第25話 紅葉限は昔から稲荷葉竹のことを……
宣言通り紅葉限はトイレにいた。
腹がよじれたように痛かったが、こみ上げてくるものはかろうじて臓腑が押しとどめていた。
紅葉限は思い出す。
昔のことを思い出す。
稲荷葉竹に紅葉限が出会ったのは小学生の頃である。
その頃の紅葉限はなかなかに荒れていた。
父子家庭。裕福とは言えない家計。同級生の親より一世代年上の父。
子供の世界で不利益を被るに足る環境。
正当性のない緩やかな迫害。
紅葉限のとって幸いにして最悪だったのは紅葉がそれを甘んじて受け入れるような子供ではなかったことだろう。
だから紅葉限は荒れていた。
抵抗のために荒れていた。
ただ稲荷葉竹はその頃から変わっていなかった。
いつだって外面のよい笑顔を浮かべ、紅葉のような疎外された人間にも分け隔てなく声をかけていた。
荒れていた紅葉に限った話ではない。引っ込み思案な子供や授業について行けない子供、そう言う子たちの世話係を担任に頼まれてこなしていた。
小学生にして完璧な美少女。それが当時からの稲荷葉竹だった。
「一緒に帰ろう紅葉限くん。方向いっしょなんだって?」
その日は稲荷葉竹が担任からの入れ知恵も隠さずに下足箱の前でそう声をかけてきた。
「……」
紅葉限は少しだけ沈黙してそれから返事をした。
「俺はお前みたいなのが一番嫌いだ」
その紅葉の返答は八つ当たりだったのだと思う。
それは苛立ちの発露だったのだと思う。
子供らしい反骨心だったのだと思う。
ただ紅葉限は稲荷葉竹に確かにそう言った。
稲荷葉竹の上から目線の優しさを拒否した。
稲荷は一瞬、虚を突かれた顔をした。
泣かしてしまうかもしれない。
一瞬、紅葉はそう思った。
それでいいと思った。
泣けばいい。
ひどいことを言われたと傷つけばいい。
そうして紅葉に関わることなどやめてしまえばいい。
諦めてくれればいい。
紅葉限はそう思った。
紅葉限はそう願った。
しかし稲荷葉竹の返答は予想外のものだった。
「君は見る目があるねえ」
稲荷葉竹はそう言って笑った。
いつもの作り笑いじゃない心の底からの笑顔だった。
少女はひとかけらも傷ついた様子はなく、とても感心したという風だった。
「その気持ちを忘れちゃ駄目だよ、紅葉限くん」
続けられた言葉の意味が紅葉限には分からなかった。
今でも理解は出来ない。
稲荷葉竹との付き合いは長くなった今でも、彼女が何を思って紅葉にそう言ったのか、紅葉限には分からない。
ただ、紅葉限は稲荷葉竹の反応に落ち込んだ。
優しさに優しさを返せない人間は最低だ。
紅葉限はそう思った。そう思ってしまった。
紅葉限は稲荷葉竹の優しさから逃げた。
柔らかくてあたたかいものから逃げ出した。
紅葉限はその事実に傷ついた。
傷付けるための言葉を吐いた側のくせに傷ついた。
人を傷付けようとした自分に気付いて傷ついた。
稲荷葉竹とは違い、人を傷付けようとした責任を紅葉限は負わなかった。
紅葉限には分からない。
稲荷葉竹の言葉の意味が分からない。分からなかった。
稲荷葉竹が紅葉限の言葉に傷ついたのか気にしていないのかすらも分からない。
その後も紅葉に声をかけ続け、結局高校に入るまで友達として振る舞ってきた稲荷葉竹の気持ちが分からない。
そんな稲荷葉竹に好きだと言われても理解することが出来なかった。
嫌いだと言われた方がまだしっくりくる。
稲荷筮の講義にそう返答したように。
あのようなことを言い放った自分は、稲荷に嫌われて殺されそうになるくらいが当然だ。
紅葉はそう思っている。
ただひとつ紅葉の側から確実に言えることがあるとしたら、紅葉限は稲荷葉竹のことを好きにはなれない。
たとえ稲荷葉竹があの暴言を許していたとしても、どうということはないことばだと流していたとしても、忘れてしまってさえいても、紅葉限は許せない。
稲荷葉竹を傷付けるためだけに嫌いと告げた自分が許せない。
自分の苛立ちを彼女にぶつけた自分を許せない。
好きにはなれない。
だから紅葉限は稲荷葉竹のことが好きにはなれない。
たとえ君が昔から俺のことを好きだとしても、俺は君を好きになってはいけない。
紅葉限は教室には戻らなかった。
稲荷にも百原にもどんな顔で会えば良いのか分からなかった。
「百原くん、追試が始まるのはテスト結果が出揃ってからですけれど、今からお勉強は始めましょうか? 私は放課後基本的に暇ですからいつでも構わないけれど」
「うん……紅葉が戻ってこなかったね」
教師には体調不良のようだと百原が答えておいた。
「そういうこともあるでしょう」
稲荷葉竹は淡々と答えた。
放課後、図書室、百原は気まずい思いで稲荷葉竹を前に勉強に勤しんだ。
稲荷葉竹は何も思わずそのタスクを遂行した。
紅葉限の友人に外面の良さを発揮した。
昔と同じように。紅葉限が嫌った頃の稲荷葉竹と同じように。
稲荷葉竹は「稲荷葉竹」の殻を被った。
紅葉限がかつて嫌いと評した稲荷葉竹がそこにはいた。
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