第17話 稲荷葉竹は講義になるほど紅葉限のことを好きか分からない(下)

「しかし……こうして見ると葉竹ちゃんはわりと縛りプレイをしながら君を攻撃しなければいけないんだよねえ。確実な死を与えなければいけない」

「確実に殺さなければいけない?」

「人一人を明確に殺そうと思ったとき一番厄介なのが殺し損ねることなんだよ。警戒されるし、警察が乗り出してきたら社会的に困るし、下手に重傷を負わせすぎると病院に入られて殺しきれなくなる」

「なるほど?」

「まあ……葉竹ちゃんは警戒されていても君は逃げないんだけどね……」

 稲荷筮は急に暗い顔になった。


「ねえ、紅葉くん。君はなんで逃げないの?」


 筮のその言葉は恐ろしく核心を突いていた。

「……」

「ストックホルム症候群というものがあるのを知っているかな。これは誘拐や監禁をされている被害者が加害者に親近感を覚えてしまうというものだ。それは加害者に殺されたくないから親しくしておこうという保身によるものが大きいのだけど……君のはこれじゃない」

 稲荷筮は断言した。

「稲荷葉竹は君を拘束していない。少なくとも殺そうとしている一連の動きにおいては君の行動を縛っていない。君の隣に引っ越してみたりもしているけれど、君は逃げられないわけではないんだ。誘拐や監禁……軟禁だってされていない」

「……」

「逃げないのか、逃げられないのか」

「それは……簡単な答えだよ」

 分かっているくせに。知っているくせに。覚えているくせに。

「俺は逃げたくないんだよ」

 紅葉限は稲荷葉竹から逃げたくない。

 そのためなら何だってする。

「その道の先に待つのは破滅だよ……共倒れと言っても良い」

「稲荷にも似たようなことは言われたよ」

 樟葉葉月への借金の話だったか。高校生が返すにはあまりに大きな金額。

 それでも紅葉はそれを返したい。樟葉葉月のことは好きではないが義理は義理だ。

「それでも俺はそこも曲げれない」

「……はあ」

 稲荷筮は教え子のかたくなさにため息をついた。

「君に稲荷筮としての望みを告げておこう。稲荷筮は妹に人殺しになって欲しくはない。社会的に稲荷家が不利益を被るのが嫌なのはもちろんのこと、稲荷葉竹にそんなことで傷ついて欲しくはない。だからここに一つの選択肢が存在する」

「……?」

「稲荷筮が紅葉限を殺す。稲荷家の被る不利益は回避できないが、妹が殺人犯になることは避けられる。これはなかなかお互いに良い案じゃないかな? 君だって……稲荷葉竹に人殺しにはなって欲しくないんだろう」

「……そう、だな。それも……あり、なのか?」

 稲荷葉竹を人殺しにさせないために、他の人の手によって殺される。

 紅葉限も別に死にたいわけではないのだが、稲荷葉竹が人殺しになるよりはマシだ。

「君は素直な良い子だね」

 筮は苦笑した。

「ここで葉竹ちゃんにいつも入れているような突っ込みを入れられないのが君の純真さをこれ以上ないくらいに示しているねえ」

「なんか馬鹿にしてないか?」

「思い詰めすぎてるね、ってことだよ。稲荷筮が紅葉限を殺すわけないだろう。好きでもなければ嫌いでもない。妹の大事な人でもなければどうでもいい人間のために人殺しなんてしたくないよ。そんなリスク普通負わない」

「……筮は稲荷のためなら何でもするタイプだと思っていたよ」

「するよ? するけど別に君を殺すことは葉竹ちゃんの利益じゃないもん。むしろ不利益だよ。普通に日々の殺しを回避できている状態で君を殺したら葉竹ちゃんはそれこそ傷ついちゃうよ。社会的にどうこうなんてもはやどうでもいい。心が傷ついちゃう」

「そうかな……そうなのかな……分かんないな……」

 稲荷が何を考えているかなんて紅葉には分からない。

 紅葉が死んだら傷つくのかも分からない。

「入るわよ」

「葉竹ちゃんはノックを覚えようね」

 稲荷葉竹が稲荷筮の部屋に入ってきた。

「帰りましょう。紅葉限」

「はいはい」

「あ、紅葉くん、これ宿題ね。採点とアドバイスちゃんと書いといたよ」

 筮は紅葉の提出したノートを紅葉に返却した。

 あの会話をしながら紅葉のノートの添削もしているとはどういう頭の使い方をしているのだろうか。器用すぎる。紅葉限には衝撃的だった。

「紅葉くんの成長が感じられて家庭教師としてとても鼻が高いよ」

「いつもありがとう」

「どういたしまして」

 稲荷筮は微笑んだ。


 稲荷家からの帰路。稲荷は呆れたようにブツブツと文句を言う。

「あんな酔っ払いの戯言をよくもまあ毎週ありがたく聞いているわね……」

「まあ、酔っ払ってるのうちの親父の形見のビールでだしな……」

「それは関係ないでしょ」

 稲荷はサクッと突っ込んだ。

「それに家庭教師としての筮は信頼できるし……」

「それはそうなのよね。性格がよろしくないのに能力がきちんとあるのが稲荷筮の腹立たしいところよ」

「性格はともかく立案してることについては君も大概だろう……」

 夜の風がふたりの間を吹き抜けた。

 風の匂いが鼻に香った。

「私の匂いを嗅いでいるわね?」

 稲荷はめざとかった。

「……シャンプー変わった?」

 紅葉はそれに気付いた。

「そう、あなたを傷付けたあの香り……」

「だからそれほど傷ついてはいない」

 ちょっと驚いただけだ。

「母が買っていてくれたみたい」

 稲荷はそう言って肩をすくめた。

「年頃の娘が父親と同じシャンプーを使っているのはオシャレ的にどうなのかと心配してくれたみたいね」

「そうかい。そりゃよかったな……」

「さて明日のバイトがんばってね」

「どうもありがとう」

 空を見上げた。

 星空が広がっている。

「そろそろ夏になればまだ明るい時間帯ね」

「夏はまあ良いんだけど冬はどうするんだ? 風呂入ってから移動するんじゃ風邪引くだろう?」

「その季節になったら普通に泊まろうかしらね……まあその時にそもそもあなたの命がある保証はないけど」

「そうならないようせいぜい頑張って生きるよ」

 紅葉限の言葉に稲荷葉竹はただ肩をすくめてみせるだけだった。

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