に出店したデータ、そして経験からも充分な量を用意してきたつもりだ。けれど
「……先輩?」
「ん?なんだい?」
ひまわりちゃんが、なにやら僕に呼びかけた。小さな不安、心配、疑問、そんな感じの声だ。隣で僕を見上げるひまわりちゃんを見返す。
「いや、先輩ってお客さんの前でもそんな顔するんですね。ずいぶん怖い顔になってます」
そう言って、ひまわりちゃんは自分のおでこに指を当てた。『眉間に皺が寄っている』という意味のジェスチャーだろう。
「本当!?それはまずい!」
僕は驚いてこめかみから頰にかけてを手のひらで左右に引っ張った。言われてみれば確かに表情筋に力が入っていたようだ。
「先輩、なんでそんな顔してたんですか?何か不安なことでも?」
ひまわりちゃんに訊かれて返答に困る。そもそもわざとそんな顔をしていたわけではないのだけど。心当たりと言えば——
「いや……去年と比べて、随分男性客が多いなと」
「そうなんですか!?ほとんど女子じゃないですか」
僕の答えにひまわりちゃんは驚きの声を上げる。
「いや、これでもざっくり3倍くらい来てるような……感覚的にだけど」
「じゃあ、えとわーるの人気が浸透してきたってことですね!」
無邪気に喜ぶひまわりちゃんを見て、僕は少し眉根を寄せた。
「いや、そういうことじゃないような気がしてならないんだよなぁ……」
もうひとつ気になっていることがあるのだ。例年に比べて、お釣りの500円玉の減りが早い。その意味するところを説明しようかと思ったけれど、わざわざ説明して変に意識させることでもないと思い直した。そして改めてもう一度頭の上から足まで、えとわーるが誇る可愛らしいアルバイトの姿を見直した。
「こら!大路くん何やってるの!」
昼が過ぎ、屋台で昼食を買った生徒たちも食事を終えるころ、私たちの屋台に注意する声が飛んだ。見ると、白井さんが腰に手を当てて仁王立ちしている。
「白井さん?特別出店の許可はもらってるはずだけど?」
さすがの大路先輩も困惑を隠せない。白井先輩は大路先輩の問いかけに首を横に振った。
「そうじゃなくて、ミスターコンの主役がこんなとこで何やってるのって話さ。もう授賞式が始まってしまうよ!」
「そうなの!?」
いや、受賞者が驚いてどうするんですか。と、思ったものの、北高のミスターコンは他薦アリで受賞者を文化祭実行委員がマンパワーで集めてくるのだそう。確かに、大路先輩はミスターコンにエントリーするようなタイプじゃないもんね。
「でも、ひまわりちゃんひとり残すわけにも」
「いえ!私は大丈夫ですよ」
私は胸の前で手を振る。お客さんもひと段落しているし、私ひとりでも大丈夫なはずだ。授賞式を見に行けないのは少し残念だけど。
「でも……」
それでも後ろ髪引かれるようすの大路先輩に、白井先輩は大きなため息を吐いて、手の甲を上にして手を差し出した。
「……授賞式に来ていただけますか?王子様?」
「……はぁ。喜んで、姫」
観念した様子で大路先輩は白井先輩の手を取る。それから白井先輩の半歩前に出る。やっぱり、大路先輩は王子様なのだ。女性からエスコートを求められれば断ることはできない。
「何かあったらすぐ連絡してねぇ!」
「まったく、大げさですね。大路先輩」
左手でスマートフォンを大きく振る先輩を見送る。そんな様子を、廊下の曲がり角から見ていた誰かがいたみたいだ。
「ひとつ、もらえるかな?」
いつだったか聞き覚えのある声に私は顔を上げた。そして盛大に眉をしかめた。
「……大沢先輩」
「な、何?その目は……」
遠慮なく表現された不快感に、さすがの大沢先輩もたじろいだ。
「いや、よくもぬけぬけと来られたな〜と思ったんです。大路先輩はいま居ませんよ?」
私たちの間には屋台がひとつあるだけだ。大路先輩も黒木先輩も今はいない。この昼間人目もある中では、大沢先輩でも滅多なことはしないだろうとわかっていても、私の肩には無意識のうちに余計な力が入っていた。それでも、一応はひとりの客としてタルトを一切れトングで取って渡す。
「キミ、図太さに磨きがかかってない?……いないから来たんだよ。あんなことがあった後で王子の前に出られるほど、私も恥知らずじゃないから」
大沢先輩は、思っていたよりしおらしい反応を見せた。それから、普通にタルトを受け取る。
「……それでも、王子のケーキは好きなの」
ほとんどひとりごとのように溢れた呟きに私は目を丸くした。いつか萌が言っていた、『まあ、えとわーるにくる女子はほとんど王子目当てだよね』という言葉。大沢先輩なんて、その筆頭だと思っていたのに。その言葉を聞いて、私は
「あ、それ私が作ったやつですよ。4分の1くらい私が作ったんで」
「チィッ!」
あまりに遠慮のない舌打ちに思わず吹き出してしまった。そして、タルトをもう一切れ取る。
「こっちは大路先輩が作ったヤツです」
「わかるの?」
「はい、断然綺麗ですから。どうぞ」
そう言って、タルトと空の左手を差し出し、私のタルトと先輩のタルトを交換した。
「ありがとう」
大沢先輩がやけに素直に反応するので、私はもう少しからかいたくなった。
「ちなみにレシピは私が作りました」
「……それは知ってる」
驚かせるつもりが、あまりにあっさりした反応にこちらが驚いてしまった。大沢先輩は、ため息をついて続ける。
「あのとき、なんであなたがって言ったでしょ?でも、このケーキのレシピをあなたが作ったって聞いたときわかったの。ああ、王子にはあなたが必要だったんだなって」
「そんなこと」
私だって、自分ひとりでできた訳ではない。先輩や、真里さんの力があってこそ完成させることができたのだ。それでも、大沢先輩は首を横に振る。
「だって、わたしにはこんなことできないから。……あの時はごめんなさい。謝って許されることではないかもしれないけど」
そう言って、大沢先輩は深く頭を下げた。謝罪は何かの意味を持つものではなく、補償にもならない。私の心のなかには、あの時の痛みが残り続ける。けれど、
「いえ、腹パン二発でチャラにしますよ」
「……それはいやだなぁ」
「冗談です。もう、何されたかも覚えてませんから。羽交い締めにされてお腹に蹴りを入れられた挙句、髪も切られそうになったことなんて覚えてませんから」
「はっきり覚えてるでしょそれ!」
先輩のツッコミに小さく笑いをもらす。こうやって、笑い合うことはできる。それに
「じゃあ、今忘れました」
許せなくても、忘れることはできる。
「……また店に来てください。なんにせよ売り上げは多いほうがいいですし、大路先輩はいつも『えとわーるは誰がいてもいい場所なんだ』って言ってますから」
「……ありがとう」
聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう言って、大沢先輩はケーキを持って帰った。
「あ、でも内斗先輩が怒るかもしれないなぁ」
そして、いつか私にしたように怒鳴りながら摘み上げるんだ。それを大路先輩が穏やかに止める。不服そうにしながらも内斗先輩は大沢先輩を放して、その様子を私がにやにや見ていたことに気づいた大沢先輩が、拗ねた子供みたいにぷいと顔を背けるんだろう。そんなことを考えていると、黒い影が視界の端に入った。それだけで、まだ肩に入っていた力が抜けるのを感じた。
「うわさをすれば」
「よう、やってるな。これがアオイの作ったケーキか」
そう言って内斗先輩はショーケースを覗き込む。そういえば、内斗先輩にはまだ見せてなかったな。
「ひまわりのタルト、ねぇ」
下を向いているから内斗先輩の表情は見えない。
「いいんじゃないか。よく頑張ったな」
顔を上げた先輩は、眩しいものを見たような笑顔で笑っていた。
「で、これは俺も買った方がいいのか?」
内斗先輩がケーキを指差しながら言う。私は首を横に振った。
「まさか。そんなサクラみたいなことは頼みませんよ。私を誰だと思ってるんですか?買われても困ります」
こんな軽口を叩ける時間が、私は好きだ。
「そうか、わかった。」
先輩は、やけにあっさりとそう言って屋台の前を去っていった。
「お疲れ。盛況だったみたいじゃないか。手伝えなくて悪かったな」
夕日の残照がわずかに残るころ、えとわーるに文化祭を終えた黒木が戻ってきた。ひまわりちゃんはまだ戻っていない。文化祭の打ち上げをするために、えとわーるの今日の営業は終了している。
「お疲れさま。クラスの方はどうだった?」
「まあ、ぼちぼちかな」
それだけで会話が途切れた。いつもはもっと話が弾むのに、どこか歯車が噛み合わないような、いや、僕が意識しすぎているのかもしれない。
「ねえ、黒木。ひまわりちゃんのタルトはもう食べた?」
僕はなにげない風を装いながら、出来るだけ迂遠に、それでも核心を突く質問を黒木に投げかけた。
「いや、食べてない」
予想していなかった回答に首筋から後頭部にかけてがざわつく。黒木はこちらを見ない。呆気にとられながらも、僕は質問を重ねた。
「……え?なんで?チョコレートが嫌いとかなかったよね?」
「あれは俺が食べていいケーキじゃない」
「は?」
黒木の言葉の意味が分からず、単純に聞き返した。黒木は、ようやくこちらを見る。
「知ってるか?ひまわりの花言葉は—」
「『あなただけを見つめる』。意外だな、黒木がそんなロマンチックな知識を持ってるなんて」
苛立ちが言葉の端々に現れる。表情と、声と、言葉から、黒木がなにを言わんとしているのかが伝わってきた。ふつふつと、沸点に近づく。
「……知ってたのか。ならあれが」
「それが僕のことならとどれだけ願ったことか!!」
カウンターを叩き、叫んだ。黒木が目を丸くする。
「まだ分からないのか、気づかないのか!鈍感にも限度ってもんがあるだろう!」
春からずっと押さえ込んでいた感情が爆発した。行き先もなく歩き回りながら、黒木をなじるように言葉をぶつける。そして、なかば涙声になりながら、僕は言った。
「ひまわりちゃんが好きなのはキミだ。僕じゃない」
テーブルに手をついて体重を支えながらうなだれる。黒木の顔を見られない。足音、遠ざかる。扉が開く音。僕は椅子を引き、崩れるように座った。ああ、やってしまった。ここまできて最悪の結末だ。あと少し、あと少し僕が耐えられてさえいたら、ひまわりちゃんと黒木が笑っていられるハッピーエンドを迎えられたはずなのに。僕は天を仰ぎながら、声を噛み殺して泣いた。
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