第10話 稲荷葉竹は借金苦でも紅葉限のことを好きすぎる
紅葉限が背負っている借金は父が遺したものではない。
父はかつかつの稼ぎの中から紅葉が高校に行って生活できるくらいのお金は遺してくれていた。
紅葉限が背負っている借金は父の死後に父の葬式をきちんと開くために樟葉葉月に対して負ったものだった。
未成年の借金は原則として認められていない。
しかし紅葉と樟葉の関係は残念ながら親戚だった。
お互いに不肖の親戚である。
そして樟葉葉月は親戚だからといってただで金を貸すような優しい男ではなく、紅葉限は親戚だからといってただで金を借りられるような心持ちの男ではなかった。
稲荷葉竹に言わせれば紅葉限はとんだ意地っ張りだったのである。
この借金は書面に残るものではない。紅葉の責任感にのしかかるものだった。
利害の一致。というと稲荷葉竹なら樟葉の利で紅葉の害なだけじゃないかと突っ込むだろう。
というわけで紅葉限は日々アルバイトに励む。
普段は稲荷葉竹を休日ごとにヒトカラ漬けにする勢いで紅葉限はバイトをしている。
「紅葉くん今日機嫌悪いね?」
紅葉限がバイト先のコンビニで労働に勤しんでいると、ともに働いている大学生の先輩がふとした空き時間にそう訊ねてきた。
「あー、顔に出てましたか?」
「接客には出てないけどふとした瞬間に出てますね」
「接客に出てないならよかったです。実は昨日会いたくない奴に会いまして……」
「そうなんだ……あの子は彼女じゃないんだね」
「!?」
見られた。
いや落ち着け。見られて困るようなことは別にない。
物騒な部分の会話を聞かれていたらまずいことになりそうではあるが、冗談とごまかせなくはないだろう。高校の同級生に見られたわけでもないのだそこまで警戒することもない。
「ああいやあの子は彼女ではないのですが……でも別に会いたくない奴でもないです。別口です別口……あのどこで俺らのこと見かけました?」
「映画館でチラッと。ちょうど入れ替わりで上映室に入る感じになったから声はかけなかったんだけど、そうか彼女じゃなかったの」
「腐れ縁……ですかね」
腐れ縁の幼馴染みにして紅葉限殺人未遂の加害者だ。
「あれだね! 友達以上恋人未満というやつ!? いちばん楽しい時期じゃん!」
先輩は急にテンションを上げた。
恋バナ、お好きなのだろうか。
「……」
紅葉はなんと返していいのか困った。
とりあえず楽しくはない。いちばん困っている時期だ。
稲荷葉竹は困ったお年頃だ。
「いやなんかもう家族みたいなもんです。はい。ご両親とかにもお世話になっていますし」
「ふうん? ご両親公認の仲ってニュアンスでもなさそうだね……まあ紅葉くん勤労苦学生だもんねえ」
えらいえらい、と先輩は適当に紅葉を褒める。
どうもどうも、と紅葉も適当に返した。
「映画何見たの?」
「今CMよくやってる恋愛映画です。ああこれこれ」
ちょうど陳列されている雑誌にその映画の主演の姿を見つけて紅葉はそれを指さした。
「紅葉くん恋愛映画とか興味あるの!?」
想定以上に驚かれた。そんなにか。そんなにイメージがないか。
「いや相手のチョイスで……」
「ああなるほど……面白かった?」
「なんか……よく分からなかった……」
「何その感想」
あははと先輩は笑った。
一晩経っても紅葉は爆発シーンとカーチェイスシーンと殺陣のシーンを飲み込めていなかった。
それ以外のシーンはもうよく覚えていない。
「でも恋愛映画見て、あんなにふたりともオシャレしてそれもうデートだよね?」
「……デートなんですかね?」
稲荷葉竹はデートだと言っていた。男女が映画館に行って、ファストフードで昼を食べ、カラオケに行く。そこだけ見ればあれはデートなのだろう。
けれどもそこにデートというにはあまりに物騒な動機がある。
もちろんそんな話は先輩にしたりはしないが。
他人にするような話ではない。
「デートだよ~。告っちゃいなよ~。絶対うまくいくって~」
紅葉の苦悩など知らず先輩は楽しそうにそんなことを言う。
「……告白、ね」
稲荷葉竹からなら紅葉限は何度も告白されている。
愛の告白と殺意の告白。それらはセットだ。高校に入ってからのこの一ヶ月間、稲荷は絶えず愛と殺意を語る。
しかしそれへの返事を彼女は求めてこない。
普通、好きですに続くのはつきあってくださいとかそういう未来志向の言葉じゃないのだろうか。
稲荷葉竹は好きですの次にだから殺しますと続ける。
死んでくださいですらない。
稲荷葉竹は自分の愛の対価に何も求めてこない。
「先輩だったらどういう告白をしますか?」
「ほほお、この私に恋愛のアドバイスを求めるのだね。高くつくぜ?」
どの私だ。
先輩はゴホンと喉の調子を整えて柄にもなく真面目な顔をつくった
「好きです。お返事待っています」
「お返事……」
そういえば稲荷は返事すら求めてこない。紅葉限の心などどうでもいいかのように。分かりきっているかのように。
『ピロリロリロ』
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいま……せー……」
入店音に即座にふたりは反応したが、紅葉はすぐに固まった。
入店してきたのは稲荷葉竹だった。
「……」
「あ」
先輩も紅葉に一拍遅れて彼女が紅葉の昨日のデート相手だと言うことに気付いたらしかった。
しかしそこはバイトとはいえ店員である。すぐに表情を戻し業務に戻る。
「……」
紅葉限は警戒するより戸惑った。
稲荷葉竹がこのアパートから一番近いコンビニを利用したことはないわけではない。
しかしそれは紅葉のシフト外のことである。
最低限の線引き。紅葉の邪魔をしないという取り決め。稲荷はそれだけは律儀に守っていた。
5月初旬のゴールデンウィークなど紅葉はほぼずっとシフトが入っていたのでその間稲荷には少し遠くのコンビニを使わせるという不便を強いたくらいだった。
そうまでして守られてきたものが突如として破られた。
何かあったのかとも思ったが稲荷の淡々とした表情からは何も読み取れなかった。
5分くらい店内をうろうろしたあとに稲荷葉竹が買っていったのはスーパーで買えば良いようなおやつと炭酸飲料だった。
「ありがとうございましたー」
「ありがとうございましたー……」
稲荷の姿が遠ざかると店内にはまた暇な時間が訪れた。
「何か話していけばよかったのに」
先輩が暢気に提案してきた。
「まあバイト中なので……」
紅葉は結局稲荷が何をしに来たのか分からぬまま困惑していた。
「昨日は遠目だったからあんまり顔は見れなかったけどめちゃくちゃ可愛い子じゃない」
「そうですね」
稲荷は顔だけは良いのだ。いや頭もまあまあ良いはずだ。外面もいい。家族への態度は淡々としているが、だからといって家族仲が悪いわけでもない。
ただ一点の紅葉限にだけ向けられる殺意を除けば、稲荷葉竹は可愛いいい子なのだ。
「付き合っちゃえば良いのに」
何が不満なの? と先輩は心底不思議そうにする。
「そうなんですけどね」
どうしてもそうできない事情が紅葉限と稲荷葉竹にはある。
紅葉が帰宅したのはちょうど夕飯時だった。
紅葉は稲荷の部屋を訪ねた。
「はい、廃棄の弁当」
「ありがとう」
「どういたしまして……何しに来たんだ?」
「敵情視察」
「バイト先は不可侵条約を結んでいただろ?」
「そうね。でも敵が現れたのだから仕方ないわ」
「?」
紅葉は敵を自分のことだと思ったのだが紅葉のことではなかったらしい。バイト先に自分がいるのは4月からなのだから今になって敵が現れた、はおかしい。
「あなたは気付いていなかった見たいだけれど私は昨日見たのよ。あの女を」
「あの女って……先輩のこと?」
「ええ。あなたがいないときに利用したコンビニで見たことのある女が映画館でこちらをちらりと見たのを私も見ていたの」
「それが何故敵に……」
「あの女は女友達と映画を見に来ていたわ。つまりフリーの可能性があり、しかもあなたを気にしていた……つまり敵の可能性があるのよ」
「とりあえずあの女とかそういう感じの怖い言い方やめようか」
「……
「……なんでフルネームを知っている」
紅葉すら知らなかったフルネームを知っている稲荷に紅葉は戦慄した。
赤倉先輩の下の名前、小町って言うんだ。
「あの人筮と同じ大学の人よ。筮に偵察に行ってもらって諸々確認したから。私と筮がきょうだいなのは知らないでしょうけれど」
「何をしてるんだ……」
「あなたに近付く女は逐一調べているわ」
「怖っ!?」
「だって可哀想じゃない? 私が殺すことになるあなたを恋人にする人が」
まさかの思いやりで調べていた。
「……安心しろ。今の俺の経済状況で誰かと付き合おうと思えるほど脳天気ではないから。君に殺される俺の可哀想な恋人なんて発生しないから」
「そりゃ普通の高校生や大学生と付き合うのならそうでしょうけど経済力のあるマダムを引っかければ経済問題は解決するでしょう」
「マダムって」
日常会話でなかなか出ない語彙にもほどがある。
「あとお金持ちのご令嬢とか!」
「家の金をぽんぽん使えるご令嬢って世の中そんなにいないだろう……」
「そこまで大金持ちでもない稲荷家からですら私は独り暮らしの費用をふんだくっているのよ。あなたの負った百万円近い借金を帳消しに出来るお嬢様だって非現実的ではなくはなくなくなくない?」
「ごめん何回今なくって言った?」
それ次第で返答の仕方が変わるんだが。
「とりあえず赤倉先輩とはそういうことにはならない。約束する。安心してくれ」
「神に誓って?」
「神はちょっと信じてないので……」
「じゃあ亡くなったお父様に誓って?」
「ちょっと重たいな……まあじゃあ死んだ親父に誓って……」
あの世の父もそんなことを誓われても困っているだろう。そう思いながら紅葉限は誓いを立てるのだった。
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