真夜中、てっくんは体を起こしました。隣でおじいちゃんが寝ています。てっくんは密かに立ちあがり襖を開けて、縁側まで歩いていき、外に出ました。空を見上げると真ん丸なお月様がてっくんを見下ろしていました。そのお陰で電気をつけたように、明るいのでした。畑の横を通って、坂道に出ようとしたとき、後ろから足音が聞こえました。


「てつ。こんな時間に一人で出歩いたら駄目じゃないか」


 振り替えると、おじいちゃんが寝間着のままで、立っていました。


「おじいちゃん……」

「どうしたんだ? また、海でも、見たくなったか?」

「…………」

「どうして一人で出てきたりしたんだ?」


 平然とそう言ってのけたおじいちゃんに対して、風船のように怒りが膨らんでいきました。細めた瞳でおじいちゃんを睨みつけています。


「てっくん、もういなくなろうと思うんだ」

「何を言ってるんだ?」

「もう消えちゃいたい。だからバイバイしにいくの」

「てつ。そんなこと言うな。何があったんだ」

「……だって。だって! おじいちゃん、嘘ついたじゃん! お母さんのことで隠し事もしてるし。お母さんてっくんのこと嫌いだったもん。気持ち悪いって、てっくんなんか死んじゃえって……言ってた。お母さんの邪魔になるならてっくんいないほうがいいもん。だから……もう!」


 てっくんは肩で息をしています。こんなにも大声で叫んだのは生まれて初めてかもしれません。てっくんは怒っていました。昨日、おじいちゃんは、てっくんにたくさん嘘をつきました。てっくんはおじいちゃんなら真摯に向き合って話をしてくれると信じていたのに、期待を裏切られたのです。結局おじいちゃんも子供だと思って、てっくんのことを馬鹿にしていたのです。てっくんは死ぬほど悩んで苦しんでいたのに、おじいちゃんは軽々とそれを軽くあしらいました。それでも、おじいちゃんを傷つけたくなくて、その事に口をつぐんで、いい子を演じて、もうここにいる意味がないと思い、出ていこうとしたのです。なのに、そんなことにも気づかず、いいおじいちゃんぶってのこのこ出てきたおじいちゃんをついに、許すことができなくなりました。てっくんのことを本当に思っているなら、おじいちゃんは、てっくんと真剣に向き合うべきでした。


「てつの言う通りだ。じいちゃんは嘘をついた。子供だましみたいな言葉で言いくるめて、てつを安心させようとした。けど、てつは全部知ってたんだな」


 やけに静かに答えたおじいちゃんに耐えられなくなって、てっくんは視線をおじいちゃんから反らしました。自分だけが興奮していて、嫌になってきました。大人はこういうところがずるいのです。

 おじいちゃんがまた口を開きました。


「確かに嘘つきのじいちゃんにてつを止める権利はないな。けど、じいちゃんのわがままを聞くだけ聞いてくれないか? じいちゃんはなあ、てつに生きてほしくて嘘をついたんだ。てつが死んだらおじいちゃん悲しいからな。ばあちゃんだってそうだ。今もてつの手を握りしめて、てつが来てくれることを祈ってるはずだ」


 おじいちゃんは穏やかに話を続けました。しかし、沸騰したてっくんの気持ちは収まりません。おじいちゃんの言っていることが、すべて嘘に聞こえてくるのです。

 てっくんはおじいちゃんを無視して、駆け出しました。おじいちゃんが追いかけて来ているかどうかは知りません。無我夢中で走った後、振り返えると、おじいちゃんの姿はありませんでした。

 てっくんは一本道を一人で登っていきます。今夜は月光が明るく、街灯がなくても、道を認識することができます。不法投棄されたゴミもです。近くで、捨て犬の遠吠えが聞こえましたが、てっくんは気にせず進んでいきます。進む道には、カナブンやセミの死骸が沢山転がっています。醜くぐちゃりと潰れているものもあります。月の光に照らされたどす黒い海が木々の間から遠くに見えます。歩いていると、てっくんの目から涙が出てきました。たくさん溢れて止まりません。てっくんは久々に泣きました。今まで我慢してきたものが全部出てきました。嗚咽を我慢することもしません。てっくん自身、嬉しくて、泣いているのか、悲しくて泣いているのかわかりません。すると、一際海が見える場所がありました。落ちればまず命はないであろう高さの崖です。てっくんはそこに酷く惹かれました。夜の冷やかな風がてっくんの頬を撫でます。てっくんは一歩、一歩と、その崖に近づいていきます。

 今にも落ちそうなほど、崖に近づいた時、近くで犬が鼻を鳴らす音が聞こえました。てっくんは音が気になって振り返りましたが、見える範囲に、犬はいないようでした。てっくんが草むらに入って、しばらく捜索すると、日本犬のように耳が立った犬が横たわっていました。その犬を心配するように、子犬が匂いを嗅いでいます。その犬はもう動けないようでした。呼吸も微かです。てっくんは早く助けてあげなくては、と思い犬を抱き上げうとしましたが、どうやっても触れることが、できません。どういうことか、体をすり抜けてしまうのです。手をみると、今にも透けて向こう側が見えそうになっていました。


「なにこれ」


 てっくんは自分の手を擦りますが、透けるのはなくなりません。しかし、てっくんはそのことはあまり気にしませんでした。早く犬を助けることしか、頭にありません。


「おじいちゃん!」


 てっくんは咄嗟にそう叫び、おじいちゃんを探し始めました。しかし、てっくんは無我夢中で走っていたせいで、ここがどこか分かりません。


「おじいちゃん! おじいちゃん!」


 てっくんは悔しくて、悲しくて、涙が出てきました。自分の力だけでは救うことができない不甲斐なさに、情けなくなってきます。そのやるせなさをぶつけるようにおじいちゃんの名前を叫び続けます。


「どうしたてつ!」


 おじいちゃんの焦ったような声が聞こえました。安心すると同時に、てっくんはおじいちゃんを見つけました。おじいちゃんはてっくんのことを追いかけてきてくれていたようです。


「おじいちゃん! わんちゃんが大変なことになってるの! 助けてあげて!」


 てっくんはおじいちゃんを草むらに案内します。おじいちゃんが犬を見た時、ああ、と声を漏らしました。てっくんはそれを聞いて認めたくない何かを察してしまいました。


「てっくん。この犬はもう助かりそうもない」

「……え、なんで」

「もうハエがたかってきている。手遅れだ」


 おじいちゃんは死にかけている犬にすがりついている子犬を抱き上げました。


「かわいそうに。最初は四匹子犬がいたんだが、もう一匹になっていたか。保健所に連れていかれたんだろうな」


 てっくんは犬のそばでしゃがみました。死にゆくというのに、辛そうには見えません。眠っているようなのです。


「おじいちゃん、わんちゃん苦しかったかな」

「どうだろうな。子供を残して死んだのは無念だったかもしれないが、人間の手にかからず、自然のまま死ねたのは本望だったかもしれないし、おじいちゃんにはわからないな」

「てっくんが代わってあげられたらよかったのに」


 てっくんは誰にも助けられなければ、とっくに消えていた命です。てっくんは生に対しての執着が薄いのですが、この犬はまだきっと生きたかったでしょう。そして、てっくんのように生きるチャンスもないのです。てっくんはこの世の理不尽さを知りました。生きたいと願う者が死に、生きたくもないものが生きる、こんな悲しいことがあるでしょうか。てっくんは自分が贅沢に選択していることで、犬に罪悪感と申し訳なさを感じました。


「そうだ。命っていうのはどんなものでも代えがきかないんだ。なあ、てつ。この犬を見てどう思った?」

「かわいそうだと思ったよ」

「てつは自分が自分の命を無駄にしようとしていることをどう思う?」

「…………」

「世の中には生きたくても生きられない命が山ほどあるんだ。そんな中で自分の命を簡単に投げ出すようなことをして申し訳ないと思わないか?」

「……でも、てっくんがいたらお母さんの邪魔になるし、一緒にいたくても会えないんだよ」

「てつ、他人のために死ぬ必要はない。それは生きるときも一緒だ。この世に産まれた瞬間からてつは一人の人間になるんだからな」

「…………うん」


 てっくんの瞳から大きな涙ぽろぽろと落ちてきました。てっくんにとってこれまではお母さんが全てでした。好かれたくて、愛してほしくて、一生懸命笑って、いい子になろうと努力してきました。そのお母さんを否定してこれから生きていけるか、自信がありません。てっくんは自分がこんなにも臆病者だとは知りませんでした。自分一人で立ち上がる勇気がなかったのです。


「なあに、心配しなくても、じいちゃんがついてる。それに、じいちゃんやばあちゃん以外にもてつのことを好きになってくれる人が絶対に現れる。てつは一人になるわけじゃない」

「本当? 今度は嘘つきじゃない?」

「ああ、だから、もうちょっと、この世界を見ていったらどうだ? バイバイするのはいつでもできるけど、やりたいことは今しかできないんだぞ。こいつも元気になったてつと遊びたいだと。その体じゃ遊べないからな」


 おじいちゃんは子犬を半透明になったてっくんに掲げました。子犬は放せと言わんばかりにおじいちゃんの指に噛みついています。


「うん。ちょっと頑張ってみるよ」


 そう言ったときのてっくんの気持ちは、雨上がりの空のように穏やかでした。


 

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