第29話 紅葉限は何をしてでも稲荷葉竹のことを守りたい

 樟葉葉月に会っていきなり紅葉限は本題を切り出した。

「逃亡の仕方を教えてくれ」

「え? なに? 夜逃げの話?」

「似たようなものだ」

 樟葉葉月の人材派遣会社〈樟〉はまっとうなそれではない。

 あまり表に出せないような「派遣」だ。

 官憲が踏み入れたら即座にお縄になるようなたぐいの人材派遣を営んでいる。

 樟葉葉月は社会的にはロクな男ではないがそれによって他人の葬式をポンと出してやれるだけの金を稼いでいる。


「俺は稲荷葉竹から逃げる」

「ええ……」

 樟葉は意外そうな顔をした。

「逃げちゃうの?」

「それがアイツのためだ。アイツが俺の存在に心乱されることで俺を殺したいというのなら、俺が逃げれば良いんだ。最初からこの結論は見えてた……俺の決断さえあればすぐに実行に移せた」

「ああ、それで、俺に連絡ね。夜逃げの経験値があってなおかつ唯一の親戚である俺にってわけね。そうだよね。お前がいなくなったら真っ先に連絡が行くのは俺か稲荷さんちだもんな。で社会的信用のある稲荷さんちと親戚の俺とどっちが優先順位高いかは微妙か。下手すりゃ警察沙汰だな、おい」

 樟葉の顔が少し険しくなった。

「だからまあ迷惑かけるけど頼む、って言いに来た」

「今って6月の初めかあ……うーんせめて夏休みまで待てない?」

「待てない」

「学生飛ばすなら夏休みが一番なんだけど……しかもお前パスポートとか持ってないよね? まったくしょうがないなあ」

 樟葉は事務所の戸棚のファイルを取り出した。

「未成年でも住み込みで働けるところ見繕ってやる……県外はあんま伝手ないんだけどなあ……」

「ありがとう」

「どういたしまして。しかしあれだなあ。お前は惚れた女の面倒くささはともかく惚れた女の愛し方は兄貴そっくりだなあ」

「……あんたがその手の話をするのは初めてだな」

「あれ、そうだっけ?」


 樟葉の言う兄貴というのは紅葉の実の父・・・である。そして惚れた女とは紅葉の実の母・・・にして、紅葉が親父と呼んでいた男の娘である。

 紅葉限は樟葉葉月の兄と、紅葉が親父と呼び続けた男の娘の間に出来た子供だった。

 ふたりは紅葉が生まれてすぐに事故で死んだ。

 紅葉だけが生き残った。

 その頃の樟葉葉月はまだ学生で、紅葉の血縁上の祖父は男手一つで育てた娘を嫁に出してセカンドライフを送ろうとしていたところだった。

 その頃の樟葉葉月にはもちろん紅葉限を養うことなど出来なかった。

 紅葉が親父と呼んでいた男が紅葉を育てることになった。

 だから両親の記憶のない紅葉にとっては父と言ったら血縁上の祖父になる。

 樟葉葉月にとって紅葉の親父は他人だった。

 その他人のために葬式費用をポンと出した樟葉葉月に紅葉限は恩を感じている。


「そういえば限って名前の由来、お前は知らないだろう?」

 ことのついでだと言わんばかりに樟葉は昔の話を続けた。

「うん……」

 そういうことを教えてもらう前に両親は死んだ。

「限りに挑め……限界を突き進め……まったく兄貴の好きそうな根性論だよ」

 樟葉は面倒臭そうに懐かしそうにそう言った。

 紅葉限はなんと言っていいのか分からなかった。


「……お前の親父さん、ああこれは春まで生きてた方の親父さんな。親父さんが倒れて入院してた頃にさ」

 ファイルをめくりながらぽつりと樟葉が喋りだした。

「うん?」

「あの総合病院、休日は診療科が閉まっているだろう? そこの待合室にさ、どこの病棟の入院患者か分かんねえけどぽつんと座ってるおっちゃんがいたんだよな。いつ行っても、朝から晩まで。昼には飯食いに戻るんだろうけど……何か俺はさ、お前の親父さんの病室にお前とか親父さんの職場の人とか稲荷さん家とかが出入りしてるのに対してさ、ああ、俺は将来こうなるんだろうなって思ったんだよな。今それをヒシヒシと感じている」

 それは樟葉の独り言だった。

 しかし紅葉には引っかかるところがあった。

「……あんたが親父の見舞いに来てたなんて知らなかったぞ」

「見舞いって言うか手続きな。平日は俺もまあまあ忙しいし。お前の学資保険の管理とか……俺がお前の唯一の親戚になるわけだからな。ああ、お前そういえば行きたいなら大学に行けるぞ?」

「え?」

「お前は葬式をあげる金もないから大学にも行けないだろうと思ってただろうけど大学に行ける。お前に教えるとそれこそ葬式だの墓だのに使いそうだったから俺と稲荷さんとこの親でこっそり管理しろって親父さんが言ったからそうしてる。ああ、さすがにトップの私大とかは無理な。行くなら地元の公立くらいに行ってくれ」

「そっか……」

 そうだったのか。

 父は自分の将来のことをきちんと用意してくれていたのだ。

 紅葉にはわからないことも知らないことも多すぎた。

「……よし、いくつか電話するわ。結論が出たらすぐ連絡するからお前は帰れ。あんまり愉快な電話にはなんねえし。昔の客とかが絡むめんどくせえ電話になる。なんにせよ月曜日にはこの町にいれなくしてやるよ」

「ありがとう、おじさん・・・・

「どういたしまして、甥っ子」


 週が明けて月曜日。

 稲荷葉竹はアパートのドアの前で紅葉限を待ち続けた。

 紅葉限は出てこず、遅刻が確実になる時間となった。

「入るわよ、紅葉」

 ドアノブをガチャガチャと振るわせる。

 鍵が開く。

 開いたドアの向こうに紅葉はいなかった。

 稲荷は無言で部屋に入った。

 狭い部屋に対して大きすぎる仏壇は残されていた。しかしそこに位牌はなかった。

 稲荷は押し入れの戸を開けた。

 紅葉の父の骨壺が常に置かれていたそこに、彼の人の骨壺はなかった。


「……もしもし筮。困ったことになったわ。私もうどうすれば良いのかまったく分からないの。助けてちょうだい」

 紅葉限の部屋の中央にへたり込みながら稲荷葉竹は稲荷筮に電話をかけた。


 まったく分からない。

 そう言いつつ稲荷葉竹には分かっていた。

 紅葉限は逃げたのだ。

 稲荷葉竹のために逃げたのだ。

 自分の感情を揺さぶる人間が許せない。心を乱すものが疎ましい。そう思ってしまう稲荷葉竹のために逃げたのだ。

 自分の心に従って紅葉限を殺さずにはいられない稲荷葉竹のためにどこか遠くに逃げたのだ。

 稲荷葉竹は泣かなかった。

 自分に泣く資格などないと知っていた。

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