第28話 紅葉限は講義を受けても稲荷葉竹のことが分からない(下)

「さあここで君の昔話をしよう」

「俺……」

「君は昔、傷ついた。そこに心のゆらぎが生じた。「ドキドキ」した」

 紅葉限はあの時のことを思い出すと腹が痛くなる。臓腑がよじれる。

 体調不良には時に心拍数の上昇が付随する。

「そして君と稲荷葉竹は関係性を持った。稲荷葉竹が孤立している君に上から目線で優しくすると言う関係性……吊り橋効果の実験は他人と他人によるものだったけど紅葉限と稲荷葉竹はクラスメイトだ。半永続的な関係だ。だからそうふたりの間にコミットメントは持続した」

「……つまり」

「君は稲荷葉竹のことが好きだろう? 君の葉竹ちゃんへの行動は嫌いな人間のためにやれることを超越している。いくらうちの両親に社会的に恩義があるからって、ここまでは出来ないよ。君の中にあるのはあくまであの子のための感情だ。しかし君があの子のことを好きになるのには君が傷つくことこそが必要だったのさ」

「……」

 紅葉は頭が痛かった。

 始まりはあそこだった。

 好きも、好きになれないも、全部あそこから生まれた。

「ひどい二律背反もあったものだね」

 筮は少し同情的な顔をした。

「忘れるな、と葉竹ちゃんは君に言ったそうだね……あの頃の葉竹ちゃんはまだ家族に対しては素直な小学生の女の子だったからね。もちろん全部聞いているんだよ」

 知っている。稲荷筮が紅葉限と稲荷葉竹の間に何があったか把握していることを紅葉は知っている。

 だから紅葉が最初に筮に出会ったとき筮は敵意と怒りを隠さなかった。

 ただそれを妹の手前、行動には移さなかったというだけで。

 筮が知っていることを紅葉は知っている。

「どうして忘れるな、と言ったのだろう。それは君が正しかったからだ。君の感覚をあの子は素晴らしいと思った。だから忘れるなと褒め称えた。あの子の言った忘れるな、は称賛に過ぎなかった。しかし、どうして君があのことを忘れられるとでも思ったのだろう。答えは単純。あの子は少し人の心が分からないところがあるのだね」

 稲荷筮とは違って。

「あの子はね、思いもしなかったんだ。あの言葉が君が自分を傷付けるための言葉だなんて思わなかったんだ。結果的に君があの言葉を吐いて自傷状態にあったなんて余計に思わなかった。あの子は……心理的に他人を傷付ける人間の気持ちが分からないからね。あの子は基本的に人の心を傷付ける作用が分からないんだ……」

 筮は困ったような顔をした。

「……そして自分も傷つくような心も持っていない」

「……そう、だろうな」

 紅葉の父の死に泣けなかった稲荷葉竹。

 紅葉だったら稲荷の両親や筮でも死んだら泣いている。

 悲しんで、傷ついている。

 あまり好きではない樟葉葉月の死ですら、悲しんでやれるかもしれない。

 稲荷葉竹にはそれが出来ない。

 だから紅葉限は稲荷葉竹のことが分からない。


「あの子を傷付けることができるものなんてないはずだったんだ。小学生のあの時だって……あの言葉だけならあの子は傷つかなかったのさ。あの子の心は無敵だった。……しかしただ一つの例外が春休みにあの子の前にそびえ立った」

 紅葉限の父が死んだ。

 紅葉は泣けなかった。

 状況を整理するのでいっぱいっぱいだった。辛かった。

 人生で一番辛かった。苦しかった。どん底だった。

 紅葉限のその姿を見て稲荷葉竹が泣いた。

 稲荷葉竹が傷ついた。


「あの子はね、潔癖なんだ。心が潔癖だ。自分の感情を揺さぶるものが許せない。抹殺したい。自分の心を乱すものが疎ましい。消えて欲しい。心が独立することを望んでいるんだね……それは孤立と変わらないのにねえ」

 稲荷筮は寂しそうだった。

 妹のさがを悲しんでいた。

「ちなみに小学生の時に君が傷ついたことに傷つかなかったのは単純に日が浅かったからね。君の観察眼を褒め称えこそしたけど、君個人のことなんてマジであの時の葉竹ちゃんはどうでも良いと思ってたんだよ。なんか羽虫がうるさいなくらいの感覚ね」

「はい。自戒します」

「自分がつけた鎧をいとも簡単に見抜いた男の子……家族以外で初めて出会った特別なひとり」

 筮の顔は、怒っていた。

 可愛い妹をたぶらかす男に怒っていた。

 久しぶりの表情だった。

「稲荷葉竹は君のことが好きだし、君は稲荷葉竹のことが好きなんだ。スタート地点がごちゃごちゃしてるし、何なら経緯については好意の返報性を持ち出しても良いけど、まあ単純にお互い好きになれるところがあったと言う話にしておこう。さてさて、紅葉限。君はそこになんの不満があると言うんだい?」

「……俺の成すべきことはひとつだ」

 紅葉限は決断した。


 風呂上がりの稲荷と道を行く。

 降ったり止んだりした雨のせいで、彼女の香りは分からなかった。

「……稲荷」

「あらなあに」

「俺は君が好きだよ」

 稲荷葉竹は驚いた顔をした。

「何急に。ずいぶんと今更ね」

「うん……ごめんな」

「何が?」

 きょとんと稲荷は首をひねった。


 翌日、土曜日。

 バイト中の休憩時間。

 紅葉限は忌ま忌ましい電話番号に電話をかけた。

 たしか父の入院以来だった。

『はい、もしもし! いつもニコニコあなたのお役に! 人材派遣会社〈くすのき〉社長、樟葉葉月です!』

「俺だ」

『なんだ。紅葉か。どうした? 親父さんの墓を建てるための借金でもしたくなったか? 家に骨壺があるってぶっちゃけちょっとしたホラーだもんな。45日もとっくに過ぎたわけで良い機会っちゃ良い機会か』

「そうじゃなくて頼みがある。会えないか?」

『ふうん?』

 アポイントメントはバイトの後に取れた。

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