第23話 稲荷葉竹は海でも紅葉限のことを好きすぎる(下)

 昼食を終えて、再びふたりは釣りの準備を始めた。

 紅葉限は折りたたみ椅子に座って体重をかけた。次の瞬間折りたたみ椅子は前に向かって崩れた。

 落ちる。前面には海。お世辞にもそこまで綺麗とも言えない海。

「っ……!」

 稲荷葉竹が紅葉の折りたたみ椅子に座っていた。その時に何もなかったから安心していた。

 しかし工具を振り上げて行った何らかの仕掛けは実は終わっていたのか。

 加速度がかかる。落ちていく。

 ここは消波ブロックのある海ではない。ただ水の中に落ちるだけだ。

 紅葉は泳げる。大丈夫。溺れない。大丈夫。

 思考があちらこちらに行く。

 まとまらない。

 それでもそれらは走馬灯ではなかった。


 大きな音を立てて紅葉限が水中に落ちる。

 稲荷葉竹は無表情でそれを眺めた。

 折りたたみ椅子にはバランスを崩す細工をしていた。

 自分で座ったときにはうまくバランスを取っていた。

 単純な仕掛けだ。

 単純であればあるほどそれはうまく作用する。


「ぶはあっ!」

 紅葉限は生きていた。

 海から顔を出し立ち泳ぎ。

「……稲荷……」

 見上げた先の稲荷葉竹の顔は無表情を強いて保とうとしているときの顔だった。

「……うりゃっ」

 紅葉限は周囲の水を思いっきりかき上げた。

「わっ!?」

 稲荷葉竹に水がかかる。

 稲荷は後ずさる。

「何をするの!?」

「誰がなんと言おうとこっちの台詞だ……まったく」

「毒殺は河豚が手に入らず、溺死も失敗ね……」

 稲荷は小さく呟いた。

 その後方から地元の人らしき中年男性数名が浮き輪と縄を持って慌てて駆け寄ってきていた。


 地元の漁師さんと常連の釣り人に救出された紅葉は濡れ鼠のまま埠頭に寝転がった。

 当然ながら着替えは持ってきていない。しばらく自然乾燥で電車に乗れるくらいまでになるのを祈るしかなかった。

 6月初旬。さすがに海開きもまだであり少し冷える。昼過ぎだからよかったがこれが夕方以降だったら低体温症になっていたかもしれない。

「次から釣りに来るときはライフジャケットを着用してやる……」

 それは猟師と釣り人からのアドバイスだった

「あら紅葉は気に入ったの釣り?」

「意外とな」

「じゃあこの折りたたみ椅子をあげましょう」

「それは絶対に使わん。死んでも使わん」

「変なこと言うのね。死んだら釣りは出来ないわ」

「よく分かってるじゃないか」

 分かっているなら殺人計画をやめてほしい。


「……お前はどうして俺を殺したいんだよ」

「何度も言っているでしょう。私はあなたのことが好きだからあなたを殺さなければいけないのよ」

「それが俺には分からないんだよ。そしてこればっかりは俺が馬鹿なせいではないと思うんだけど……」

「自分の感情を揺さぶる何者かの存在がどうしても許せなくてこの世から抹殺したい。思うだけで心乱れる人間が疎ましくてたまらなくて消えて欲しい。それだけなのよ、私は」

「……消えれば良いのか? 俺がたとえば……お前と関係ないところで死ぬ。そうすればいいのか?」

 そうすれば稲荷葉竹は人殺しにならずに済むのか?

「駄目よ。だってそんなの……好きな人が死ぬなんて……悲しいじゃない?」

「……殺すのはいいのかよ」

「よくないわ。よくないけど……いくらかマシなのよ。あなたが勝手に消えることは私の心をかき乱すけれど、覚悟を持って殺すのならばそれは私の決断だもの。自分のしたことの責任は取るわ。自分のしたことがどんなに辛くて悲しいことでも私は自分の行いなら受け入れる。私は私のしたことに傷つくほど無責任じゃない。だから私自身であなたを殺せればあなたが死んだことで悲しまずに済む。それが横から飛び出してきた不幸や事故に殺されるのは我慢ならないわ」

 稲荷葉竹は心底悲しそうな顔をした。

「私はね、紅葉、春休みにあなたのお父様が亡くなったとき私それだけでは泣けなかったわ。喪失感はあったし悲しみもあったけど、それが涙が決壊するほどではなかったの。私がお父様のお葬式で泣けたのはあなたが泣かなかったから」

「俺は……俺が泣かなかったのは……」

 父の葬式では泣く余裕もなかったのだ。いっぱいいっぱいだったのだ。

 父はたった一人の家族だった。

 紅葉の親戚はもう樟葉葉月だけだ。

 信頼できる親戚は父だけだった。

「あなたを見て私は悲しくて泣いたの。あなたが泣けないほど苦しんでいるのが悲しかったの。その後で恐ろしくなったの私にとってあなたが死んでしまうことはきっと、あなたがお父様を亡くしたときと同じくらい辛いのだろうって。だから私は私自身であなたを殺す」

「……そうか」

「そう……許せないの。勝手に誰かが私の心を揺るがす影響力を持つなんて許せないのよ。どんなに大好きなあなたでも許さない」

「俺には分からないよ」

 紅葉限は何度聞いても稲荷葉竹のことが分からない。

 それでも殺されるわけにはいかない。それだけは分かる。

 自分のために彼女のために。


 日が傾いていく。衣服もまあまあ乾いてきた。

「帰りましょうか……釣果はあんまり奮わなかったけれどあなたが釣りを気に入ったのなら道具はあげるわ」

「そりゃどうもありがとう」

 紅葉限と稲荷葉竹は帰り道を並んで歩いた。

「磯臭いわ」

「誰のせいだ」

 軽口をたたき合いながら、まるでただの友達のようにふたりは帰路についた。

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