君は俺を好きすぎる

狭倉朏

第1話 稲荷葉竹は朝っぱらから紅葉限のことを好きすぎる

 紅葉限もみじかぎりがいつものように高校に遅刻ギリギリの時間にアパートの自室を出ると玄関の前には幼馴染みの稲荷葉竹いなりはだけが立っていた。

「おはよう紅葉」

「おはようございます、稲荷葉竹さん」

「ずいぶんとかたいわね。まだ寝ぼけているのかしら」

 淡々と紅葉の顔をまっすぐ見ながら稲荷は言った。

「そうかもしれないですね」

 今日も見た目だけは完璧な稲荷の顔を眺めながら紅葉は警戒心たっぷりにそう答える。

 ふたりは狭いアパートの廊下を紅葉を前に稲荷を後ろにに歩き出す。

「寝ぼけていると言えばあなた今日まだ朝ご飯食べていないでしょう」

「なんで知っているんですか」

「だってこのアパート壁が薄いじゃない。何でも丸聞こえよ。あなたが飛び起きた音も鳴らなかった目覚まし時計を畳にぶん投げる音も聞こえまくりよ」

「それはご迷惑をかけて申し訳ありません」

「いいのよそんなこと」

 紅葉は手すりをがっつりつかみながら稲荷に先行してアパートの階段を下りる。

「それより朝に何も食べないなんて体に悪いわ。良かったらどうぞ」

 稲荷葉竹は紅葉限にパックに包まれた焼きそばパンを背後から差し出した。

 紅葉限は素直に受け取ったがすぐには食べない。アパートの階段を下りきってから、焼きそばパンのパックを全身くまなくためつすがめつして彼は見つけた。

「おいこら稲荷葉竹」

「何かしら紅葉限」

「この穴は何だ穴は」

 微少な注意深く探さないと見つからなかっただろう針で刺したような小さい穴を紅葉限は焼きそばパンの袋に発見した。

「バレたか」

 稲荷は表情を変えないままちっと舌打ちをした。

「もう一度聞くこの穴は何だ」

「注射器で薬物をパンに注入するための穴よ」

「どこで薬物を……?」

めどきに調達してもらえるわ」

 稲荷筮は大学3年生。近所でも評判の学業優秀な人間だったが筮には妹のためなら何でもするという最大にして最悪の欠点があった。

「野生動物のような勘を持っているわね……残念」

「こういう食べ物を粗末にするような真似はやめろ」

 しごくまっとうな指摘をしながら紅葉は稲荷に焼きそばパンを返した。

 稲荷はなにやら不服そうな顔をしたが特に反論はなかった。

 そして稲荷葉竹は焼きそばパンの封を開けた。

 無理矢理食わされるのかと防御態勢を取った紅葉に頓着せず稲荷は焼きそばパンを食べた。

「何してる!?」

 紅葉は慌てて稲荷の腕を掴む。

「何って……食べ物を粗末にしてはいけないわ」

「その前に命を粗末にするな」

「安心しなさい。このパンに薬物は入っていないから」

 もぐもぐと口を動かしながら稲荷は歩き出す。

「……なあちょっと遅刻遅刻~って言ってみてくれないか?」

「遅刻遅刻~」

「うわあ本物だあ。じゃなくて……入ってないのかよ薬」

「実践前の実験ですもの。紅葉限はどのくらいの穴に気付くのかというね」

「……」

 だったら食べればよかった。

 空腹を我慢しながらの道中、紅葉限は稲荷葉竹に言うべき言葉を探していた。

「……なあ稲荷、俺が何かをしたなら謝るよ。俺に何かして欲しいというのならできる限りのことをする」

「限だけに?」

 稲荷の茶茶入れを紅葉は無視した。

「だからどうか理由を教えるかやめるかしてくれないか。このよく分からない嫌がらせよりたちの悪い殺人計画を」

「私の口からそんなこと言わせるなんてこの恥知らず」

 ずいぶんととんちんかんなことを言って稲荷葉竹は顔を真っ赤にして紅葉から目をそらした。

「どうしてそんなことが言えるのかしら人の心がないのかしら紅葉限」

「薬物を人に仕込もうとする計画を練ってる人間が人の心を語るんじゃない」

「私があなたを殺そうとする理由があるのならそんなのは分かりきっているものじゃない」

「ごめん分からん」

「そう残念ね。しょうがないわ。察しの悪いあなたに残念だけど特別に教えてあげましょう」

 稲荷は紅葉の顔をしっかりとまっすぐと見つめた。その顔は赤かったが、表情は何も浮かんでいなかった。

「私はあなたのことが好きだからあなたを殺さなければいけないのよ」

 稲荷葉竹は堂々と愛の告白と殺意の告白を同時に執り行った。

「だからそれがちっとも分からないって言ってるんだよ!」

 天下の往来で紅葉は大声を出した。

 近所の人がちらちらとこちらを見ながら過ぎ去っていく。

「ええ!?」

 稲荷葉竹は驚いた。頼むから驚くな。

「じゃああなたは愛する人を殺したいと思ったことはないというの!? 自分の感情を揺さぶる何者かの存在がどうしても許せなくてこの世から抹殺したいと思ったりしないというの? 思うだけで心乱れる人間が疎ましくてたまらなくて消えて欲しいと願ったりしないというの?」

「全部ないよ! 多分だけど俺が普通だよ! 中二病は中学生で卒業しろ稲荷葉竹。俺たちはもう高校生だ。次のステップに進むべき年齢だぞ!?」

「次のステップ!?」

 稲荷葉竹の顔色がもっと赤くなった。

「つ、次のステップだなんていやらしい……」

「待て何を想像した!?」

「隣からそれっぽい音がしたことないから紅葉はそういうことに興味がないと思っていたのに……やっぱり音を消すかイヤホンでもしていたのね……」

「健全な男子高校生である俺がそういうことに興味がないとはもちろん言えないが君はいったい俺の何を聞こうとしていたんだ……あとそういう話を外でするのやめような」

 いろいろ差し障りがあるから。近所の人の目があるから。まだ小学生も歩いているから。通報が怖いから。

「いやらしいわ……」

 稲荷はもう一度呟いたが顔色を戻して宣言した。

「まあとりあえず、そういういことだから、私に殺されたくなかったら私に嫌われる努力をして見せなさいな」

「よく分かったよ、君を人殺しにしたくないから君に嫌われる努力をしてやるよ……」

 紅葉は疲れて肩で息をして見せた。

 稲荷はまた少し顔を赤らめた。

「あなた本当に嫌われる気あるの……?」

「あるけど……?」

「つまり天然タラシ野郎ということね……これはいけないわ……私以外にこんな粉をかける前に抹殺しなくては……」

「……」

 抹殺の意志を固めさせてしまった。

 どうしてこの幼馴染みはこうなってしまったのだろう。紅葉限がそう思い悩んでいる間にふたりは高校に到着した。遅刻はしなかった。

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