第26話 紅葉限は学校では稲荷葉竹のことが好きとは言えない
紅葉限は一人暮らしだ。
学校をサボれば心配した教師が訪ねて来る。
それが分かっていたので紅葉限は翌日には登校した。
稲荷葉竹はアパートの部屋の前で紅葉限を待っていたが、紅葉は沈黙を保った。
稲荷もそれに沈黙で答えた。
黙っていれば美人とはよく言うが、彼女の沈黙はどこか冷え冷えとして近付きがたいものだった。
紅葉はけっして昔のことを忘れていたわけではない。
常に紅葉には稲荷への罪悪感があった。
それでも忘れそうにはなっていた。
久しぶりに実感として思い出した。
それだけのことで紅葉は稲荷に語るべき言葉を持たなくなった。
その日の昼食を紅葉は教室で取った。
稲荷は教室にはいなかった。
「紅葉、昨日は大丈夫だったか?」
母親お手製の弁当をかっ込みながら百原が尋ねてきた。
「ああ、驚かせて悪かったな」
購買のパンを食べながら紅葉は答える。
「謝るようなことじゃねえよ。ああ、そうだ稲荷さんに勉強教えてもらえたぜ」
「そっか、よかったな」
それは心からの言葉だった。
百原の面倒を稲荷が見る。
つい昨日までは、自分と稲荷の関係を周囲に隠匿していた紅葉にとってはいささか違和感のある構図だったが、それでも百原がつつがなく補習後の追試をクリアできるならそれは喜ばしいことだ。
今の紅葉はそう思える。
「でも稲荷さん別に教え上手って感じではないよな。いや分かりやすくはあったんだけど、ちょっとはやすぎるというか。頭良い分かな? なんというか人を置き去りにするところあるよな」
「うん……」
稲荷葉竹と稲荷筮の違いはそこだ。
筮は紅葉の知能に合わせて授業を繰り出せるが、稲荷にはそれが無理だった。
だから紅葉は筮に勉強を習った。
一方、百原にはなんだかんだ言ってこの高校に入学するだけの地頭がある。
だから稲荷の授業に百原はついて行ける。
紅葉は稲荷の授業について行けなかった。
本来なら紅葉だって補習をいくらでも受けていておかしくない程度の頭の持ち主なのだ。
それを回避しているのは筮の尽力に他ならない。
稲荷の授業に百原がついて行けないようなら筮を紹介するのも仕方ないかと思っていたが、その必要はなさそうだった。
その週の間に稲荷葉竹との会話はなかった。
ただ木曜の夜にメールがあった。
『明日の稲荷家の夕飯はスコッチエッグの予定です』
『お邪魔します』
紅葉限はそう返信するほかなかった。
稲荷の両親に心配はかけられない。
唯一の親戚である樟葉葉月が頼りにならない今、紅葉の社会的立場を支援してくれているのは稲荷の両親だ。
外面は取り繕わなければいけない。
たとえそこにどんな心理的障壁があろうとも。
金曜日の午前中、紅葉限は相変わらず船をこいでいた。
それまでの間にやはり稲荷との会話はなかった。
現国の時間、稲荷葉竹があてられた。
紅葉限は久しぶりに稲荷の声を聞いた気がした。
稲荷はいもうとに先立たれた男の詩をよく通る声で朗読した。
「情感たっぷりにその詩を読めるくせに、お前は俺を殺そうとするんだな……」
いつもの紅葉なら昼休みにでもそう言っていただろう。紅葉はそう思ったが稲荷に話しかける気にはついぞなれなかった。
その日の体育は外の天候が安定しないため体育館に4クラスが詰め込まれた。
もはやそこに秩序はなく、自由行動。
デタラメにボールが行き交い、体育館の端ではいくつもの雑談グループができあがっていた。
「あー、早く梅雨明けねえかなあ」
百原がそう言いながらバトミントンのシャトルをこちらに打ち出してくる。紅葉はそれを返しながら百原と一緒にいることがすっかり当たり前になっているな、と感じた。
「そろそろプール開きだな」
「俺めっちゃ楽しみ」
「そうか」
「俺は一番好きな泳法は背泳ぎだなあ。空を見上げながら泳ぐのが気持ちいい。紅葉は?」
「俺は……そうだな、プールが始まったら小学生の頃に自由形を制した俺の犬かきを見せてやろう」
「ははは、なんだそれ」
百原は紅葉が冗談を言ったようだと思ったらしい。
紅葉の犬かきを仕込んだのは小学生時代の筮である。
何やら悪魔的な発想で究極の犬かきを開発した筮の手によって紅葉限は本当に自由形を犬かきで制した。
筮は本当に昔からよく分からない才能を発揮させていた。
それが紅葉の勉強の役に立っているのだからありがたく思うべきなのではあるが。
「楽しみだなプール」
「うん、そうだな」
「楽しみだな女子の水着」
「うちの高校なかなか男女がお互いのプール風景を見る機会がないって先輩から聞いたぞ」
紅葉は冷静に答えた。
この先輩というのももちろん筮のことである。
「夢くらい見させてくれよ紅葉ー」
「うーん」
それでいいのか百原の夢。
夢というのはその先が肝心とは稲荷の言葉だったか。
ちなみに稲荷葉竹はクロールで行ける限界が10メートル。平泳ぎとバタフライはてんでダメ。背泳ぎは顔だけ残してすべてが沈んでいく。筋金入りのカナヅチである。
今思えば釣りの時に稲荷には間違いなくライフジャケットを着せておくべきだった。
女子のグループで円になりバレーボールをやっていたが、ちょうどボールを明後日の方向に吹っ飛ばした稲荷をちらりと横目に収めながら紅葉限はそう思った。
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