最終章 暗黒城~ すべての悲しみを乗り越えて(2)
プラチナの街――。パール王国の代表的な街であり、パール城の城下町として栄えた商業都市。
緑豊かな大地に囲まれたこの街には、物流や小売り売買を営む商人が多く暮らし、コンクリート舗装された道路沿いには、木製の看板をぶら下げた商店があちこちに点在している。
他の大陸や隣国から貿易で仕入れた物資が並び、それを求めてあらゆる国からの往来も少なくないプラチナの街。
だが……。活気ある人々で賑わうはずのこの街が、まさに破壊と殺戮の舞台と化していた。
粉々に砕かれて、火の手が上がる家々。
焼け落ちて、青さを失ってしまった木々。
そして、悲鳴を上げて逃げ惑う人々、それを追いかけて快楽に踊り狂っている魔物の群れ。
商業都市プラチナの街は今、新たなる闇の支配者の命により、絶望と破滅へのプレリュードを奏でていた。
流れる汗を吹き飛ばして、やっとの思いで到着したシルクたち。その瞬間、修羅場に成り果てた街の変貌に絶句してしまった。
(遅かった!)
シルクの顔色が焦りと戸惑いの色に染まっていく。
名剣に手を宛がい、キョロキョロと周囲を警戒する彼女の目線は、無意識のうちに、いるはずであろうクレオートの姿を追っていた。だが、街の出入口付近には、彼どころか魔物の存在すら確認できない。
耳を澄ましてみると、はるか遠くから泣き叫ぶ人の声が聴こえてきた。彼がいるとしたら、きっと街の奥の方に違いない。
「みんな、奥へ行ってみましょう」
火の海と化した市街地を、シルクたちは脇目も振らずに駆け出していく。
燃えさかる商店の残骸、木っ端屑が散乱する舗装道路でたくさんの人々が悶え苦しんでいる。いくら正義の使者である彼女たちでも、その一人一人を救出することは困難の極みであった。
ごめんなさい……。悔しさと苛立たしさに唇を噛んだ彼女。今は一刻も早く、諸悪の根源とも言える魔族を撃破するしか人々を助ける方法がなかった。
市街地の奥へ突き進むその途中、彼女の耳をつんざく、恐怖に戦慄いた甲高い悲鳴。
「向こうだわ!」
商店と商店のわずかな隙間に潜り込み、シルクたちは悲鳴の上がった方角へと急行する。
抜け道のような小路から這い出ると、彼女の目に飛び込んできたものとは、数体の魔物に狙われている人たちの怯える姿だった。
怪しく光る爪を突き出し、人間をいたぶらんばかりにせせら笑う魔物の群れ。
パール城の人々の生血をすすり、死に追いやったであろうその爪を見て、彼女は虫唾が走るぐらいの嫌悪を抱き、そして計り知れない憎しみが込み上げた。
「やめなさい!」
シルクは大声を張り上げるなり、勇猛果敢に悪魔たちの前に立ちはだかる。
魔族の群れはすぐに反応し、いきなり現れた彼女のことを睨みつける。
「何だ、キサマは?」
「わざわざ殺されに来たのか?」
獲物となる人間が増えたことに悦び、魔族の群れはシルクたちのことを一斉に包囲した。
薄気味悪い笑みを浮かべるこの魔物たち。背丈も図体もばらばらの種族だが、統一感のある真っ黒い肌が、彼らの残虐性を浮き彫りにしている。
人間界を脅かす魔族に狙われても、彼女はまったく動じる素振りがない。闇魔界の支配者を踏破した彼女にしたら、ここでうろつく悪魔など小童同然なのであった。
「あなたたちに用はないわ。クレオートのことを知っているでしょう。彼はどこ?」
目の前に迫っている脅威に目も暮れず、闇の支配者であるクレオートの行方だけを尋ねるシルク。
魔族の面々は一瞬呆気に取られるも、すぐに腹を抱えて高笑いする。人間の分際で調子に乗るなと、彼女のことを完全に見下しているようだ。
「ケッケッケ、キサマごとき人間が、魔剣将様に何のご用があるというのだ?」
「キサマのような雑魚など、魔剣将様に従事する、我ら魔剣将親衛隊が始末してやるわ」
魔剣将――。魔剣を手にしたクレオートは、部下である魔族の一員からそう崇拝されていた。
そのクレオートの命令に従う魔物こそ、魔剣将親衛隊。彼らはあくまでも堅実に、どこまでも忠実に、ターゲットとして狙いを定めた人間を始末することを生業としている。
シルクの表情は冷め切っていた。どんなに愚弄されようが、どんなに罵倒されようが、彼女の力強い瞳には、クレオートという一人の男性しか映ってはいなかった。
「答えなさい。クレオートはどこにいるの?」
怯えるどころか動揺もしない少女に苛立ち、魔剣将親衛隊の魔物たちは怒りをあらわにした。
殺してやる~! 鋭く尖った爪を突き立てて、容赦なくシルクに襲い掛かっていく彼らだったが。
「ギャアアッ!」
一匹の魔物が断末魔の叫び声を上げた。それもそのはずで、彼は上空から落ちてきた稲妻で感電死していたからだ。
天からの裁きを目の当りにした他の魔物は、瞬時に動きを止めてたじろいだ。上空へ目を向けても、そこには積乱雲など見当たらず、落雷と似つかないほどの快晴が広がっていた。
その落雷こそ、シルクが韋駄天のごとく解き放った雷撃破。それを証拠に、彼女の右手の中にある名剣が黄色の雷光を纏っていた。
「どうしたの? あたしのことを殺すんじゃなかったの?」
氷のような目つきで魔物たちを睨みつけるシルク。クレオートのもとへ辿り着く執念が、優しかった彼女を鬼の形相に豹変させてしまったのだろうか。
魔剣将親衛隊にも意地がある。剣使いだろうが、所詮は人間、負けるわけがないと、彼らは仕舞っていた牙すら剥き出して彼女のことを襲撃した。
だが、次に彼らを待ち受けていたものは、真っ赤に燃え上がる火の玉の洗礼であった。
「グワァァ!」
シルクの頼れる仲間であるクックルー、彼ご自慢の火の玉が連続発射されて、魔物の群れを次々と燃やし尽くしていく。
彼女の剣捌きもそうだが、彼の魔法の切れもスピードも申し分がなかった。
闇魔界での長きに渡る戦いが、彼女たちの能力を確実に進化させていた。そればかりではなく、忍耐力と精神力も、ずば抜けて成長していたことは言うまでもない。
それはあっという間の出来事だった。気付いた時には、魔剣将親衛隊と名乗る魔物は、彼女たちに取り囲まれている残り一体だけとなっていた。
「さぁ、クレオートはどこにいるの?」
悔しそうに歯軋りをしている魔物の顔に、シルクは名剣の剣先を突き付ける。
それだけ鬼気迫るものがあったのだろう、彼女の怒気の混じった声が、生き残った魔物の体をビクッと震え上がらせた。
追い込まれて逃げる術を失った魔物のはずが、虚勢を張っているのか不気味な笑みを零し始める。しかし、全身をブルブルと震わせて、何かに怯えているような素振りだ。
「グフフ……。キサマたちがどんな能力を持っていようが、魔剣将様には遠く及ばない。あのお方は、人間界を征服される史上最強の支配者なのだからな」
そう言い放った魔物は、いきなり口の中で何かを噛み砕いた。
すると、魔物の口や耳など、肉体のありとあらゆる穴から目に眩しい光が漏れ出した。
「グハハハ、魔剣将様バンザーイ!」
「み、みんな、危ない、伏せてっ!」
ただならぬ危機を察知し、ジャンプしながら地面に伏せるシルクたち。
その直後、鼓膜を破らんばかりの爆音とともに大爆発が起こり、粉々に砕け散った真っ黒な破片が辺り一面に落下してくる。
そうなのだ。魔剣将親衛隊であるが故、クレオートに絶対服従し、失敗を犯したり追い詰められた時は、自爆という選択肢を選び自らの命を捧げる。それが彼らの宿命――。
彼女はゆっくりと上体を起こした。そして、儚く散った魔物の残骸を見つめて、魔剣を手にして悪魔となったクレオートを思い、遣る瀬無い悔しさをその表情に滲ませていた。
「ど、どうも、ありがとうございました!」
邪悪な輩も消え去り、生きた心地を取り戻した街の人たち。ところがそれも束の間、焦りと怯えが顔色から拭えない彼らは、街のさらなる奥の方を指で示した。
シルクが顔を向ける方角には、このプラチナの街の基盤を整備し、経営や運営の実権を握っている町長サラバスの邸宅がある。
「どうかお助けください! 町長のお屋敷にも魔物が。このままでは、町長が殺されてしまいます」
涙目で訴える街の人たちにとって、町長は生活していく上でも重要な役割を持つ人物だ。
ここで彼を失ってしまったらプラチナの街まで崩壊してしまう。危機感を募らせたシルクは、ワンコーとクックルーと一緒に、町長であるサラバスの救出任務のために駆け出していった。
目を凝らしてみると、広い庭に囲まれた三階建ての邸宅の周囲を、魔剣将親衛隊らしき魔物がうろうろと徘徊している。
名剣スウォード・パールを振り上げて、猪突猛進のごとく突進していく彼女。その足音に気付いてか、魔剣将親衛隊の面々は一同に顔を振り向かせる。
「さぁ、来るなら来なさい!」
喚き声を上げながら遠慮なしに襲ってくる魔物、それをバッタバッタとなぎ倒していくシルク。
彼女が囲まれないようにと、クックルーが火殺魔法で支援し、さらにワンコーが補助魔法で、迫りくる魔物たちの動きを封じ込める。
冴え渡るパーティプレイが炸裂し、シルクたちは瞬く間に魔剣将親衛隊を全滅させた。しかし、町長の命を奪わんとする魔族は彼らだけではなかった。
「姫、あそこに町長さんが!」
「えっ!?」
そこは邸宅の一角に設けられた、愛らしい草花が咲き誇る美しい花壇。
地べたに尻餅を付き、後ずさりしている一人の年配の男性。白髪混じりのその人物と面識があったシルクは、彼がサラバスだとすぐに判別ができた。
そんな彼に歩み寄る、大きな鎌を両手に抱えた人物が一人。死神のような黒装束で身を包んだ後ろ姿が、彼女の目に魔族の一味として映っていた。
そして、彼らの足元付近に転がっている人影らしきものが二体。それは、切り傷から大量の血を流してすでに息絶えている、町長の守衛たちの無残な屍であった。
「お、おのれ。わ、わたしは悪魔なんぞに屈しない。わたしを殺したければ、好きにするがいい!」
サラバスは街を守りたい一心で必死に訴える。その代わりに、これ以上の殺戮や街の破壊は止めてほしい、と。
勇ましい彼のことを嘲り、不気味な微笑みを浮かべている魔族。大きな鎌を振りかぶり、今にも振り下ろさんばかりの様相だ。
「ケケケ、口でそうは言っても、心は正直なもんさ。おまえの心を読み取ってやろう。死ぬことが怖くて怖くてたまらない。他の人間などどうなってもいいから助けてくれ。どうだ、当たっただろう?」
そんなバカな――! サラバスは口でこそ否定するが、ガタガタと震える全身が彼の心情を物語っていた。鮮血の付着した鎌の刃を見せられて、死の恐怖に怯えない人間などいるはずがない。
「ケケケ、でもだーれも助けはしないよ。おまえの頸動脈にスパッと切り込みを入れてから、残っている人間たちもみーんな殺しちゃうからね」
「くっ……。こ、この極悪非道な悪魔め!」
残忍極まりない冷酷無情、血も涙もない魔族を相手に交渉の余地などなかった。
頭巾からわずかに覗く、狂気に満ちたおぞましい眼を光らせて、魔族が大きな鎌で町長の首を刈ろうとする、まさにその瞬間!
背後から飛んできた火の玉を背中に浴びて、彼は驚きのあまり上空へと舞い上がる。
「何者だ!?」
魔族の視界に入ってきたのは、一人の少女と犬とニワトリ。予想だにしない来客を見て、彼は宙に浮いたまま呆然としている。
呆然としているのは何も魔族だけではない。武闘着姿で颯爽と現れたのが、パール王国王女だと気付いたサラバスもまた同じような表情をしていた。
「シルク姫? い、いったいどうしてここへ?」
「サラバスさん、ご無事でしたか? 細かいお話はまた後で」
サラバスの前に立ち、ディフェンスラインを敷いたシルクたち。パール王国の国王と王妃が亡くなった今、次に国民の心を掌握できる町長だけは絶対に守らなくてはいけない。
ふわふわと揺らめきつつ、地上へと降り立つ魔族は、隠し切れない動揺を不敵な笑みでごまかしていた。
「驚いたね、こんな幼気な少女が邪魔してくるとは。まさか、魔剣将親衛隊を掻い潜ってきたというのかい?」
「そのまさかよ。この街にいる魔族は、もうあなた一人しか残っていないわ」
シルクは名剣を華麗に翻すと、魔族の真正面に突き出した。
ワンコーとクックルーも数歩下がり、魔法攻撃に備えて気合いを溜め始める。
逞しく身構える彼女たちを前にしても、魔族は余裕の含み笑いを崩さない。やはり、所詮は少女の生意気な戯言だと揶揄しているのだろうか。
人間の血で染まった鎌の刃に、そっと指を押し当てる魔族。すると、その指から気色悪い血液が漏れ出し、彼はそれをペロリと舌で吸い取った。
「やっぱり人間の血の方がよかったね~。とくに、成人に満たない乙女の血液は最高さ。首元に鎌を入れてスーッと抜くと、赤い血が噴水のように噴き出す。それを一滴残らず啜ってみたいね、ケケケ」
魔族が漂わせるおどろおどろしさに、シルクは背筋が凍りつくほどの悪寒を覚えた。
その顔つきから滲み出ている殺意と悪意。魔剣将親衛隊とは違う桁外れな魔力を肌で感じてか、彼女の表情が瞬時に強張った。
ここで突如、何を思ったのか、彼は手に持っていた大きな鎌を手放してしまった。これは敵を錯乱させる陽動作戦なのか、それとも?
「わたしは魔剣将の使い。こうみえても紳士なんでね。か弱き乙女に鎌を使うのは良心が咎めるんだ。だから、他の方法で殺してあげるよ」
「か弱き乙女だからって、このあたしをバカにすると、後で痛い目を見るわ」
おぞましい目つきの魔剣将の使いと、凛々しく真剣な瞳を宿したシルクが視線をぶつけ合う。
いよいよ始まる真剣勝負。だがその前に、彼女は知っておかねばならない事柄がある、それはもちろん、追い求めているクレオートの行方だ。
「戦いを始める前に一つだけ教えて。魔剣将と呼ばれるクレオートは今どこにいるの?」
どうせ死ぬ運命なのだから、冥途の土産に教えてやろう。勝つ気満々にせせら笑う魔剣将の使いは、自らのコンダクターである魔剣将の所在を克明に語る。
「魔剣将様はただいま、この街からはるか北に陣を張り、人間界を支配すべく拠点となる暗黒城を建設しておられる」
パール王国よりはるか北の大地、その広大な敷地を切り開き、クレオートが支配者として君臨する”暗黒城”を築城しているのだという。
急ピッチで完成を目指している暗黒城、配下でもある魔族を総動員しているらしく、きっと、この戦闘が終わる頃には、すべてが完了しているだろう、とのことだった。
「暗黒城が完成した暁には、魔剣将様が人間どもの前に降臨し、そして告げるのだ。この世界の神となって、世界のありとあらゆるものをすべて支配する、とな」
大小さまざまな自然に育まれた秀麗で優美な世界。
愛してやまない生まれ故郷であり、人間たちが豊かな暮らしを営む平穏平和な世界。
そのすべてを我が物にし、暗黒の世界に変えてしまうクレオートの陰謀だけは、断固として阻止しなければならない。そう、一人の人間として、一人の救世主としても。
シルクは名剣を握る手に渾身の力を込める。もう何も、そして誰も失ってはいけないと、そう心の中で叫びながら。
「さて、土産話もこれで終わり。そろそろ、わたしの魔法でおまえを料理しようかね。ケケケ」
魔剣将の使いは両手で天を仰いだ。すると、灰色にくすんだ靄が彼の頭上に現れ始める。
空間を歪ませながら垂れ込めてくるその靄が、彼の合図により、シルクに向かって怒涛の勢いで迫ってきた。
それを素早い動作でかわしたシルクだが、どんよりと曇った靄は執拗に彼女のことを付け狙う。
「ケケケ、わたしの魔法からは逃げることはできないよ」
魔剣将の使いの言う通り、灰色の魔法の動きは思いのほか速く、このまま逃げ切るのは難しそうだ。
それならば立ち向かうしかない! そう判断したシルクは身を翻し、迫りくる灰色の魔法を巧みな剣捌きで真っ二つに断ち切った。
ところが――。断ち切られた靄は煙となって分裂し、彼女の全身に纏わりついてきた。
(うっ……)
突然、シルクの身に異変が起こった。急激な頭痛に襲われた彼女は、頭を抱えて身悶える。
霞がかかったように薄ぼけていく視界。敵の姿も、街の景観も、何もかもがその中でグルグルと回転していた。
仲間であるワンコーとクックルーの呼びかける声がこだましていたが、彼女にはそれが聞こえなかった。代わりに鼓膜を刺激してくるのは、魔剣将の使いの奇怪な笑い声だけだった。
「その魔法は混乱波。おまえは正気を失い、自分で自分のことが憎くなって恨むようになる。そうなると、ケケケ、どうなるかな?」
シルクの黒い瞳が虚ろに白んでいく。まるで暗示にかかったかのように、彼女は手の中にある名剣を自らの胸に突き立てようとする。
「そうだ、おまえは自分という敵を殺すことになるのさ! ケッケッケ、さぁ、その剣を思い切り突き刺して、真っ赤な鮮血をわたしに捧げるのだぁ」
魔剣将の使いが解き放った混乱波の術中にはまってしまったシルク。
零れ落ちる汗、吊り上った眉、激しい歯軋り。精神に異常をきたした彼女は、自分という敵に対して敵愾心をあらわにしていた。
「姫、しっかりするワン!」
「勘違いするな、おまえの敵は目の前の魔物だコケ!」
ワンコーとクックルーの叫び声も虚しく、シルクは名剣を武闘着越しの胸に突き当てる。
このままでは、ご主人様が操られるがままに胸を貫いてしまう! 彼らに彼女を助ける手段は残されてはいないのだろうか?
知性ある二匹が思案に暮れている間にも、彼女の名剣は少しずつだが肌を突き、武闘着に薄っすらと血が滲んでいた。事は一刻を争うのだ。
(こうなったら――)
ワンコーは意を決したように走り出す。温厚な彼が普段見せることのない、口の奥の奥に仕舞っている犬歯を剥き出しにして。
「姫、目を覚ますワーン!」
シルクの足元に飛び掛かったワンコーは、彼女の足首に思い切り噛み付いた。
どうかお許しください。姫君に対する無礼を心で詫びながら、彼はさらに鋭い犬歯を白い肌に食い込ませる。
血が滲むほどの鈍痛が神経を駆け巡り、それが瞬く間に彼女の脳へと伝播された。そしてその痛みは、悲鳴にも似た叫び声となって放出される。
「いったーい!!」
あまりの激痛に驚き、シルクは名剣を放り投げるほど慌てふためいた。
もっと驚くことに、自分自身の足にワンコーが噛み付いているではないか。それが痛みの原因とわかった途端、ぶんぶんを足を振り回し始める彼女。
「ちょ、ちょっとワンコー、あなた、何をしてるのよっ!」
シルクに振り解かれたワンコーは地べたに落下した。それでも、正気を取り戻したご主人様に歓喜し、彼は感涙しながら彼女に擦り寄ってくる。
混乱に陥っていた彼女には何が何だかさっぱりわからず、引っ付いてくる彼にただ唖然とするばかりで、困惑めいた表情を浮かべるしかなかった。
これに憤慨するのは、魔法の効果を消し去られて苛立つ魔剣将の使いだ。乙女の美しくも儚い自決を鑑賞することができず、魔性の眼を血走らせていきり立っている。
「おのれ、犬っころのくせに、余計なことを~!」
魔剣将の使いが地団駄を踏む中、不覚を取ったことを猛省し、命を救ってくれたワンコーに心からお礼を述べるシルク。
彼女は地面に落ちた名剣を拾い上げるなり、魔剣将の使いに向かって剣先を突き立てる。もう二度と、混乱波など通用しないと声を張り上げながら。
「ケッ、おとなしく死んでいればいいものを、まったく悪い子だ。仕方がない、わたしの鎌でズタズタに切り裂いてやろう」
チッと軽く舌打ちした魔剣将の使いは、地面に投げ捨てていた鎌を魔術の力で引き寄せる。彼はそれをガッチリと両手で握り締めると、頭巾の下の口をパックリと開けて薄気味悪く笑った。
ここからが真剣勝負の本番。シルクと彼は武器を向け合って対峙する。睨み合う鋭い目線が、お互いの動きを封じ込めているかのようだ。
「では、わたしから行くぞ、そりゃあ!」
封印を破って、先制攻撃を仕掛けたのは魔剣将の使いの方だった。振り上げた大きな鎌を、彼は渾身の力を持って放り投げた。
シルクは素早いステップを利かせて、奇襲してくる鎌攻撃を軽々とかわした。身軽さが売りの彼女にしたら、大振りの攻撃など取るに足らないところだろう。
ところが、その鎌はブーメランのごとくUターンして彼女の背後に襲い掛かる。
「姫、危ないワン!」
ワンコーが発した危険信号と、背後から近づく異音をキャッチしたシルクは、咄嗟の判断で地面に向かって滑り込んだ。
彼女の頭上を掠めていった大きな鎌は、まるでリモートコントロールされているかのように、魔剣将の使いの両手に一ミリたりとも誤差なく帰ってきた。
「ケケケ、いつまでかわせるかな? わたしの鎌は特殊な魔法が掛けてあってね。投げれば投げるほど、それだけパワーとスピードが向上するんだよ」
嘘だと思うなら、その身を持って体験するんだな! 魔剣将の使いはそう豪語し、またしても大きな鎌をシルク目掛けて投げ飛ばした。
確かに彼が大言した通りだった。空気を切り裂きながら迫りくる刃は、先ほどよりも明らかにスピードアップしていた。
その鎌攻撃を、体をくねらせてやり過ごそうとした彼女だったが。
「キャッ!」
高速でかつ、凄まじい勢いで襲ってきた鎌の刃。シルクはそれを避け切れず、ふんわりとした黒髪の一部を切り取られてしまった。
「ケッケッケ、髪の毛でよかったねぇ。さぁ、次は首を刈ってやろうかな?」
大きな鎌はクルクルと回転しながら上空を飛行し、魔剣将の使いの両手を行ったり来たりする。
その都度、シルクは大地に突っ伏したり、横に跳んだり、上空へジャンプしたりと、首を切断されまいと必死になって逃げ回るしかなかった。
魔法で応戦したいワンコーとクックルーだが、攻撃対象である敵が輪を描きながら飛んでいる鎌の影に入ってしまい、狙いを定めることができずオロオロするしなかない。
時間を追うごとに、彼女は髪の毛だけではなく、武闘着の下の肌も刃で傷つけられていく。
このままではいつか殺されてしまう、そう察知した彼女は、出血で薄らぎかけた意識の中で奇想天外な秘策をイメージ化する。
「ケケケ、そろそろ鎌のスピードも最高潮に達するよ。さぁ、これで死んでしまいなさい!」
魔剣将の使いの両手を経由し、大きな鎌がまさに最高潮の速度で飛んでくる。
それを起立したまま待ち構えるシルク。これを傍目で見たら、自殺行為と呼んでもおかしくはなかった。
仲間たちから早く逃げるよう促されても、彼女は何かのタイミングを見計らうかのように、回転している鎌の刃を直立不動のまま凝視していた。
(今だっ!)
ここでシルクはとんでもない行動に出た。
瞬発力を生かした跳躍を披露するなり、彼女は何と、襲い掛かってくる鎌の刃に片足を乗せたのだ。さらに驚くことに、その鎌の刃を足場にして二段ジャンプまでして見せたのだ。
これには魔剣将の使いもびっくり仰天だ。もちろん彼だけではなく、ワンコーとクックルーも呆気に取られて開いた口が塞がらない。
鎌攻撃の脅威をものの見事にかわした彼女は、名剣を持つ両手に力を込めて魔剣将の使いへ疾風のごとく斬りかかる。
「ぐわぁぁ!?」
黒装束の衣装の上を聖なる光が駆け抜ける。しかし、バランスが完璧でなかったせいか、魔剣将の使いに致命傷を与えるまでにはいかなかった。
雄叫びのような悲鳴を上げて、切り裂かれた傷口に手を宛がう彼。全身がわなわなと震え出し、この上ないほどの怒気と狂気を大噴火させる。
「小娘がぁぁ! キサマにこの痛みの三倍の苦痛を味わわせてやるぞっ」
魔剣将の使いは凄んだ奇声を吐き出し、大きな鎌をその両手に引き寄せた。
シルクのことを血祭りに上げようと、殺意に満ちた眼を剥き出して、彼は縦横無尽に大きな鎌を振り乱す。
だが、胴体のみならず、魔族としての誇りも傷つけられたショックは大きく、理性のネジが飛んでしまった彼の大振りな攻撃は、俊敏さを得意とするシルクにあっさりと避けられてしまう。
「もう無駄よ。あなたの攻撃では、このあたしを倒せはしないわ」
「ふ、ふざけるな、人間のくせに生意気言いやがって」
「あたしはただの人間じゃない。支配者(ルーラー)よ」
シルクは生まれし時より、神聖なる天神の神通力を授かった者。
人間の才能をはるかに超越した精神力と忍耐力、さらに瞬発力をその小さな体に備える彼女は、韋駄天のごとく一気に魔族の懐へと飛び込んだ。
魔剣将の使いの足元から、上空へ突っ走るような輝く軌跡が描かれる。
それはあっという間の出来事。彼女の振るった名剣の太刀筋が、彼の真っ黒な胴体を真っ二つに縦断していた。
「ぐぎゃぁぁっ!」
苦痛に戦慄する呻き声を張り上げた魔剣将の使い。
まさか、まさか、わたしがこんな小娘などに! 彼の表情に映るのは、憎しみと悔しさ、あともう一つ、油断してしまった自分への愚かさ。
彼もまた、魔剣将クレオートへの忠誠を途切れた言葉で紡ぐと、その命を終えるように、黒ずんだ灰となって地獄の沙汰へと消えていった。
シルクは戦いに辛勝し、息が上がったまま名剣を鞘の中に収める。呼吸を少しずつ整えながら、風に乗って飛んでいく魔族の亡骸を見つめていた。
(クレオート……。あなたはやっぱり、血も涙もない、あたしたちの宿敵になってしまったのね)
もどかしげに握り拳を固めるシルクは、嫌悪感をその表情に浮かべるも、込み上げてくる淡い感情だけはごまかせなかった。
魔剣将という支配者に成り果ててしまい、親衛隊を組織してまで人間界を滅ぼさんとする彼は、もう人間の心を持たない魔族の一人なのだ。
それは、彼のことを心から愛していた彼女にとって、あまりにも残酷で沈痛なる現実であった。
「姫、ご無事で何よりだワン」
「シルク、ご苦労だったコケ」
シルクのそばへ駆け付けるワンコーとクックルー。今の彼女にとって、労をねぎらってくれる仲間たちの存在が何よりも心強かったようだ。
ワンコーから回復魔法を掛けてもらい、無数にできた切り傷を癒した彼女、それでも、切断されたしなやかな髪の毛までは戻ることはない。
そんなお姫様のもとへ恐る恐るやってくるのは、彼女の活躍に目を丸くして驚愕している、このプラチナの街の町長であるサラバスだった。
「シルク姫、このたびはお助けいただき、誠にありがとうございます」
「いいえ、たいしたことではありませんわ。これでプラチナの街はもう安心でしょう」
プラチナの街の治安はどうにか保たれた。心から安堵するはずのサラバスだが、まだ彼の心中は穏やかとは言えない。その背景にあるものこそ、シルク姫が自らの口で公言した”ルーラー”という言葉だ。
「シルク姫が先ほど申されておりましたルーラーとは、まさか?」
凛々しい顔つきでコクンと小さく頷いたシルク。言葉にするまでもない、そう、人間界に伝説として語り継がれる支配者(ルーラー)に相違ないことを。
無論、サラバスも伝説については承知のことだった。とはいえ、支配者となるべく人物を目の当りにしたこと、しかも、その人物が幼少の頃から知るお姫様だったことに動揺を隠せなかった。
後光が差しているかのような佇まいと、醸し出す神がかりな雰囲気。信じられないぐらい立派に成長した彼女に恐縮してしまい、彼は土下座しながら地べたにひれ伏していた。
「ああ、サラバスさん、頭を上げてください」
「滅相もございません! 人間界をお納めになる偉大な方を前にして、頭を上げることなどできません」
シルクから強引なまでに説得されて、サラバスはようやく擦り付けていた額を持ち上げる。
彼の視界に映るもの、それは、十五歳を迎えたばかりの少女の微笑み。純粋無垢で汚れのない瞳は、彼の記憶の中の、パール城でお転婆をしている頃の少女そのものだった。
「お久しぶりにお目に掛かりますが、まさか、シルク姫がそのような宿命を背負ってお生まれになっていたとは」
サラバスはまだ頭の整理ができないのか当惑していた。
かつて、彼が町長という役職に就く前、パール城で執務していた頃、シルクの父である国王から、それとなく不思議な力を秘めていることは聞かされていたという。
だが、その秘めた力が神通力であり、古い言い伝えにある支配者(ルーラー)だったことまでは、さすがに想像だにしていなかったであろう。
「あたしも正直驚いています。信じてもらえないかも知れませんが、魔族の棲む世界の中で真実を知ることができたんです」
パール城の地下に封印されていた、”あかずの間”から始まった一連の出来事。
闇魔界という闇に覆われた世界、そこで出会ってきたさまざまな人たち、幾度となく襲い掛かってきた魔物、現実味のない摩訶不思議な冒険のすべてを、シルクは余すことなくサラバスに報告した。
闇魔界? 聞き覚えのない言葉に、彼は白髪混じりの頭をコクリと傾げる。平穏平和な街で暮らす町長にしたら、そのような不穏な世界があることなど知る由もない。
とはいえ、実際に魔族の一団がこの街に襲来し、殺戮と破壊を仕掛けてきたこともまた事実。信じたくはないが、彼女の体験談もまた事実なのであった。
「パール王国に魔族が攻め込んできた……ということは、シルク姫、お城はどうなってしまったのですか? 国王と王妃はご無事なのですか!?」
不吉な予感を察知し、血相を変えて問うてくるサラバス。
シルクは力なく首を横に振る。暗く沈んだその表情が、すでに手遅れだったことを告げていた。
「おお、何ということだ! 国王と王妃を失くした我が国は、これからどうなってしまうのだぁ」
それはパール王国滅亡の危機――。悲嘆の叫びを上げながら、サラバスは悲しみに暮れて泣き崩れてしまう。
パール王国の君主である国王と王妃の死は、国民たちにとって未来永劫の光が閉ざされたようなもの。国民の痛みを知る彼の落胆ぶりは半端なものではなかった。
国民の悲涙を知るのは何も彼だけはない。王国王女として自国を愛してきたシルクだって、誰よりも触れ合ってきた両親の死を悼まないはずがない。
だが、泣いてばかりはいられない。今こそ立ち上がり、愛すべきものを守り、そして、討つべきものと戦う。彼女の毅然とした容姿から、王家の血筋らしい風格が見て取れた。
「サラバスさん、パール王国だけではなく、あたしたちの暮らすこの人間界が窮地に立たされています。今こそ、あたしが立ち上がらなければいけません」
人間界を邪悪なる魔族から死守するため、勇猛果敢に旅立つ決意をあらわにするシルク。
彼女の目指す先は、この街よりも北にある、魔剣将クレオートが君臨するであろう暗黒城。完全なる築城という最悪のシナリオの前に、彼に遭い、彼と決着を付けなければならないのだ。
お待ちください!と、サラバスは表情を強張らせて異議を唱える。国王と王妃亡き今、パール王国の統治者を継承すべき彼女を行かせたくはないのは当然といったところか。
しかし……。魔族に太刀打ちできる人間など他にはおらず、他国から兵隊を呼び寄せる時間的余裕もない今、彼女に頼るしかないのが悲しき実情だった。
「この世界の命運、シルク姫にお預けいたします。どうかご無事で」
「サラバスさん、どうもありがとう。安心してください、必ず帰ってきますから」
シルクは微笑しながらそう宣言し、サラバスに背を向けて歩き出そうとした。
すると、彼からいきなり呼び止められて、彼女は黒髪をなびかせてクルッと振り返った。
「シルク姫、ここより北の方へ向かうなら、その途中、クリスタルで造られた塔の形をした建物を見つけるでしょう。魔剣将との決戦を前に、ぜひともそこへお立ち寄りください」
サラバスが説明するクリスタルの塔とは、地上数階建ての背の低い塔ではあるが、太陽の光を反射して輝く独創的で神秘的な建造物なのだという。
しかもその塔の内部には、天神に仕えていたと伝承される女神が祭られているとのこと。そこで女神のご加護を授かれば、きっと魔族との戦いに役立つだろうということだった。
「わかりました。立ち寄ってみますね」
町長であるサラバスに見送られながら、シルクとワンコー、そしてクックルーはプラチナの街を後にする。
パール城やこの街で命を奪われた人々の無念を晴らし、人間界の永久なる平穏平和を守り抜く彼女たちの熱き戦いは、まさにこれからが正念場なのであった。
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