第16話 稲荷葉竹は講義になるほど紅葉限のことを好きか分からない(中)
「はい。では今日は人間の攻撃性の話をしましょう」
稲荷筮は家庭教師モードに入った。
「まず稲荷葉竹が君によくやる攻撃は?」
「基本は階段からの突き落とし……まあ正面からの力技は無理だからな」
稲荷と紅葉の間には女子高校生と男子高校生の平均的な体格差が横たわる。紅葉は何ならこのまま成長すれば平均以上になる可能性も秘めている。
寝ている隙に殺すのならともかく正面からの物理的攻撃で紅葉を殺すのは稲荷には難しい。
「あとなんかいろいろ毒殺をもくろんでいるみたいだが……」
「確実に殺せるという確証がない限り食べ物を粗末には出来ないからねえ、葉竹ちゃん。うちの両親の教育の賜物だね」
「おじさんおばさんにありがとうと言っておこう」
もう少し教育がしっかりしていれば殺そうとすることすらないかもしれないというのはこの際、脇に置いておこう。
「寝ている隙に殺しちゃわないのは欲が出てるんだろうね。完全犯罪への欲。あんまり事を荒立てたりよそからあることないこと言われたりするのは葉竹ちゃんも本意ではないんだろう。世の中に与える影響を思うと事故死か失踪死が手っ取り早くて穏当だもんね」
「それか呪い死にとかな」
「何言ってるんだい。人が呪いで死ぬわけないだろう。馬鹿なのか君は」
「あんたの妹がやっていたことだよ!」
睡眠時間を削ってまで丑の刻参りに勤しんでいたよ。
「馬鹿なのか葉竹ちゃんは……まあいいや」
筮は居住まいを正した。
「人は何故人を攻撃するのか。稲荷葉竹一人のパターンに限らず世の中には人を攻撃しようとするものはたくさんいて、その動機に対しては複数の説がある。ひとつ内的衝動説」
「内的衝動説」
「人には元々も攻撃性が備わっているとする説。性悪説に近いものがあるかな? 人を攻撃するのは人の本能なのだという説」
「その説が正しいとしたら攻撃を止めるのは無理筋じゃないか? だって元々そういう生き物だから、ということになるんだろう?」
「いや、内的衝動説を採用した場合にそれに対して攻撃抑制をする方法はすでにあるんだ。曰く内的衝動による人の攻撃には同情という共感が伴うとそれが抑制される」
「同情という共感……」
「攻撃が人の本能であるならば、本能に訴えかけて攻撃をやめさせようという考え方……はい、ここに頭から血を流している百原くんがいる。君はどう思う?」
よくもまあ前に一度だけ話した他人の友人の名前を覚えているものだ。紅葉は感心しながら答える。
「大変だなあ、手当てをしないと……と思う?」
「それが同情による共感ね。これはたとえ自分の加えた攻撃でも相手が血を流しているとそれに罪悪感やためらいを覚えてしまうという心理である……戦争で陸軍の兵士がPTSDになるのがこれだとも言われているね」
「叱りつけた相手に泣かれたらたとえ正しいことで叱っていても悪いことをしてしまったなあと罪悪感を覚える、みたいな?」
「うん。なかなか卑近でいい理解だね」
筮は教え子の発想に嬉しそうな顔をした。
「つまり稲荷の同情を引けってことか……?」
「一回大怪我でもしたら案外葉竹ちゃんもショックを受けてくれるかもね、ということだね」
「リスクがでかくないか?」
怪我をさせられた時点で傷害罪が成立してしまう。
「うん。傷害罪は親告罪じゃないからね。外にバレた時点で稲荷葉竹は容疑者だ。いやまあ殺人予備罪にはもうなってると思うんだけど……大怪我の場合は病院に行かなければいけない。病院には警察に連絡する義務が生じる。だから稲荷葉竹の行為が露見する可能性は高まるね」
それはいけない。
稲荷葉竹の社会的地位は守りたい。
それは紅葉限の数少ない願いだ。
そうとでも思っていなかったら、紅葉はとっくに身を守るために証拠をかき集め耳を揃えてしかるべき機関に相談をして稲荷を法的に拘束してもらっている。
稲荷を人殺しにしたくないのは稲荷の社会的地位を守るためだ。
筮の案は本末転倒だ。
「まあそもそも内的衝動説が稲荷葉竹の殺人欲求に適用されない場合、君が大怪我をしても葉竹ちゃんが引かない可能性もあるからね。これは他の可能性をきちんと潰してからやるべき案だ」
「他の可能性」
「人は何故人を攻撃するのか。ふたつ目、情動発散説。攻撃は不快情動の発散のために行われるという考え方。不満の代替として攻撃をしているという説。端的に言えば八つ当たり。たとえばストレス解消のための攻撃がこれだね」
「ストレス……ね」
稲荷葉竹にストレスはあるのだろうか。
彼女は基本的には好き勝手に生きている女である。
「ストレスではなく不満の方に着目した方が良いかもしれないね。稲荷葉竹の不満……何か思いつかないかな?」
「……俺が死なないこと?」
「うんうん。なかなかすてきな負のスパイラルだよね」
「不満やストレスの解消のために俺を殺そうとしてるとしたらそれに失敗し続けている時点で不満やストレスが増加しているよな」
それはそれで本末転倒だ。
「結局その人を殺すほどの攻撃性をもたらすストレスや不満がどこから来ているのかという解明が必要になるね。たとえば稲荷葉竹は紅葉限のことが好きだが、紅葉限がその思いに答えてくれない。そのストレスや不満が表出している、とか」
「答えようも何も……あいつ答えを必要としていないぞ?」
いつでもそうなのだが、稲荷葉竹は紅葉限に好きと告げた後に、紅葉の反応を求めていない。
だから殺します。
迷いなくそう続けてくる。
返事を求めない。好意も求めない。拒絶すら発露できない。
隙がない。
「一回答えてみれば? 何か変わるかもよ。……良い方向とは確約できないけどね!」
「……ううん」
難しい。
俺も好きだよ、なんて言葉を口先でも返せば止まってくれるのだろうか。
それだけの言葉で人を殺そうとするほどの思いが止まるのだろうか。
「みっつめ。これ最後ね。社会的機能説」
「内的衝動説。情動発散説。社会的機能説」
紅葉は指折り数える。並べ立てたところでいまいちピンと来ない文字列だった。
自分に向けられる攻撃性を簡単に三つに分類してしまうことにこそ拒否感が募ってくる。
「社会的機能説は攻撃とは手段達成のための目的を持った攻撃であるという説。攻撃によって何かを得ることが出来るから攻撃するという実利的な攻撃」
「稲荷葉竹が紅葉限を殺すことで得られるもの……」
紅葉限のいない世界。
それは紅葉限には想像がつかない。
主体である自分がいない世界をどう想像しろというのだろうか。
「まあそれこそ気を引くためにやってるとかでもありになっちゃうんだけどね、これ」
「もしそうならやり方を考えて欲しい……」
言ってくれれば出来ることはする。紅葉は稲荷にはそう言っている。
しかし稲荷は答えない。
稲荷には答えがないかのように答えない。
「社会的機能説への対処は簡単だよね。君を攻撃することで葉竹ちゃんに実利があるなら死ぬ前にその実利を与えてしまえばいいんだよ」
「そしてその実利は分からない……と」
「うんうん」
「稲荷葉竹も答えない……と」
「うんうん」
「駄目じゃん」
「あはは」
笑い事ではない。
一人の人命と一人の社会的地位がかかっているのだ。
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