夏に思い出

 

 ビチャッ!




「あーやっちゃった」


 年期の入ったアパートの一室で、てっくんは、小さく悲鳴を上げました。焦げ茶色のフローリングの上に白い水溜まりができています。急いで紙パックの口を上に向けて、水溜まりの横に置きました。しかし、中身はほとんど残っていません。てっくんは哀しげに水溜まりを見つめます。お母さんは仕事に行っているはずなので、直ぐにはばれませんが、このことを知られれば、間違いなく怒られるでしょう。何とかして、この失敗を隠蔽したいと、体を揺らしながら考えます。次の瞬間には立ちあがり、てっくんとほぼ同じ背丈の机の上にあるティッシュの箱を、背伸びして掴もうとします。あと少しのところで、届きません。てっくんは早々に諦めて、椅子によじ登って箱を手に入れました。ティッシュを水溜まりに一枚被せます。牛乳が染みて一瞬でティッシュが同化したのを、不思議そうに眺めます。一枚では拭き取ることができません。ティッシュを次々と追加します。しゅぽしゅぽとティッシュを引き抜く音が楽しくて、夢中になっていたら、いつの間にか白い塊が雲のようにもくもくと膨らんでいました。箱は軽くなり、から箱の底を覗くと、ビニールの間から灰色の底が覗けます。


「はぁ」


 てっくんの小さなため息は蝉の声にかき消されました。チクタクとアナログ時計の針の音がやけにゆっくりに聞こえます。


「怒られたくないなぁ」


 普段は優しいお母さんですが、怒るとその行いを心底後悔するくらいに怖いのです。チラリと時計に目をやると、おやつの時間を小さな針が少し過ぎたくらいでした。お母さんは針が一直線になる頃に帰ってくると言っていたので、まだ時間はあります。ゴミ箱を引き寄せて、冷たくなったティッシュを運びます。びちゃびちゃと滴り落ちる音が響いて、入れる際に、牛乳が飛び散り、余計に広がって、汚らしくなっているのを見ました。自分の力ではお母さんのように、溢した牛乳さえも片付けることができないと思うと、てっくんは空しくなります。怒られることより、お母さんに失望されるほうが怖いのです。ですが、すぐに男らしく腹を括って、素直に謝ろうと決めました。

 てっくんは牛乳との戦いに見切りをつけ、保育園でもらった宿題の日記に取りかかろうとします。背の低いちゃぶ台にぺんぺらの紙とクレヨンを並べて、その前にあぐらをかきます。日記といっても文字で書くのではなく、夏の一番の思い出を絵に描くのです。そして、いつも描く前に手が止まります。てっくんは夏休みにまだどこにも出かけていませんでした。まだ小さいので一人で友達の家に遊びに行くこともできません。きっとこれからどこにも遊びに行かないのは、てっくんにもわかっていました。お母さんは仕事で忙しく、そんな余裕がないのは、いつも仕事終わりのため息で嫌なほどに分かります。去年の夏休み明け、友達が自慢気に家族で外国に行った話や遊園地に行ったことを語りあっていたのを思いだします。仕方ないのは承知していますが、今年も何もないのかと思うと少し寂しいです。てっくんは嫌な気持ちを払拭するように目を擦りました。

 事情はどうあれ、宿題はこなさなければなりません。出来事は浮かばないので、まずは背景をてっくんの好きな青色で、塗っていきます。それからてっくん自身とお母さんを。しばらくすると、クレヨンを握る手に力が入らなくなり、頭が重くなってちゃぶ台に頭をぶつけそうになりました。てっくんはごろんと横になります。穏やかな睡魔が訪れたのです。ちょっと休憩するつもりが、そのまま意識が遠退いていきました。

 てっくんがもう一度目を開けると時計はもうすぐ一直線になろうとしていました。眠ったお陰なのか、至極頭と体がすっきりしています。てっくんは牛乳のことを思いだし、底冷えする思いになりました。お母さんは仕事で疲れています。仕事を増やして、怒られないはずがないのです。さっきは腹を括りましたが、いざ目前となると、聳然としてしまいます。

 お母さんが帰って来なかったら怒られることもない。

 と、ふと考えてしまいました。心の隅のほうがざわざわします。なんて恐ろしいことを思ってしまったんだと、自分のほっぺたをつねって窘めます。大好きなお母さんが帰って来ないより怒られるほうが、幾分もましです。素直に謝れば、お母さんもきっと許してくれるはずです。てっくんは深呼吸を一つしてお母さんが帰ってくるのを待ちました。

 お母さんを待って、随分と時間が経ちました。日は完全に沈み、窓の外には暗闇が広がっています。てっくんは欠伸を一つしました。とりわけ不安にはなりません。お母さんが一晩帰って来ないのは、これが初めてではないからです。不思議とお腹は空いていなかったので、冷蔵庫のご飯も食べずに、電気を消して、敷きっぱなしの布団の中に潜り込みました。きっと夢ではお母さんと楽しい思い出が作れるだろうと、勝手に期待して瞼を閉じました。

 次の日、朝起きると当然のようにお母さんは、いませんでした。てっくんは少し悲しくなりますが、小さな自分では何も出来っこないと諦めて、お母さんの帰りを待ちます。しかし、その日の夜も帰って来ませんでした。また次の日も太陽が登って、お月様が顔を出しても帰って来ませんでした。お母さんが帰って来なくなって、呆気なく三日が経ってしまいました。

 てっくんは座り込んで、独り虚空を眺めています。涙は出てきません。きっと自分がチラリとでもお母さんのことを疎ましく思ったことで、ばちが当たったのだ、多くを望んだ欲張りな自分を神様が、罰するためにお母さんを隠してしまったに違いないと、思いました。


「反省するので、お母さんを返してください」


 てっくんは顔の前で合掌しました。お祈りの仕方が合っているかどうかは知りませんが、合掌せずにはいられませんでした。

 すると、みーんみーんと、元気な蝉の声に混じって、かーんかーんと、階段を叩く音が聞こえてきました。てっくんは心踊り、心拍数が上がります。いてもたってもいられなくなって思わず外に飛び出しました。見ると、丁度知らないおじさんが隣の部屋に入っていくところでした。お母さんではありません。てっくんはショックで、その場に座り込んでしまいます。夏の日差しがジリジリとてっくんの肌を焼くように降り注ぎます。しかし、そんなことも今のてっくんには気になりません。

 しばらくすると、沸騰した気持ちが冷めて、冷静に頭が働き始めます。顧みてみると、今まで一人で外に出たことなどありませんでした。お買い物に行くときも、保育園に行くときも、最近は滅多に行かなくなりましたが、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くときもお母さんと一緒でした。でも、今は一人です。一人でも外に出ることができました。その事でほんの少し、外に対する勇気を蓄えます。今どこかで、お母さんが困っていて、帰ってこられないのだとしたら自分以外助けられる人はいないのではないかと脳裏に過りました。待っているだけでは、してもらっているだけではいけないのだと、幼稚園の先生も言っていました。やる前から諦めるのはよくない、頑張れば、出来ないことなんてない、と絵本にも書いてあります。てっくんたちにはムゲンの可能性があるのです。てっくんは悲壮な勇者のように立ちあがり、一歩を踏み出します。外の世界に出てお母さんを探しにいくのです。段差が大きいアパートの階段を、手すりにしがみつくようにして、下っていきました。

 

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