第五章 歓喜の都~ 未来を拓く革命の果て(1)
歓喜の都――。そこは、欲望と快楽だけが飽和しているユートピア。
希望と未来を失った人間が生きていることを実感できる、この闇魔界にあるただ一つの歓楽街。
男も女も快楽に溺れるままに、楽しみ、笑い、泣き、そして怒り。他の街や村では見ることのない、本来の人間らしい喜怒哀楽がこの都にはあった。
人間界へ帰還する希望を捨てることなく、果てしない旅を続けているシルクたちは、そんな歓喜の都の入口へと辿り着いた。
「すごい……。ここが歓喜の都なの?」
シルクの最初の一言は、簡潔ながらも驚愕を感じさせるものであった。
そこは都という名の通り、人間界に存在しても違和感がないほどの市街地を形成していた。
緑を切り開いて道を作り、緑を切り抜いて築き上げた煉瓦造りの無数の家々。さらに、煉瓦をブロックのように積み重ねて造り上げたビルのような建造物。
そんな街並みを賑やかな声を上げて歩いている人間たち。ここが地獄の沙汰だと思わせないほど、その顔色は歓喜に満ち溢れている。
闇世界に来て初めて目の当りにするこの光景、そして喧噪に、彼女はただ唖然とするばかりであった。
「悲劇の村に住まう人たちが、あれほどの暴挙に出てまで、ここへ来たかった理由がわかりますね」
クレオートは声こそ冷静のようでも、その表情は少しばかり驚きを隠せない様子だ。
ワンコーもさることながら、人間に不慣れなクックルーに至っては、あまりの雑踏の大きさに戸惑いの顔つきすら浮かべていた。
「ようこそ、歓喜の都へ!」
来訪者のことを満面の笑顔で暖かく迎えてくれる男性がいた。
どうぞ、ごゆっくりとお楽しみください! 一人一人に挨拶を交わすその男性は、苦しみも悩みもまったく感じさせないほど、とても晴れやかで底抜けに明るい。
快活な出迎えのおかげなのだろうか、賑やかな街並みに消えていく人々の顔色も、幸福感が滲んだ安らぎに染まっていくように見えなくもない。
この地を初めて訪れたシルクたちも、明るい男性に出迎えられて、いよいよ、記念すべきその第一歩を踏み出すのだった。
「予想以上の賑やかさだね、ここ」
「さすがに都と呼ばれているだけあるワン」
「久しぶりだコケ。こんなに生きてる人間拝んだの」
歓喜の都の入口を離れてからというもの、たくさんの人たちとすれ違っていくシルクたち。
微笑ましい表情を向け合うその人たちから、闇魔界という暗黒の中に閉じ込められる閉塞感はまったく伝わってこない。それほどまでに、この都は人の心を躍らせてしまうのだろうか?
狭い路地から広い路地へ、さらに、雑居ビルのような建造物が込み合った大通りまで近づくと、人間たちの喜びに沸く息遣いがさらに大きくなっていた。
ごった返す人混み、騒音にも似た歓声。そこはまさに、お祭り真っ只中といった騒ぎっぷりである。
「ねぇ、みんな。もう少し、静かなところに行きましょう?」
雑踏のざわつきがお気に召さないのか、シルクはどうにも落ち着かないといった様子だ。
風光明媚な自然をこよなく愛してきた彼女にとって、スラム街のごとく薄汚れたエリアにいたら、気持ち穏やかになれないのも無理はないだろう。
大通りを通り越した先に、緑が生い茂っている空き地らしき場所を見つけた彼女、休憩を兼ねて、ひとまずそこまで行こうと申し出る。
お姫様のご提案、というよりはご命令に誰も拒否する者はいない。いや、できないと言った方がよいか。
「姫のご意向が大事ですからね。それでは参りましょう」
シルクの意見に快く同調し、先頭に立って広場に向けて歩き始める紳士クレオート。
その優しい心遣いに感謝し、彼の後ろについて歩いていく一王国のお姫様。
そして、お祭り騒ぎに興味津々だったスーパーアニマルたちはというと、命令とあっては絶対服従するしかなく、彼女たちの後列に従って歩いていくしかなかった。
歩き続けること数分ほど。シルクたちは青々しい木々が立ち並ぶ空き地まで到着した。
喧騒から遠ざかったその空き地、静寂を求めていた彼女にとって期待通りの場所ではあったが。
視界に広がるのは、背の高い雑草に覆われた一面の茂み。そこには民家やビルといった建物は見当たらず、当然ながら人の気配すらまったくない。
彼女たちの目に留まるものはただ一つ。その空き地への立ち入りを禁じるように、大木と大木の間に張り巡らされた頑丈なロープだけであった。
「どうしてこのようなものが?」
クレオートはピンと張ったロープを握り締めて、怪訝そうな顔つきで凛々しい目を細める。
押し黙ったまま、ロープの先にある広場の全貌を眺めてみるシルク。しかし、そこには妖しいものなどなく、ただ微風で小さく揺れる雑草が、その存在感を示すように生い茂っているだけだ。
こんなところじゃ休憩できないわ。彼女は心にそう思い、溜め息交じりに途方に暮れる。ここまで歩いてきた疲労感も、否が応でも増してしまう気分であった。
落胆する姫君を気遣うクレオートが、場所を移動するかどうか尋ねようとしたその直後。
「おい、あんたたち。その先に入っちゃダメだよ」
背後からいきなり声を掛けられて、シルクは鼓動を震わせながら振り向いた。
彼女たちに声を掛けてきた人物とは、ヘラヘラと口元を緩めている一人の若い男性だった。
それはどういうことか?と、不思議そうに頭を傾げる彼女。その男性はズボンのポケットに手を突っ込んで、だらしない足つきで近寄ってくる。
「この空き地の先にはね、地下街に繋がっている階段があるんだよ」
地下街――? シルクは思わず甲高い声を上げてしまった。
これだけの規模を誇る歓楽街の他に、さらに地下街まであるとは、彼女が驚いてしまうのも無理はない。
ところが、男性が声を潜めて語るには、その地下街とは、この地上の市街地とまったく正反対の性質をもっているのだという。
快楽と安らぎを満喫するために存在しているこの都。この街を管理する人物は、人間が愉快で賑やかに暮らしていける娯楽を優先的に構築していったそうだ。
しかしその一方で、娯楽といった快楽に溺れず、人間として本当に生きる道を見失わないよう、革命的な自論を展開する偏屈者もいたらしく、そういった人間たちがその地下街を造り上げたとのこと。
「地下街に住んでる連中ってのはさ、残された人生を狭い視野でしか望めない、哀れなヤツらなんだよ」
無用に近づいたら、それこそ、粗暴で野蛮な連中に八つ裂きにされるだろう。その男性はそう警告を告げるなり、鼻歌交じりでそこから歩き去っていった。
――それでも、地下街への入口があるという空き地の前に佇んだままのシルクたち。
危険と不穏な様相を呈していても、どこか興味を引かれてしまう彼女は、ちょっぴり観察してみようと、目を輝かせながら仲間たちに呼びかけてみた。
好奇心旺盛のワンコーとクックルーはいいとして、真面目で実直な性格のクレオートを説き伏せる彼女。最初こそ難色を示した彼だったが、深入りしない条件付きで、了解を示すように頬を緩めてくれた。
「よし、そうと決まれば、行ってみましょう」
シルクは子供っぽい笑みを零し、突っ張っているロープをさっと跨ぐ。この時ばかりは、彼女も童心に返っていたのだろうか。
鬱蒼と生え毟る雑草を踏みしめて、彼女たちは周囲を注視しながら慎重に歩を進めていく。
空き地の奥の方まで進んでいくと、大木の青葉の傘がより大きくなったせいか、彼女たちの視界も少なからず薄明かりになってきた。
「あ、地下街の入口ってあれかしら?」
シルクが指差した先にあるもの、それは、石を築いて造られた、蔦で埋め尽くされている岩屋であった。
暗がりの中にひっそりと佇んでいるその岩屋。無闇に立ち入ることを禁じているのだろう、出入口は錆びついた鉄格子の扉で固く閉じられていた。
できる限り足音を立てずに、朽ち果てたような岩屋の前までやってきた彼女たち。
鉄格子の隙間から目を凝らしてみると、地下街へ通じているであろう階段が見える。
念のために、鉄格子にそっと手を触れてみたが、頑丈に施錠されているらしく、奥にある階段まで辿り着くことは難しそうだ。
「姫、どうしますか? わたしの大剣であれば、鍵を破壊できなくもないかと」
「やめましょう。そんな物騒なまねをして、事を荒立たせるわけにはいかないもの」
地下街への入口は確かに存在した。今のシルクにしたら、それが明確になっただけでも収穫であった。
それこそ、地下街の方から粗暴で野蛮な連中が出てきたら面倒ということもあり、彼女たちは抜き足差し足忍び足で、その岩屋から静かに離れていくのだった。
◇
雑踏も喧噪もなく、湿っぽい冷気だけが充満している洞窟のような地、”地下街”――。
賑やかさも明るさもなく、静まり返った薄暗いこの地下街から、歓喜の都にあった快楽や安らぎなどまったく感じ取ることはできない。
大地を掘削し、岩盤をくり抜いて切り開いた地下に、木製の掘立小屋を造り、松明の薄明かりの下で影のように暗躍している者たちがいる。
そんな殺伐とした風景の中で、一際目につく館のような建物が一軒。その中の応接室では、怪しき者たちがこぞって集結し、何やら陰謀めいた打ち合わせをしていた。
「では、各自、上の状況を報告せよ」
応接室の上座で胡坐をかく男性が一人。軍曹っぽい格好から、それなりの身分であることが窺える。
彼の号令のもと、正面で起立している兵士らしき身なりの男たちが、順番に声を高々と張り上げていく。
「はっ! Aブロックの方ですが、今のところ、進軍の邪魔となるものはありません!」
「はっ! Bブロックの方も、現時点では気になる問題も障壁も発生しておりません!」
「はっ! 繁華街地区ですが、予想通り、どの建物も隙だらけであり、いつでも攻め込むことは可能と思われます!」
一通りの報告を耳にしてから、軍曹っぽい男性は腕組みしながら唸り声を上げる。
時期尚早か、それとも機は熟したか……。彼の頭の中に、そんな言葉が代わる代わる駆け巡っていた。
しばしの沈黙の中、兵士らしき一人の男が、垂直方向に挙手して発言を要求した。
「地下街王! 地上にいる人間どもは、快楽に溺れてすっかり腐り切っており、腑抜けとなっております。今こそ、我が革命軍が蜂起する時期と見てよいと思われますが?」
革命軍の蜂起といった物騒なことを口走るその兵士。他の男たちも同意するように力強く頷いた。
地下街王と呼ばれた軍曹のような男性は、兵士たちからたきつけられて、どっしりと据えた腰を上げようとする。この時を、一日千秋の思いで待ち焦がれていたと言わんばかりに。
「そうだな。いよいよ我ら革命軍が、その名の通り、革命を起こす時が来た」
地下街王は軍団を率いる者として、配下である兵士たちに迅速な指示を出す。
攻め入る兵力の増強、攻守訓練の強化、武器や防具のチェックなど、彼の厳命が下されると、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように応接室から走り去っていった。
水を打ったような静けさに包まれる室内で、胡坐をかいたまま一人頬づえをつく地下街王。ニヤリと口角を吊り上げて、不気味なほど不敵に笑った。
「都長よ、聞こえるか。もうすぐ、この地下街も歓喜の都も、すべてがワシのものとなる」
それはまさに、侵略という名の恐るべき策謀であった。
地下街王が愚弄しながら口にした都長とは、いったい何者なのであろうか?
はるばる歓喜の都へやってきたシルクの知らないところで、彼の野望なるいななきが、土色に染まった地下奥深くにこだましていた。
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