第2話 稲荷葉竹は学校では紅葉限のことを好きかは分からない(上)

 学校の中では紅葉もみじかぎり稲荷葉竹いなりはだけに接点はほぼない。

 同じ1年4組ではあるもののア行の稲荷とマ行の紅葉では席が遠く離れている。

 小中学校の頃なら席替えもあったが高校では出欠を取る利便性重視で席替えは認められていない。高校に入りたての先月はそれを少しだけ寂しく思った紅葉だったが稲荷に殺されそうになって以来、席替えのない環境に感謝するようになった。というわけで座学の授業時間は紅葉限の安楽の時間である。

 現国の時間、いつものようにうとうとと船をこいでいると稲荷の声が突然聞こえてきた。

 びくっとして目を覚ますとただ単に教師に当てられた彼女が教科書の朗読を任されているだけだった。

 稲荷葉竹はすらすらと堂々と虎になった男の物語の朗読を進めていく。こうして見ていれば彼女はただのちょっと顔のいい優等生だ。誰も稲荷が紅葉を殺そうとしているなど想像もつくまい。たとえば今ここで彼女がナイフを取り出し紅葉を滅多刺しにしても誰も信じないかもしれない。稲荷葉竹とは社会的にはそういう人間である。

 もちろん稲荷が紅葉を好きだということも周りは知らないし、それどころか稲荷と紅葉が幼馴染みということすら知らないものが多い。稲荷と紅葉は高校ではそう振る舞っている。どちらかが何かを言い出すまでもなくなんとなく自然とそうなった。


 稲荷と紅葉が一緒になるのは昼食の時くらいだ。同じ高校の卒業生である稲荷筮が最愛の妹に授けた屋上の鍵を使ってこっそり屋上で食べている。

 稲荷はお手製の小さなお弁当箱を膝に器用にのせながらぼやいた。

「昼食後の体育って拷問だと思わない? 私は消化が遅いからいつも苦しくてたまらないのだけど」

「そうか」

 紅葉は購買で売っていた焼きそばパンとコロッケパンを食べながら適当に頷いた。

「紅葉はそういうことないの?」

「全然ないな。眠たくならない分、座学よりいい。毎時間体育でもいい」

「ちっ。満腹死に作戦は立案時点で失敗ね……」

「世界でも屈指の幸せそうな死に方だな満腹死に」

「字面は腹上死みたいよね」

「この話やめようか」

 紅葉はぴしゃりと言った。

「朝からどうしてそういう話に振り切ろうとしているんだ……このご時世俺がその気になればセクハラで訴えて君の方に社会的な死を与えることもできるぞ……」

「ふふっ愚かね。証拠固めもせずに手の内を明かすなんて……だいたいあなたがそんなこと出来るわけないわ。この私に恥をかかせようなんて出来ないでしょうあなたには」

 その自信はどこから来るんだ。

「それに何より完璧な優等生であるこの私が裏では幼馴染みにセクハラを働いているなんてお天道様が認めても世の中が認めない!」

「すごい悪人の台詞!」

「人を殺そうとしている人間相手に悪人と糾弾するなんて片腹痛いわよ」

「そうだった」

 セクハラも悪だが殺人未遂も悪だ。よく知らないけど刑罰的には多分殺人未遂の方が重い。

「セクハラは民事事件で殺人未遂は刑事事件らしいよ」

「よく知ってるね」

「社会的抹殺をもくろんでいるのが自分だけだと思わないことね」

「怖っ」

「まあ私は社会的抹殺より生命的抹殺に重きを置いているから重要度は低いけど」

「生命的抹殺よりも社会的抹殺の方がマシだと思ってしまうのなんなんだろうな……」

「気をしっかり持ちなさい。社会的抹殺も結構辛いものがあるわよ。知らないけど」

 殺そうとしている奴が言うことか。

「ところで本日は金曜日週末で明日はお休みね」

「そうですね」

「今夜もウチに夕飯食べに来てくれるのでしょう? 母が待っているわ」

「まあ、うん」

 稲荷葉竹が今言っているウチとはアパートのことではない。

 あのアパートは6畳一間かろうじて風呂付のアパートで父と二人暮らしだった紅葉家はともかく父・母・めどき・葉竹の四人家族である稲荷家が住むには狭すぎる。

 稲荷葉竹には実家がある。稲荷の言うウチとはそちらのことだ。

 稲荷葉竹は高校に入るのと同時に紅葉家の隣に引っ越してきた。曰く高校が近いからとかなんとか。ふたりの小学校の学区がいっしょだったことからも分かるようにそのような言い訳が通じるような大した距離ではなかったが、稲荷家は子供たちの自主性を重んじる家風だったため難なく許可が下りたらしい。

 下ろすな。頼むから。

 下ろした結果あなた方の娘さんは殺人未遂犯に成り下がっています。

 週末には夕食に招いてくれるなどとても親切にしてくれている稲荷夫妻にそのようなことを伝えるわけにもいかず、紅葉はひとりで稲荷葉竹と向き合わなければいけない状況だ。

 いや実はこの状況を知っている人間が稲荷と紅葉以外にふたりもいるのだがその内ひとりは稲荷筮であり筮は全面的に葉竹の味方であるので役には立たない。そしてもうひとりは誰の味方でもない男だった。

「今日の夕飯なんだと思う? 私はハンバーグ」

「いや知らねえよ。先週はグラタンだったな。あれ美味かった」

「あのくらいなら私だって作れる。母に習えば」

「そりゃ作ってくれた人に習って同じものを作れないような奴は一人暮らしで弁当を作ったりも出来ないだろ……」

 ほとんど食べ終えられた稲荷の弁当はほとんど手作りである。作り置きはあっても冷凍食品は入っていないらしい。それは手間をかけるのが好きとかではなく単純に彼女の部屋に冷凍庫がないからである。紅葉たちのアパートは備え付けのワンドアの冷蔵庫があるので普通の野菜室や冷凍庫のある冷蔵庫が置けないのだ。父親が生きていた頃は紅葉家の冷蔵庫の中にはビールがすし詰めになっていた。

 ちなみにコンロも一口しかないので稲荷はよく紅葉の部屋にやかんや鍋を持ってきてコンロを貸せと言ってくる。

 紅葉はそれにデストラップが仕掛けられていないか日々警戒しているが今のところその方面からの被害はない。

「習えば作れる……ね。紅葉あなたは料理を知らなさすぎる。どこかで他人の地雷を踏まないように気をつけた方が良いわ……」

 妙に暗い顔で稲荷はそう言った。

「料理とは……わりとそういうものではないのよ……わりと……」

「そ、そうか覚えておくよ……」

 やけに重たい調子の稲荷の態度に紅葉は素直に肝に銘じることにした。

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