第30話 紅葉限は遠く離れても稲荷葉竹を好きすぎる
怪しげな人材派遣会社を営む男の紹介だ。とんでもない仕事に放り込まれることも覚悟していた紅葉だったが、その旅館はなかなかにまっとうな旅館だった。
マグロ漁船にでも乗る覚悟だった紅葉は正直に言って拍子抜けした。
客の中には釣りのために泊まる客もいた。
「俺、友達にフグを釣りに行こうって誘われたことありますよ」
この紅葉がフグを狙って最終的に海に落ちたエピソードは従業員内で鉄板ネタになった。
旅館にはフグの調理免許を持った料理人もいた。
ここでならフグで毒殺は出来ない。
紅葉はそう思ってしまうクセを拭い去れてはいなかった。
紅葉はそう思うこともあったが、旅館での忙しさの中にその思考は紛れていった。
樟葉がどのような処理をしてくれたかは分からないが、追っ手らしい追っ手はかからなかった。
夜中たまに鳴るサイレンにびくりとしてしまうことはあったが、紅葉はおおむね旅館での生活に順応できていた。
料理を運んだり接客をしたりという表に出る仕事はまだまださせてもらえず、基本的には裏方の力仕事をしていた。
紅葉の性にはあっていた。
父の位牌は旅館の女将の厚意で旅館代々の仏壇に置かせてもらえた。紅葉は毎日そこに線香をあげた。
そうして1月半が経った。
「もう少しで夏休みです。お客様の数は今までの比ではありません。忙しくなりますが皆さん丁寧な仕事を心がけてくださいね」
齢七十を超えて尚矍鑠とした女将の朝礼で紅葉は夏休みが近付いてきたことを知った。
プール開きはとうに済んでいるだろう。百原は夢を叶えられただろうか。稲荷は相変わらずプールに沈んでいるのだろうか。
そして、その日は訪れた。
夏休み真っ盛り。旅館は忙しく、紅葉のような新人にまだまだ接客をさせられないなどとは言っていられなくなった。その日は紅葉も荷物運びのついでにお客の前に立つことが許された。
そして運ぶ荷物の中に紅葉は見慣れた鞄を見つけた。
小学校と中学校の夜間学校と修学旅行の時に彼女はその鞄を使っていた。
物持ちのいい彼女はまだそれを持っていた。
彼女は真っ直ぐに紅葉を見つめた。
紅葉は思わず目をそらしてしまった。
「会いたかったわ、紅葉限」
「会いたくなかったよ、稲荷
麦わら帽子に白いワンピース。絵に描いたような夏の装いの稲荷葉竹がそこにいた。
女将はすべてを察したのか、紅葉限に休憩時間を与えた。
ふたりは海岸沿いを沈黙のまま歩いた。
周りは海水浴客で溢れ喧噪に包まれていた。
稲荷葉竹とまともに会話をするのはいつぶりになるのだろう。紅葉はそう思った。
高校入学よりも前、父が死んだときよりも前にさかのぼらなければいけないのかもしれない。なんとなくそう思った。
口火を切ったのは稲荷葉竹だった。
「笑える話をしてあげましょう」
「この状況で……?」
「あなたがバイトしてたコンビニで樟葉葉月が一ヶ月の間たまにだけど
「ぶっ」
コンビニ定員を勤める樟葉葉月の姿を想像し、紅葉は噴き出してしまった。
「どうしてもシフトを埋められなかったときだけらしいけどね。あなたの尻ぬぐい……なかなかどうしてちゃんと唯一の親戚をやってるわね。あのクズ」
「クズって」
「
「ないかなあ……」
「というか
「マジかよ」
「あのふたり実は古なじみなのよ。クズくんめーちゃんと呼び合う仲よ」
「マジかよ」
思わず2回言った。衝撃の事実だった。
「私が生まれるちょっと前にちょうどあなたのご両親が亡くなって……あなたのお父様が入院してたあの総合病院に運ばれたんだって。そこで出会ったって言ってたわ」
人に歴史ありとはよく言ったものである。世間は狭いと言うべきか。
「私とあなたより長い付き合いな上に私と筮より長い付き合いになっちゃうのよね。すごい話よね」
稲荷には生まれる前の話で、紅葉には物心つく前の話だ。
昔の話すぎてとにかく実感が湧かない。
稲荷葉竹は海を見つめたが、すぐに人の多さに酔ったのか目をそらした。
「……今更どうしてなどと問いはしないわ。ええ、どうせ私のせいでしょうすべて」
「うん……まあそれはそうだけど……まあ大丈夫だよ。最終的には俺の決断だから」
「何が大丈夫なのかしら」
稲荷は少し怒って見せた。
「百原くんも心配していたわよ。具合が悪いのが悪化してどっかでのたれ死んでるんじゃないかとか言ってたわ」
「心配の方向がアクロバティック」
「仕方ないでしょう。百原くんの一番印象に残っているあなたの姿があのトイレに駆け込んだ姿だったんだから」
「まあ、はい」
それに関しては百原には本当に悪いことをしたと思う。
「……旅館のお仕事はどう?」
「力仕事が多くて性に合ってるよ。ああ、フグの調理師がいるからなんかフグ料理でも食わせてもらえよ」
「私、実は別にフグはそんなに好きでもないのよね。高いものの良さが分からないって空しいわよね」
「そうだったのか……」
フグのような高いものをふたりで食べに行く機会はないから知らなかった。
「……で? あなたまさかこのまま旅館業を極めてしまうつもりなの?」
「まあ……問題が起こらない限り」
「なるほど。つまり旅館で問題を起こせばいいということね」
「人様の迷惑になるようなことはやめろ」
「ふふふ」
稲荷は初めて笑って見せた。
「なんだかまるで以前通りの私たちね」
「……」
紅葉もそう思っていたが、だからこそ沈黙した。
「……帰ってきなさい、紅葉限」
「断る」
「そう。じゃあ私が代わりに消えましょう。あなたはまだ高校に籍があるわ。樟葉葉月がそう工作しているから。私なら高卒認定からの大学入学も余裕だしあなたが高校に行かないデメリットよりもデメリットは小さく済むわ」
「……樟葉がここを教えたのか?」
「まさか。樟葉葉月はそこまでちゃらんぽらんじゃないわ。私が夏休みを利用してしらみつぶしに全国を渡り歩いていただけよ」
「えっ……」
「今までに筮とあわせて一都二十県を巡ったわ」
「そんなに……」
「筮の貯金はほぼ尽きたわ。哀れなことね」
「筮……」
稲荷筮はどこまでも妹に甘いやつだった。
「なんというかあなたを焚き付けたのも自分のくせにって感じよ。マッチポンプよね。あいつ何がしたいのかしら」
「……君を守りたいんだろう。俺と同じで」
「……ええ、そうよね」
稲荷は視線を落とした。
そしてすうっと息を吸った。
「方針を変えます。努力をします。自己を変える努力を私はして見せます。あなたを殺すなんてもう言いません。目指しません。だからどうか、戻ってきてはくれませんか? 紅葉限くん」
「……」
稲荷の真摯な言葉に紅葉限は沈黙した。
戻りたい気持ちはある。
好きな稲荷のそばにいたいという気持ちはある。
それでもそれが稲荷の心を苛むというのなら、自分の感情を揺さぶる人間が許せないというのなら、抹殺したいというのなら、心乱れることが疎ましくて、紅葉に消えて欲しいと願うのなら、それは助けてやらなければいけない。
好きな人の思いは自分の気持ちよりも優先してやらなければいけない。
あの日傷ついた思いを忘れたくても忘れられないように。
「……俺はお前の平穏が一番だ。お前がどんなに違うものを渇望していても俺はそれに応えられないよ」
稲荷葉竹は今、泣いていた。
紅葉の父が死んだときのように泣いていた。
言葉を零さず嗚咽も漏らさず静かに涙だけを流していた。
「分かっています。ええ、私は虫の良いことを言っています。信頼してもらえないのは分かっています。でもね、紅葉、平穏なんて……どうとでも壊れるものよ」
「稲荷……」
「私の平穏はもう壊れました。あなたがいない生活は平穏にはほど遠いのです。それが分からないあなたではないでしょう?」
「そうだけど……そうだとしても……マシな方を選んだんだよ。俺は」
「マシな方?」
「俺は君のことが好きだから、君に俺を殺して欲しくない。たとえどっちみち君が傷つくのだとしても、君にはそんな責任を負って欲しくない。俺を殺した責任を君に負わせるくらいなら、俺は社会的に死んでやる。君の前から消えてやる。俺はそのくらい君のことが好きなんだよ」
「ああ。あなたは本当に……私に嫌われる気、ないわね?」
「嫌われ方は分からないし、嫌われたいとも思えないよ」
「私もあなたが大好きよ。それが心をかき乱すとしても、それが私の平穏を脅かすとしても、責任を問われるとしても、大好きだからそばにいて」
稲荷葉竹の珍しくストレートで素直な言葉だった。
「ねえどうか帰ってきなさい。お願いだからそばにいなさい。あのときのあの気持ちを忘れていないのなら」
その言葉は、紅葉限の絶対だった。
長い約束の果ての言葉だった。
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