第9話 稲荷葉竹は休日でも紅葉限のことを好きすぎる(下)
「ありがとうございましたー。またのご来店をお待ちしております!」
紅葉はベテラン店員の見たことなど何も覚えていないと言う雰囲気に感心した。
結局、紅葉も稲荷も一曲も歌わずにカラオケ店を後にして、帰りのバスに乗り込んだ。
「本当に覚えていないだけだったかもしれないわよ。休日の昼間なんて忙しすぎて変な客がいたことなんていちいち覚えてられるほど暇じゃないだろうし」
「まあそうかもな……」
カラオケ店の遮音性を生かして演技の練習をしている人間も世の中にはいるだろう。そういう一部だと思えば稲荷の奇行もベテラン店員には覚えておくに足らない出来事だったかもしれない。
それにしても歌いたい歌など思いつかない紅葉はまだしも普段からヒトカラに行っている稲荷はなにも歌わなくてよかったのだろうか。
「私が歌える歌なんてお経くらいしかないからデート向きではないし……」
「いくらなんでも尖りすぎだろう華の女子高生」
正直、そのレパートリーの少なさは人を殺そうとしている以上に心配だ。そんなことで稲荷は女子高生をやっていけるのだろうか。
というかヒトカラでも延々とお経を唱えているのだろうか? それならばいい加減に悟りでも開いて紅葉への殺意も昇華させて欲しいところである。
「だからあなたが死んだときは任せてね。お金がなくてもちゃんと念仏だけは唱えてあげるわ。何宗のが良い?」
「分からん……」
紅葉家の宗派は何なのだろうか。父親の葬儀の時にいろいろと聞いたはずだがもう忘れてしまった。
あの時はいろいろと忙しかったのだ。
「というかそんなリクエストに応えられるくらいお経に造詣が深いのか?」
お経好きの女子高生が殺人を犯すなど仏門界隈に衝撃が走るようなスキャンダルではないだろうか。
「仮に紅葉をまっとうに葬れない殺し方をしてしまったときにせめてお経で弔いたくて……」
「海にでも沈める気か……?」
行方不明にさせるのも稲荷の中ではありらしい。
「社会的に抹殺させるのは優先度が低いというのは社会にあなたの死を認識させる優先度も低いという意味を含むのよ」
「まあ今となっては俺が行方不明になっても探してくれるのはそれこそ稲荷くらいだろうしな……」
そんな物騒な会話をしているうちにバスはふたりのアパートに近付いていた。
バスを降りてしばらく行くと見知った男が道の端でタバコをふかしていた。
「ちっ」
稲荷葉竹が舌打ちをした。
紅葉限も似たような気分だった。
「よお。紅葉、稲荷ちゃん」
男はふたりの接近に気付くとにやにやと薄笑いをしながら手を上げてきた。
「……どうも」
「ちっ」
紅葉は渋々挨拶をし、稲荷は二度目の舌打ちをした。
「稲荷ちゃんは相変わらず俺に厳しいなあ……」
男、
「消えて」
紅葉や家族に向ける淡々とした態度が可愛く見えるほどに(見た目は確かに可愛い)厳しい稲荷の言葉も気にせず樟葉は話を続ける。
「まあまあそんな邪険にしないでくれ。俺はたまたま仕事のついでにここを通りかかったらふたりを見つけただけなんだから。お出かけかい? 紅葉」
「……まあ」
「稲荷ちゃんのおごりで?」
「……ああ」
「消えて」
壊れたレコードのように稲荷葉竹は繰り返した。
「これ以上の警告に従わないようなら、最終兵器。小学生に渡して紅葉限を社会的に抹殺する計画のために用意したマル秘アイテムを使うわよ……」
ブツブツと呟きながら稲荷が取り出したのはいかにも小学生が持っていそうな黄色いプラ素材の簡単なつくりの防犯ブザーだった。
最終兵器しょぼいなあ。
「うわっ、それは簡便だよ稲荷ちゃん。昨今は厳しいご時世なんだそれを鳴らされただけで俺は社会的に死んでしまうよ」
怪しい成人には有効らしかった。
「あんたはすでに死んでるようなものだろ……」
紅葉は樟葉の背景を思いながら突っ込んだ。
「しかし相変わらず諦めないね。稲荷ちゃんは紅葉を殺すのを」
樟葉葉月。紅葉、稲荷、筮に続き稲荷が紅葉を殺そうとしているのを知っている4人目にして、誰の味方でもない男だった。
「あなたには関係ない。消えて」
三度目だった。
「はいはい。じゃあ俺は退散するけれど紅葉」
樟葉葉月は真面目な顔をした。普段からそういう顔をしていればまともに見えるのにな。
「いつも口を酸っぱくして言っていることではあるけれど。まあもう一度何度でも。借金のことちゃんと考えておいてね」
「……」
樟葉は紅葉の返事を待たずにふたりの前から去って行った。
稲荷葉竹は樟葉葉月の背中も見たくないと言わんばかりに目をそらしながらブツブツと呟いた。
「くっネタの一つがバレた以上この防犯ブザーは廃棄処分ね……千円もしたのに」
人の命を犠牲に出来るわりに千円を惜しむ稲荷葉竹。金銭感覚というか倫理感覚がおかしい。
「持っていたらいいんじゃないか」
紅葉限はわりとどうでも良かったがなんとなくそう言った。
「身を守るものはいくらでもあった方が良いだろう。女の子なんだし」
稲荷葉竹の顔から感情が完全に死滅した。
「そうやってすぐ優しい顔を見せて私をほだそうとして……どれだけ私に好かれて殺されたいの紅葉限……?」
「そんなわけないだろ……」
樟葉葉月と稲荷葉竹。紅葉限を悩ませる二大要員との絡みに紅葉は一日の最後にどっと疲れが噴出するのを感じた。
その日の夕食は別々だった。
「今日は疲れたでしょうから紅葉に休息をあげるわ」とは稲荷の言である。
休息ではなく安心がほしい。可及的すみやかに。
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