最終話 稲荷葉竹は紅葉限を好きすぎる
「おはよう紅葉」
「おはようございます、稲荷葉竹さん」
「ずいぶんとかたいわね。まだ寝ぼけているのかしら」
淡々と紅葉の顔をまっすぐ見ながら稲荷は言った。
「そうかもしれないですね」
相変わらず見た目だけは完璧な美少女の表情のない顔を眺めながら、紅葉限はアパートのドアを閉めた。
「今日も暑いわね」
「そうですね」
「どうして夏休みだというのにこんなに朝早くに暑い中、出かけなければいけないのかしらね?」
「俺のせいですね」
「ええまったく……先生方にも良い迷惑だわ」
「そうですね」
後に聞いたことによればてっきり夏休みを使って探しに来たのだと思っていた稲荷葉竹は紅葉限が失踪した直後から全国行脚を始めていたらしい。
6月と7月の学校を完全にサボっていたのだ。
当然のように期末テストも受けておらず、ふたりが進級するためには夏休みを犠牲にする補習が必要となった。
この暑い中、紅葉と稲荷は通学をする。
まるで以前のふたりと同じであるかのように。
紅葉を前に稲荷を後ろに、ふたりはアパートの階段を下りる。
「……紅葉は私があなたを殺そうとしていたときでもずっと下にいてくれたわね」
「……親父の教えだからな」
守りたい人と歩くときには階段では前に立て、道路では車道側に立て、そうすることでお前も守られたのだから。
それが父の教えで、死んだ実の両親からの教えだった。
紅葉限がひとり生き残った理由だった。
「……そういうところも好きだけど隙よ」
「上手いことを言っているんじゃない」
いつものような軽口を交わしながらふたりは登校をする。
あの後、稲荷葉竹の告白の後、紅葉限は海に飛び込んだ。
稲荷葉竹はもちろん驚いた。
「なっ!?」
もちろん海水浴客で溢れる浅瀬である。体がびしょ濡れになるくらいで問題は何もなかった。
殺せる深さではない。
ダメージを負うような場所ではない。
「……制服を濡らしちまった」
「え、ええ……ついでに頭も冷やしてきたらどうかしら……?」
「お客様の前で問題を起こした」
「あらあらずいぶんとしょぼい問題ねえ」
稲荷は紅葉の意図を察したようだった。
嬉しそうに愉快そうに笑った。
「人に迷惑をかけたくないあなたらしいわね」
「……帰るよ。うん。俺にはお前の言葉は絶対だから……だからまあなんだ努力、してくれ。俺も協力する」
「約束するわ。誓います。だからあなたも誓って」
「神に?」
「死んだお父様に」
「……はい。誓います」
「ねえ紅葉、あなた夢は出来た?」
稲荷葉竹は晴天を眩しそうに見上げながらそう訊ねた。
「……とりあえず大学に行くことかな」
せっかく父が遺してくれたお金だ。
ありがたく使いたい。
出来れば稲荷葉竹と同じ学校へ。というのは彼我の学力差を思えばあまりに難しい課題ではあったが、目指したいとは思った。
「なるほど、筮にまだまだ働けということね」
「……筮には家庭教師代をいい加減に払おうと思う」
世話になりっぱなしなだけならまだしも、今回とうとう筮の貯金を削り取ってしまった。
さすがに申し訳なさ過ぎた。
「筮はあなたでいろいろ実験しているだけだからあんまり気にしなくても良いと思うけどね」
稲荷は淡々とそう言った。
「……そういう稲荷の夢は?」
「億万長者」
「本気で言ってらっしゃる?」
「本気も本気よ。ええ、あなたにお金の不自由はさせないわ」
「それについてはどうもありがとう」
本当に心の底からいつもありがとう、紅葉はそう思った。
帰ってきた紅葉を百原は泣いて喜んで迎えてくれた。
赤倉小町はあの樟葉って人なんだったの? と不審そうな顔をしながらコンビニに紅葉を迎え入れた。
樟葉葉月は何も言わずただニヤニヤと笑っていた。
稲荷筮は自分の残高にため息をつき、稲荷の母にはひたすら泣かれ、稲荷の父からは一言だけ良かった、と声をかけられた。
「紅葉は本当に私のことが好きね」
「こっぱずかしいことを往来で嬉しそうに言うんじゃない」
「じゃあ嫌い?」
「……好きです」
「よろしい」
見た目だけは完璧な美少女は満面の笑顔で頷いた。
「……君は俺を好きすぎる」
「あら、お互い様でしょう?」
「ああ……俺も君を好きすぎる」
どうして自分たちはこうなることが出来たのだろう。
紅葉限がそう訝しんでいる間にふたりは高校に到着した。
遅刻はしなかった。
「さあそれじゃあお互いの尻ぬぐいのために今日も一日お勉強頑張りましょう」
「ああ。頑張ろう」
人生が続いていく。
紅葉限と稲荷葉竹の人生が続いていく。
明日にはまた稲荷は苦しむのかもしれない。
紅葉限を殺したくなってしまうのかもしれない。
紅葉限はそれでももうよかった。
その時はまた立ち向かうだけだ。
稲荷のためにどうにか生きていくだけだ。
稲荷が紅葉を好きだという限りそばにいる。
紅葉限は自分の名前にそう誓った。
君は俺を好きすぎる 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki
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