第6話 稲荷葉竹は実家でも紅葉限のことを好きなのかよく分からない(下)
「好きが嘘で殺したいが本当の場合」
「ふうん」
「……いちばん理解しやすいだろう」
「それだけなのかなあ……」
「まあその解釈に落ち着くのなら対処法は簡単。警戒をすれば良い。人に好かれるなんてことは努力でどうこうなることではないから諦めよう。殺されないことに尽力しよう。そして君の疑問にも答えられる。
「小中高といっしょだった幼馴染みにそうまで嫌われるのは辛いが……まあ理解は出来る、か」
好きだから殺すなんて妄言よりもよっぽど分かりやすい。
「ところで紅葉くん君は気付いたかな? 稲荷筮がこれまで意図的に避けているワードがあったことを」
「え?」
避けているワード?
「これもまた引っかけ問題なんだけどね。好きというのが嘘の場合というやつの話だよ。君はこの場合を嫌いと解釈したようだが本当に好きではないというのは嫌いということでいいのだろうかという話だ」
「好きではないイコール嫌いということではないって言いたいのか?」
「そうそう。たとえば紅葉限は稲荷筮のことが好きなのか? と聞かれたら困るだろう」
「どっちかというと嫌い」
「えっなんだって」
「どっちかというと嫌い」
申し訳ないが本音である。
「……クラスにお友達とかいるかな? そんなに仲良くない席が前後なだけとかそういう距離感のお友達」
筮は気持ちと話題を切り替えた。
「百原かな……」
「たとえば紅葉限は百原のことが好きなのか? と聞かれたら困るだろう」
「もちろん嫌いじゃないけど好きだというには少し行きすぎてるな」
「うんうん。そういうことさ。手垢のつきすぎた文句で恐縮だが先人曰く好きの反対は無関心。稲荷葉竹は紅葉限のことを好きでもないが嫌いでもない」
「……それこそ無理がある解釈だろう。無関心な相手を殺そうとするもしくは殺そうとしていると装う。それはもう意味不明だ。まだ好きな相手を殺したがっているの方が俺は理解できる」
「そうか。紅葉くんは稲荷葉竹が紅葉限に無関心という解釈は好みではないのだね」
筮の笑顔は優しかった。優しかったがどこか空虚だった。
「ちなみに僕の好みの解釈は、好きが本当で殺したいが嘘の場合だね」
「その動機は?」
「これまた手垢のついた言葉でいやになるけど吊り橋効果。片思いの相手を自ら吊り橋に立たせ続けて自分のことを好きになってもらいたい、いじらしい乙女の振るまいという解釈だ」
「努力の方向があさってすぎる……」
確かにそれが本当ならいじらしいとは思うけれど、稲荷葉竹はそこまで不器用な女だっただろうか。
「まああと仮定として分かりやすいのが……」
筮が何か言いかけたところでノックもなしに筮の部屋のドアが開いた。
「遅い」
湯上がり姿の稲荷葉竹がそこにいた。
アパートの風呂は狭く古い。稲荷が独り暮らしを始めた直後に紅葉に風呂が壊れたと助けを求めにきたくらい古い。そういうわけだから稲荷は毎週金曜日には足を伸ばせる実家の風呂に入る。
今はまだ暖かいからいいが冬どうするつもりか紅葉は少し気になっていた。
ちなみに紅葉も入っていくかと誘われたりもするが、稲荷の入った風呂に入るのはさすがに気も引けるし、トラップが怖い。それに生まれてこの方あの狭い湯船になれている紅葉に稲荷家の風呂は大きすぎる。
修学旅行先の大浴場にテンションが上がりすぎてすっ転んで頭を強打した過去があるのが紅葉限だ。
その話は稲荷家では鉄板で思い出すと稲荷葉竹はいつも爆笑する。
「いつまで服を選んでいるの。どうして出し終えた服が畳まれていないの。人をどれだけ待たせればあなたたちは気が済むの」
淡々となじるように言いつのりながら稲荷は筮のベッドの上の服を2枚拾う。1枚を紅葉に放り投げもう1枚は自分でたたみ出した。紅葉もそれに倣っておとなしく服を畳む。
筮は部屋のクローゼットから大きめの紙袋を取り出し、紅葉と稲荷がたたんだ服をしまっていく。
黙々と3人は作業を進めた。
筮が選んだ服を手際よくたたみ終えると。稲荷はすくっと立ち上がった。
「じゃあ帰ろう、紅葉」
「はいはい」
「たまには泊まっていけばいいのに」
「明日用事があるから。じゃあまた来週」
稲荷は明日、用事があるのかと珍しく思いつつ
「はいまた来週。紅葉くん送り狼にならないようにね!」
「なりません」
むしろ稲荷の方が獣だ。昔なじみが変貌した虎のような女だ。
「お邪魔しました」
稲荷の母と父に頭を下げて、紅葉は稲荷家をあとにした。
夜道をふたりは歩いて行く。
稲荷家からアパートまでは大した距離ではないが女子高生を一人歩かせるには気の引ける距離だ。
しかしふたりが並ぶと危機感を覚えなければいけないのは紅葉の方である。
稲荷はいつでも紅葉の命を狙うわけではない。今日の朝は階段を下りるときに何も仕掛けてこなかったが昼は仕掛けてきた。
いつ何が来るのか分からない。
紅葉はこの状態が一番怖かった。
「私の匂いを嗅いでいる変態に良いことを教えてあげるわ」
「嗅いでいない」
いい香りがするなくらいは正直に言えば思っていたが積極的に嗅ぎにはいっていない。
とんだ濡れ衣である。
「紅葉は動揺すると敬語になるのよね。湯上がりの匂いはすなわちシャンプーの匂いなのだけど……」
稲荷はタメた。
「私のシャンプーはアパートに置いてあるから今日使っているこのシャンプーはお父さんのシャンプーよ。つまりあなたが嗅いでいるのはお父さんの匂いも同じよ」
「それは聞きたくなかったな!」
何が良いことを教えてあげるだ。
いい香りだったはずのそれが一気に稲荷の父の顔を思い出させる物になる。
「せめてお母さんのシャンプーを使ってくれという顔ね」
「そんな顔でも別にないけど……」
正直両親のどちらでもショックはあまり変わらないと思う。
「お母さんのシャンプーはローズの香りなんだけど私ローズは苦手なのよね。お父さんのはお母さんが適当に買ってきたリンスインシャンプーだから一番無難なの。筮なんかメンソールシャンプー派だし……あいつ冬でもあの冷えるやつを使うのよ。信じられない。どういう了見してるのかしらね」
「そうなんだ……」
そうだったんだ。
稲荷がバラの香りが苦手とは知らなかった。
ちなみに紅葉は石けんで地肌ごと洗う派である。
「さて精神的にジワジワと追い詰めて殺す作戦、成果はどうかしら」
「さすがにそこまでのショックはない!」
どちらかというと叫び続けて疲れてしまう方が問題かもしれない。
「残念」
どこまで本気なのか分からない顔で稲荷はそう言った。
そんなばかばかしい雑談をしているとアパートにたどり着いた。
稲荷を前に紅葉を後ろにふたりは階段を上がる。
「それじゃあおやすみなさい。せいぜいいい夢を。紅葉限」
「ああおやすみ。稲荷葉竹。またな」
ふたりはお互いに笑みを交わしてそれぞれの部屋へと入っていく。
そこだけ見れば稲荷葉竹が紅葉限を殺そうとしているとは見えないだろう穏やかな光景だった。
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