第27話 紅葉限は講義を受けても稲荷葉竹のことが分からない(上)

 金曜日の夜。

 紅葉はいつものように稲荷家にあたたかく迎え入れられた。

 スコッチエッグというものを紅葉は食べるのは2回目だった。

 その1回目も稲荷の母が作ってくれたもので、確か小学生の遠足の時だった。

 どうしても父が泊まりの仕事で弁当を用意できないとなって、稲荷の母が用意してくれたのだ。

 紅葉はこれが美味しいと稲荷に言ったことがあるのを思い出した。

 もしかしたら稲荷は母親に紅葉のためにスコッチエッグを作るよう頼んだのかもしれない。

 稲荷の両親との会話を紅葉はなんとか取り繕った。

 稲荷にはもちろん筮には恐らく事情が通じているだろうと気は遣わなかった。


 夕食後、紅葉は相変わらず筮の部屋にいた。

「テストは良い点が取れたって?」

「ああ、筮の言うとおり現国が一番最後で今日返ってきたよ、勉強教えてくれてありがとう。本当に助かった」

 すべての問題用紙と答案用紙を紅葉は筮に渡した。

「あはは。和田先生、昔からこの設問だけは外さないんだよね」

 筮は問題用紙をチェックしながら笑い声を上げた。

 確かに筮が現国はこの問題が出るよ、と言っていたところが出題されていた。

「……お前も稲荷も記憶力良いよな」

「あれ? 葉竹ちゃんとなんか会話したの?」

「……いや、なんというかスコッチエッグが……」

「ああ、君も昔に食べたことあるんだ? あれ手間がかかるからお母さんもなかなか作らないんだよねえ。葉竹ちゃんがお願いでもしたのかな? 君のために」

「……どうだろうな」

 紅葉限には分からない。

 稲荷葉竹のことなど分からない。


「さて、前回は攻撃性の話を君が選んでしまったから今回はとうとう恋愛の話をするわけだけれどまずは恋と愛の違いについてお話ししようか」

 稲荷筮は楽しそうに口を開いた。

「君は恋と愛の違いを何だと思っている?」

「恋は……熱いもの、愛は……あたたかいもの」

「ほほお。なかなかに詩的だがいい感じの意見だね。それ好きだよ結構」

 筮は感心してみせた。

「ちなみに稲荷筮の意見はそんなものに大差ははない。ただどちらも感情が揺れ動いているだけ、というものだけどまあこの意見は普遍的ではないね」

 しれっと筮はドライに言った。

「たいていの場合、愛とは何やら良い感じのもので、恋とは熱狂的なものと判じられることが多い。愛なら友人や家族にも向くけど恋は恋人にしかならないからね。愛人にもなるけどまあそこは置いておこう。ちなみに愛と恋についてのとらえ方には男女差があると言われている。なんと男性は友人と恋人を混同しやすい傾向があり、女性はそうでもない、らしいよ。男の悲しい性を感じるね」

 友人と恋人。

 紅葉にとっては稲荷はどちらでありたいのだろう。

 紅葉限には分からない。

「恋愛とは燃え上がるもの……君の言う熱いものというのはなかなか良い言い方だ。熱愛と言う言葉もあるしね。これはなかなか恋にしか使わない言葉だもの。熱愛とは愛から信頼を引いたものだというのが偉い先生のお考えだ。ドリスコール先生は恋愛とは障害があればあるほど燃え上がるという調査結果を出した……卑近な例がロミオとジュリエットであり、不倫、だね」

 ロミオとジュリエットごっこをしたいのではないか。

 筮は一度、稲荷の心理をそう考察した。

 紅葉はそれに納得しなかった。

 今こう聞いていても熱愛、稲荷葉竹には不釣り合いなものだと思う。


「……なあ筮、それはもういいよ」

「いいの?」

「いいんだよ……稲荷が俺のことをどう思っているかなんて、俺にはどうでも良かったんだ。俺が稲荷のことをどう思っているかが肝要だった。仮に稲荷が恋愛について俺を対象にしていても俺はそれに応えられない。俺の罪悪感は渦を巻いている。ずっと長いこと。絶えず」

「罪悪感から始まる恋があってもいいじゃない。嫌よ嫌よも好きのうちってね」

「……」

「うーん。じゃあこうしよう。稲荷筮は今から稲荷葉竹の恋愛の話をしようと思っていたけれど、紅葉限の恋愛の話にしてしまおう」

「俺の恋愛……」

「この講義はね人間の普遍的な話ばかりをしているからね。すぐにそういう変容が可能なのさ」

 そういって稲荷筮は綺麗なウィンクをして見せた。


「さて、こないだ吊り橋効果の話をしただろう? 吊り橋でドキドキしたのを恋と錯覚してしまう、というやつ。実はあれ思考実験ではなく実際にやってみた人がいた結果なんだ。これを錯誤帰属と呼ぶ。あ、これも覚えなくて大丈夫なワード」

「うん」

「で、ならばジェットコースターにふたりで乗り込んだらそれはもうどっきどきで恋がサクッと実るのではないか!? さて、結果はどうなったでしょう?」

「……それはまあドキドキしたんじゃないか?」

「残念でした。むしろ逆効果。いっしょに乗った相手に悪感情を抱いてしまった人の方が多かったんだって」

「……じゃあ吊り橋効果……身体的なドキドキで恋に落ちるのは普遍的ではないってことなのか? 何にでも応用できるわけでもない?」

「ここで吊り橋効果の実験がどのように行われたか解説する必要が発生する。吊り橋効果の実験では吊り橋と石橋にそれぞれ人を呼び、そこでインタビューを行った。そして連絡先を渡し、インタビューの結果が知りたければ連絡してくれ、と言った。その場合、石橋より吊り橋のほうが連絡してくる人……つまりインタビュアーに興味を持った人が多かったんだ」

「インタビュー……」

「つまり人が恋を抱くには、身体的なドキドキによる錯誤だけでは駄目なんだ。足りないんだ。じゃあ、何が必要か?」

 君のターン。そう言わんばかりに筮は手の平を紅葉に示した。

 紅葉限は与えられた情報の中から答えを探す。

「吊り橋効果の実験で身体的なドキドキに付随しているのはインタビューだから……コミュニケーション、か?」

「うんうん。インタビューとその結果によってコミュニケーションという関係を持つこと。それも後々に情報を開示するという方法で持続的な関係を持つこと……これが大切になってくる。これ横文字で言うとコミットメントね」

「コミット……」

 意味はよく知らないが聞いたことはある言葉だ。

「コミットメントと言う要素。生理的な要素……これはドキドキに加えていわゆる性欲も含む……そして親密性という要素。この三つを持って愛の三角理論と呼ばれている。これも別に覚えなくて言い。親密性は……まあ君らの間に論じるまでもないか」

 紅葉と稲荷の中学までの関係を見れば仲は良さそうに親密に見えるだろう。

 春休み、父が死んで以降がどうかは分からないが。

「ちなみに愛が燃え上がるには障害があったり信頼性が欠いていたりする必要があるんだって。ロミオとジュリエットや不倫なんかがいい例だね。まあ君らの間には信頼も、ある。だからそこに愛があってもそれは緩やかな……倦怠期みたいな愛だ」

 階段から飛び降りる稲荷。

 受け止める紅葉。

 そこにあるのは稲荷から紅葉への一定の信頼だろう。

「さあ、大事な話をしようか。紅葉限。君と稲荷葉竹の間に愛はあるのか?」

 稲荷筮はそう問いかけた。

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