てっくんはその夜、久しぶりに夢を見ました。綺麗な人がてっくんのお家の中にいます。知らない男の人です。てっくんを見て微笑んでいます。どこかで見たことがあるのですが、思い出せません。その男の人はお母さんの髪を掴んでいました。まだ幼いてっくんでも、異常な光景だということはわかります。その人はお母さんをぽかぽか殴りました。ぽかぽかという擬音では生ぬるいくらいかもしれません。てっくんはお母さんを助けたくて叫ぼうとしましたが、声は出ません。手も足もまったく動きません。次第に、視界が朧気になってきました。薄くなる景色の中で、てっくんは気づきました。あの男の人の顔は見飽きた自分の顔にそっくりだと。
てっくんは鳥さえずりと一緒に目覚めました。さっきの夢は何だったのだろうと、思い返します。あの男の人は大きくなったてっくんなのでしょうか。そのくらい似ています。もしこれが本当なら、将来てっくんはお母さんをいじめることになります。てっくんは恐ろしくて、身震いしました。いや、そんなはずはない、あんな恐ろしいことを自分がするはずないと、言い聞かせます。
一人では不安になったてっくんはおじいちゃんを探そうとしましたが、隣で寝ていたはずのおじいちゃんはもう布団から抜け出していました。のそのそと布団から這い出し、襖を開けて隣の部屋にいくと、テレビが一人で喋っています。
「あ」
そこには昨日見た電気屋のテレビと同じように、お母さんの顔写真が映っていました。次にスタジオの様子が映し出され、アナウンサーが悲嘆に暮れたような顔で、何かを告げています。その時、隣の部屋からおじいちゃんが入ってきました。
「おじいちゃんどうしてお母さんがテレビで紹介されてるの?」
てっくんが尋ねると、おじいちゃんは息を呑んで、テレビのリモコンを取って消してしまいました。
「おじいちゃん?」
「てつ。どこか行きたいところはないか? 今日は日曜日だからどこか連れてってやれるぞ。遊園地とか、水族館とか」
おじいちゃんの静かな顔つきにてっくんはお母さんのことはおじいちゃんにとって具合が悪いのだと、察しました。一方で、行きたいところと聞かれても特別ありません。どう答えようかと、考えを巡らせていると、インターフォンがなりました。おじいちゃんは、ため息をついて、てっくんに言いました。
「てつはここにいなさい。出てきたら駄目だぞ」
おじいちゃんは玄関の方に歩いていきました。すると、玄関の方ががやがやと騒がしくなってきました。訪問者は一人ではないようです。てっくんはその様子がとても気になりましたが、おじいちゃんに来るなと言われています。考えた結果、縁側から出て、玄関の様子をこっそりに見に行くことにしました。外に出ると、何台かの車が庭に停められていました。さらに、進んで家の角から玄関を見ると、何人かのスーツを着た人がおじいちゃんに詰め寄っていて、おじいちゃんは迷惑そうに眉間にしわを寄せていました。それからしばらくやり取りがあって、おじいちゃんが玄関の扉を閉めるとスーツの人たちは諦めたように帰っていきました。てっくんは慌てて縁側から部屋に戻ります。てっくんが戻ったと、同時におじいちゃんが玄関から帰ってきました。あの人たちはなんだったのかおじいちゃんに尋ねたいと思いましたが、言いつけを破ったことが知られたくなくて、てっくんはそのことを黙っていました。
「てつ、どこに行きたいか決まったか?」
部屋に入って来るやいなやおじいちゃんはそう尋ねてきました。てっくんの答えは決まっていました。
「行きたいところじゃなくてもいい?」
ガタンゴトンと心地よいリズムを体に感じながら、てっくんは青いどこまでも続く海を車窓からながめています。この電車は海沿いを走っていくのです。
てっくんは生まれて初めての電車に心躍らせました。車体が揺れるのと同時に自分の足もプラプラ揺らします。真昼間のこの時間、この車両にはてっくんたちしかいません。貸し切りの状態にてっくんはその空間が自分たちのものになったように感じてさらにうれしくなりました。
「てつ、楽しいか?」
「うん、楽しいよ。ほら、おじいちゃん、お昼なのに月が見える」
青い空のキャンバスに白い雲が船のように飛んでいて、その上に白い月が浮かんでいます。暫くすると、列車が止まり動かなくなりました。どうやらここが終点のようです。
「どれ、海でも見ていくか」
おじいちゃんと手をつないで海まで歩いてきました。砂浜はてっくんのいるところからは見えません。当たり一面まん丸い石だらけです。てっくんは海には砂浜が付き物だと思っていたので驚きましたが、好奇心に駆られたてっくんはおじいちゃんの手を離して、駆け出しました。石だらけで、コンクリートの地面より走りにくく、体が重くなったように感じますが、それすらも初めての体験で、面白く思いました。転んでも石が丸いのであまり痛くありません。ついにてっくんは波打ち際まできました。波が行ったり来たりを繰り返しています。てっくんは引いた波を追いかけて、押し寄せる波から逃げたりして遊び始めました。
「てつ。波にさらわれるんじゃないぞ」
おじいちゃんが後ろで叫んでいます。
「何で?」
てっくんが立ち止まると追いかけてきた波がてっくんの足にかかりました。てっくんは昨日のことを思い出して悪寒が走りましたが、むしろ、波は優しくてっくんの足を撫でて、また海に帰っていきました。
「この海は渦が巻いてるからな、帰ってこれないかもしれない」
「こんなにきれいなのに危ないんだね。なんだか悲しいや」
てっくんの目の前には濃い青や水色のまだら模様の海が広がり、頭上を一羽のトンビが、潮風に身を任せて空を飛んでいます。生温い潮風も、波のさざめきもてっくんにとっては初めて感じるものでした。
「でもな、この海はこの星で一番でっかいんだぞ」
「えっ! そうなの! すごいや、てっくん一番を見ちゃった」
「そうだなぁ」
「おじいちゃん、てっくんもおっきくなれるかな」
「……ああ。てつはおっきくなったら何になりたいんだ?」
「学校の先生だよ」
「すごいな。だったらいっぱい勉強しなくちゃな」
褒めてくれたおじいちゃんの声は何故か少し震えていました。
「うん。だけど、おっきくなったら、てっくん、お母さんをいじめるかもしれないんだ」
「どうしてだ?」
「夢でね、お母さんをてっくんがいじめる夢を見たから。だから、おっきくならないほうが、いいのかなーって思ったの」
「それは夢の話だろう。てつがおっきくなっても、お母さんを大切に思う気持ちがあれば大丈夫。お前はそんな酷いやつにはならない」
おじいちゃんは優しくてっくんの頭を撫でてくれました。それは随分長い間、忘れていた感覚でした。安心させてくれるような温かくて、大きな手です。
「おじいちゃん」
「なんだ?」
「今日は電車に乗せてくれてありがとう。世界一の海も見れたし、これで宿題が描けるよ」
「宿題? 保育園にも宿題があるのか?」
「うん! 思い出を作ることだよ!」
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