てっくんはてくてくとアパートから出て直ぐの坂道を下っていきます。蒸し暑い気候のせいか、てっくん以外に通行人はいません。パンダ色の車が一台てっくんの隣を通りすぎて行っただけです。それでもてっくんは、大人でさえ避けたがる灼熱の太陽の下で温められて、熱の籠った道路を、ものともせずに進んでいきます。今は行動することしか頭にないので、そんなことは歯牙にもかけないのです。坂道を下っていくと少し大きな道路に出ました。車通りも多いですが、歩道があります。そこを右に曲がって、ちょっと進むと、おばさんがレースがついた黒い日傘をさし、扇子をぱたぱた仰いで立っていました。そこがてっくんの第一の目的地でした。てっくんがたどり着いたとほぼ同時に、大きな緑色のバスがやってきます。ぷしゅぅと、空気が抜けるような楽しい音がして、バスが停車しました。いつもはお母さんが手を引いてくれましたが、今日は一人で頑張らないといけません。てっくんはおばさんに引っ付くようにして乗車します。「うんしょ」と、気合いを入れてから、大きく足を上げて、何とか上りきることができました。てっくんは座席のシートにキリンがプリントされた子供用の席に座ります。このバスはいつもお母さんが仕事に行くときに使っていると聞いています。同時にてっくんの幼稚園に向かうバスでもあります。このバスに乗って行けば、お母さんの職場にたどり着くだろう、と考えました。てっくんはすごいことをしでかしてやったぞと、得意になって、ご機嫌な様子で窓の外を眺めていました。

 しばらくするとバスは大通りに出ました。背の低い建物の中で、一つだけ飛び抜けて大きい建物の前で停車します。てっくんより前から乗っていた乗客が何人か降りていきます。そこで、ハッとしました。今まで、お母さんの職場について行ったことはなく、どこで下車すればよいのかてっくんは知らなかったからです。どうしようと、困惑している間にバスの扉が閉まります。そのままてっくんはバスに流されてしまいました。

 てっくんは焦って窓の外を見ますが、どうすることもできません。運転手さんに「お母さんのしょくばはどこですか」と、尋ねたところで知っているはずがないのです。すると、バスが流れていく先に見知った建物が見えてきました。壁をピンクと灰色で塗ったひときわ目立つショッピングセンターはてっくんがよくお母さんと一緒に買い物に行った場所です。唯一の外出先と言っても過言ではありません。てっくんと同じバス停で乗ったおばさんが、降車ボタンを押しました。いろんなところについたボタンが一斉に赤い光を放ちます。そのショッピングセンターの近くでまた、バスが停まりました。おばさんが下車するときにてっくんもついていきます。まだ小学生ではないてっくんは料金が要りません。お母さんに教えてもらっているので、てっくんはそのことを知っていました。てっくんはショッピングセンターの入り口に向かって歩き始めました。

 ショッピングセンターの入り口までくると、大きな自動ドアがてっくんの前にそびえ立ちます。お母さんと一緒に来たときは触れずとも開いたのに、てっくんが目の前に立っても扉は開きません。不思議に思い、首を傾げていると、店内からスマートフォンを片手に持った男の人が歩いてきました。すると、当然のように内側の扉は開きます。外側も同様です。男の人はスマホに夢中なのか、てっくんと、ぶつかりそうになりました。てっくんは慌てて避けます。お母さんと一緒なら、ぶつかりそうになっても助けてくれましたが、今は自分でしっかりしなくては、なりません。てっくんは開いた自動ドアに駆け込みました。

 てっくんがここに来た理由はもしかしたらお母さんが買い物に来ているやもと、思ったからでした。しかし、食品売り場は人が多く、商品棚に視界を遮られて思うように、探すことができませんし、何度も食品を見るのに夢中になったおばさんにカートで引かれそうになりました。人混みの中にいるだけで、てっくんはくたくたになって、座り込んでしまいたくなります。ふらふら歩いていると、てっくんが好きなお菓子のコーナーに着きました。いかにも子供の目を引きそうな色とりどりのパッケージに包まれたお菓子が沢山並べられています。てっくんも目を輝かせて、お菓子を眺めます。喉から手が出るほど、ほしいのですが、お母さんがいないので、手にいれることはできません。目に毒だと、思いその場を離れました。

 エスカレーターに乗って、二階の生活用品売り場を無視し、三階のオモチャ売り場にやってきました。単純にてっくんが見たいものがあったので、ここに来ました。


「をおぉ」


 てっくんは歓喜の声をあげました。てっくんのお目当ては電池で動く電車でした。保育園で他の男の子たちは仮面ライダーのベルトやカードなどの話で盛り上がることもありましたが、てっくんは電車や車のおもちゃのほうが気に入っています。気に入っているといっても、実際に持っているのは、おじいちゃんに買ってもらった一台だけで、レールも駅もありませんでした。なので、てっくんはレールのない床に電車を滑らせて一人で遊んでいました。お母さんに他の電車やレールをせがんだこともありましたが、その度にお母さんは悲しそうな顔をして、うちは他の家とは違うでしょ、我慢してちょうだいと、てっくんに言い聞かせるのでした。てっくんもそれ以上はお母さんを困らせたくないので、口をつぐみます。他の家と違うというのは、お父さんがいない、ということなのはてっくんは言われずともわかっていました。保育園に行くようになって、友達と喋ってようやくその存在に気付きました。てっくんはお父さんがどのような存在なのか、肌で感じたことがないので今だによくわかっていません。どうやらいないと具合が悪い、いたほうが楽しいという程度の認識しかありません。 

 てっくんは暫し、プラスチックケースに入れられたおもちゃの電車を眺めていることにしました。忙しいお母さんと一緒に来たときはさほど長い時間は見ていられないので、今のうちに眺めておくことにしました。赤いの、青いの、オレンジ色の、顔が四角かったり、三角だったり、この面長なのは新幹線か……。新幹線には一度は乗ってみたいと思います。普段はバス移動で電車には乗ったことがないので、余計に憧れるのです。てっくんは新幹線のおもちゃを手に取り、箱を回転させて観察します。すると、てってってと軽い足音が聞こえました。てっくんの隣に、同い年くらいの男の子が立っていました。男の子はてっくんを不思議そうに、見つめています。一度、首をかしげてから、てっくんが持っている新幹線のおもちゃを指さしました。


「それ、ぼくがほしいやつ」


 男の子はよこせと言わんばかりに、てっくんを睨みつけてきます。てっくんはもう少し見ていたい気持ちもありましたが、大人しく男の子に手渡しました。どうせ自分が持っていても、手に入れることはできないのです。それならば、譲らない理由はありませんでした。男の子はうれしそうに受け取ると、同じように眺めます。


「でんしゃ好きなの?」


 てっくんは尋ねました。男の子はおもちゃから顔を上げててっくんを見つめます。視線をまたおもちゃに移してから答えました。


「まあまあ」

「乗ったことあるの?」

「あるよ。ぼくはこのシンカンせんにも乗ったことある」

「へー、やっぱり速い?」

「……寝てて覚えてない。けど、たぶんそう」

「そっか」

「まさき!」


 大人の女の人の声が聞こえました。買い物袋を片手に足早に近づいてきます。


「ここにいると思ったわ。さあ、帰りましょう」

「ママ、これ買ってよ」


 男の子は女の人におもちゃを見せます。


「こないだ買ったばかりでしょう。今日は我慢して」

「えーでも、ほしい!」

「また今度おばあちゃんの家に行ったときにでも買ってもらいなさい。今日は帰るわよ」


 男の子は強制的におもちゃを奪われ、引きずられるようにして、その場を離れていきました。てっくんはその様子を羨ましげに見ていました。お母さんがいなくなった今の自分では𠮟られることもできません。よりいっそうお母さんを見つけなくてはという使命感に駆られました。

 

 

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