第15話 稲荷葉竹は講義になるほど紅葉限のことが好きか分からない(上)

 蟹は黙々と食べるものだ。

 実家では反抗期ですという面をしている稲荷はもちろん、いつもは立て板に水のような筮も黙っている。紅葉ももちろん黙っている。

 だからその金曜日の稲荷家の食卓はさほど大きなことは起こらなかった。


 いつも通り、稲荷が風呂に入っている隙に紅葉は筮の部屋にお邪魔する。

 先週使ったばかりの服をもらうという口実は使えないので、稲荷の両親には勉強で分からないところがあると言っておいた。

 テスト範囲で分からないところをまとめたノートを筮に提出すると筮はふむふむと向き合いながら口を開いた。

「分からないところが分かるようになるなんて、紅葉くんの頭も成長したね……」

 心の底からの感動が筮の言葉にはあった。

「さあじゃあ今日の葉竹ちゃん対策会議では何の話をしようか?」

 稲荷筮には紅葉のテスト勉強を添削しながら会話に興じるだけの頭の良さがある。

「とりあえず赤倉さんの話をしようか」

「ああ、コンビニで鉢合わせたんだっけ? 葉竹ちゃんもけっこう過激だよね」

「今までバイト先は不可侵だった分、めちゃくちゃ恐怖を覚えたぞ。コンビニの冷凍庫にでも突っ込まれて凍死でもさせられるかと思った」

「そんなあらゆる方向に迷惑かける殺し方はさすがの葉竹ちゃんもしないと思うんだけど……まあ赤倉さんがだめんずなの葉竹ちゃんに話しちゃったから危機感を覚えたんだろうね」

「だめんず?」

「あれ? 知らないかな? けっこうはやったと思うんだけど……紅葉くんが疎いだけかな? それとももう死語かな? 言葉のサイクルっておそろしく早いからなあ……」

 筮はちょっとだけ困ったような顔をしたがすぐに切り替えた。

「えっとねえ、ざっくり言うとヒモとかDV気性とか駄目な男ばっかり好きになるタイプの女性のことをだめんずうぉーかー。略しちゃってだめんず。赤倉小町は大学でも高名なだめんずなんだよ」

「……俺を駄目な男だと思ってらっしゃる?」

 きょうだい揃って?

「百万近い借金を望んで背負い込んでる高校生の子が駄目じゃなかったからこの世に駄目じゃない子なんていないよ!」

「そうでしたね……」

 筮の珍しく真面目な顔に紅葉は殊勝にかしこまる。我ながら反省した方が良いところだった。

「まあぶっちゃけ葉竹ちゃんも紅葉くんがいなかったらそのループに陥っているタイプだと睨んでるけどね」

「ああ、八方美人気味なところあるもんな、あいつ」

 あくまでも他人に対してではあるが、稲荷葉竹は外面がよく、駄目人間にも基本的に優しい。

「というか紅葉くんを好きになってる時点でね……」

「返す言葉もねえ……仮に好きが本当だとして稲荷って俺のどこが好きなんだ……?」

「そればっかりは本人に聞いてよ。なんで可愛い妹ののろけ話を代弁しなきゃいけないんだよ。めんどうくさい」

「はい」

 筮が心底嫌そうな顔でそう言うので紅葉としても黙るしかなかった。

「……嫌いになられる努力をすれば殺されずに済むって案もあったんだが好かれているポイントが分からないんじゃ、どんな自分になれば嫌ってもらえるか分からないな……」

「好意の返報性の逆をやれば良いんじゃないかな」

「なんて?」

「好意の返報性。簡単に言えば好きだと言ってくれる相手を好きになる心理、かな。人から好きだと言われるとなんとも思っていない相手のことでもなんとなく好きになってしまうという心理。まあそれまでに好感度がマイナスに振り切れてたら意味がないんだけどね」

「人に好きだと言われると好きになってしまう……」

「うん。で、その逆。人から嫌いだと言われたら……その人のこと嫌いにならない?」

「……稲荷葉竹に嫌われるために、俺に稲荷葉竹に「お前が嫌いだ」と言え、ってことか?」

「そうだよ?」

「……それ、は……無理、だ……俺には」

 紅葉限の心が早鐘を打つ。

 腹の底から胃液が上がる。

 頭が痛い。

 思い出す。

 嫌なことを思い出す。

 後悔を思い出す。

 そんなことを言ってしまっては、後悔しか残らない。

 紅葉はそれを知っている。

 嫌というほど知っている。

 かつてのあの日に思い知らされた。

「……意地悪なことを言ったかな?」

「……いちおう最終手段に取っておくよ」

「そう。まあこれは前も言った4つのパターン中、葉竹ちゃんが本当に君のことが好きでかつそのために君を殺そうとしているのなら、の対処法だけどね」

「……意地悪なことを言ったというか筮は意地悪なだけだろう……」

 知っているくせに。紅葉限の後悔を知っているくせに。

「しょせん紅葉くんの後悔なんて他人事だからね」

 筮は悪びれずにそう言った。

 そうなのだ。筮が紅葉の家庭教師をするのもオシャレな服を譲るのもすべては稲荷葉竹のためだ。可愛い妹の要望に応えてのことだ。紅葉がどう思おうと筮にはどうでも良いことなのだ。

 紅葉の話に付き合ってくれているのは、筮としても妹が人を殺すことは望ましくないからだろう。

 紅葉の行動で稲荷が人を殺さずに済むならそれは重畳。

 しかし稲荷がどうしても殺したいというのならそれを助ける。

 稲荷筮の中でそのふたつは矛盾していないのだ。

 稲荷葉竹の行動を支持することも、稲荷葉竹の行動に難色を示すことも、稲荷筮は同時に行う。

「じゃあ今日のお話は……攻撃の話と恋愛の話とどっちがいい?」

「……攻撃」

 この気持ちのまま恋愛の話をするのは紅葉限には荷が重かった。

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