第二章 苦悩の街~ 不幸の中でこそ望む幸福(3)
未練迷宮――。そこは、狭い通路が迷路のように入り組んだ、侵入者を惑わす慄然なるラビリンス。
町長の屋敷から下ること十分少々。そこまでは、迷わずに難なく到着することができたシルクたち。
迷宮の入口となる大きな穴には、町長が話していた通り、しっかりと鉄製の扉が締め切ってあった。この扉が締まっているということは、彼の娘であるシンディーが、迷宮内に戻っていることを証明していた。
シルクはゴクッと息を呑み込んで、町長から受け取った鍵で迷宮の扉を開いた。
耳障りな金属音が鳴り響き、いよいよ、彼女たちは迷路のような洞穴へと入っていく。
日の光が差し込まない迷宮内は、恐ろしいほどに清閑としており、人の気配すらまったく感じ取ることができない。
「行くわよ」
「了解だワン」
シルクとワンコーは寄り添い合い、迷宮内を歩いていく。
ここは洞穴にも関わらず、通路を覆い囲んでいる外壁がなぜか不思議な明るさで発色しており、そのおかげで足場を失うほどの暗黒空間ではなかった。
ただでさえ狭苦しい迷路のような通路だけに、この薄っすらとした明るさは不幸中の幸いだった。
敏感な視覚と聴覚を研ぎ澄まし、彼女たちは怪しむ気配が存在するか否かを確かめる。
不気味な静寂こそ存在するものの、ここには、魔物が醸し出す異様な気配は漂ってはいなかった。
「よし、こっちに行ってみよう」
「了解だワン」
迷宮内を抜き足で歩いていくシルクたち。そして……。
「次は、こっちに行ってみよう」
「了解だワン」
迷宮内を忍び足で歩いていくシルクたち。さらに……。
「今度はこっちに行ってみよう、かな?」
「……姫、もしかして迷ったのかワン?」
ワンコーから冷めた口調で指摘されて、シルクは顔をぽりぽり掻いて苦笑いを浮かべる。
彼女たちはどうやら、迷宮の中で迷走して迷子になってしまったようだ。
それも致し方がなく、この未練迷宮はまさにあちこちに分岐路があって、しかも、どの通路を選んでも背景に変化がなく、迷ってくれと言わんばかりの地形なのだ。
「……どうしよう。また一度入口まで戻ってみる?」
「はっきり言って、そこまで戻れるかも不安になってきたワン」
密閉された空間の中で心細くなっていくシルクたち。
もう一度、わかるところまで戻ってみよう。そう心に決めて、背後に振り返った瞬間。
(――誰か、いる!?)
シルクの緊張度が急上昇した。
近くにいるワンコーも、耳で不穏な感覚をキャッチしていたようだ。
彼女たちの見据える薄明かりの先から、これまでに感じたことのない殺気が漂ってきた。
中腰の姿勢になって、腰に下げた名剣に右手を掛けるシルク。そして、威嚇のポーズを取るワンコー。
「あれはシンディーさんじゃないわね」
「魔物に間違いないワン」
彼女たちの前に姿を現したのは、ちょこまかとダンスをしている、魔術師のような格好をした小人の魔物だ。さらにその後ろには、四本の腕を持つ大きな図体をした魔物の姿も見える。
「ヒャッヒャッヒャ。どうやら迷っちゃったようだね~。久しぶりに遊べるね~」
その魔術師のような魔物は、ステップを踏みながら軽やかに踊っている。まるで、血祭りに上げる人間が迷い込んだことを喜んでいるかのように。
シルクは戦闘態勢を取ろうと、すぐさま名剣スウォード・パールを引き抜いた。
一方の魔術師のような魔物も、格好の獲物を逃すまいと人差し指を突き出して魔法攻撃を仕掛けてきた。
「いくぜ、火の玉ァ!」
その直後、魔物の指先が赤く膨らんで、煌々と燃える火の玉が吹き出した。
火の玉が弾丸のように空を切り、シルクたちの足元を直撃するものの、どうにか間一髪のところでそれを避け切った。
魔法攻撃が空振りしてしまい、魔物は悔しそうに地団駄を踏んでいる。その魔物は小人らしく、言動も感情もまるで子供のようだ。
乱れた呼吸を整えつつ、立ち向かう敵について作戦会議を始めるシルクたち。
「さっきの火の玉、あれ魔法よね?」
「そうだワン。あれは、火殺魔法の一つ、火の玉だワン。威力は最低レベルだけど、まともに食らったら火傷してしまうワン」
「それは、そうでしょうね。火の玉っていうぐらいだもの」
分析ばかりでは勝機はない。シルクたちは仕切り直して戦闘態勢に入った。
魔術師のような魔物は次なる魔法の態勢を取っていた。子供のようにケラケラと笑うその顔は、やはり魔族の血が流れているのか、恐ろしいほどの残忍さを秘めている。
「ヒャヒャヒャ、今度は避けらんねーぞぉ。行くぜぇ、催眠波ァ!」
どこか捻じ曲がったような空間が、シルクたちに向かって襲い掛かってきた。
危険を察知した彼女はいち早く身を防いだが、ワンコーだけが出遅れてしまい、その空間の中に閉じ込められてしまった。
彼はトロンとした目尻をさらに下ろして、この謎の空間の正体を語り始める。
「こ、これは補助魔法の一つ、催眠波だワ~ン……。この空間に入り込んじゃうと、深~い眠りに誘われてしまうんだ……ワ……ン……」
「ワ、ワンコー、眠りながら解説するなんて――!」
ワンコーはしっかりと解説を終えると、その解説の通りに眠りこけてしまった。
鼻ちょうちんを浮かべて、吊り上げた口角から寝息を漏らしているワンコー。意識を失って無防備になったことが、魔物たちに絶好の襲撃の機会を与えてしまう。
「ヒャッヒャッヒャ。チャンス到来だぜぇ、デーモン。あの人間どもを畳んじまえぇ!」
大きな図体のデーモンと呼ばれた魔物は指示されるがままに、ショルダータックルのような姿勢で突進していく。
眠っているワンコーを庇うがために、シルクのしなやかな体は、魔物の繰り出した強烈なタックルを受けざるを得なかった。
「キャアァ!」
鼓膜に響く打撃音とともに、もの凄い勢いで吹っ飛ばされてしまったシルク。
そのまま地面に打ち付けられた彼女は、これまでに味わったことのない激痛を覚えた。
「うっ! い、痛い」
シルクは苦痛の表情を浮かべている。起き上がりたくても、痺れているのか思うように体が動かない。
ご主人様のピンチだというのに、まだ夢の世界を彷徨っているワンコー。
勝ち誇ったように、魔物たちは卑しくせせら笑っている。
「ヒャッヒャッヒャ! それじゃあ、この俺様がトドメを刺してやるよ~」
魔術師のような魔物は楽しそうに舞い踊り、動けないシルクに向けて人差し指を突き出した。その体勢こそ、火殺魔法の発動を告げるものだ。
指先が赤々と染まっていく。それが燃える火の玉となり、次第に大きく膨らんでいった。
標的にされた彼女は逃げたくても、手足の痺れのせいで体の自由が利かない。まさに絶体絶命、危機一髪というやつだ。
「この火の玉で、本当の地獄へ行きなっ」
魔術師のような魔物の指先から、ついに真っ赤な火の玉が発動された。
火の玉は薄明るい通路をさらに明るくしながら、倒れたままのシルク目掛けて飛んでいく。
いよいよここまでか――! 彼女は何かを念じるように瞳を瞑った。
その念を感じ取ったのか、眠っていたはずのワンコーの耳が、一瞬だけピクリと動いた。
それから数秒後……。彼女が伏せていた地面に火の玉が落下し、大きな破裂音と一緒に灰色の煙がもくもくと立ち上る。
立ち込める煙がかすかながらも晴れていくと、通路内の視界もおのずと明らかになっていく。
そして、冷たくて硬い地面の上には……。突っ伏しているシルクらしき女の子の姿があった。
「ヒャヒャヒャ、やったぜぃ!」
迷いし人間を始末したことが余程嬉しいのか、魔術師のような魔物は踊りながらケラケラと高笑いしている。
小さい体でダンスする見た目はコミカルだが、やっていることは残虐非道極まりない。
シルクはその短い命を終えてしまったのだろうか――。いや、この世界にいる人たちの希望のために、彼女はまだこんなところで死ぬわけにはいかない。
踊っているところ、申し訳ないけど……。そんな囁きが聞こえて、魔物の動きがピタリと止まった。
「あれれ~?」
魔物たちは驚きのあまり絶句する。
それもそのはずで、死んだと思っていた少女が、ゆっくりと顔を持ち上げたからだ。
よく見ると、彼女の足元には、武闘着の裾を必死の形相で噛み付いているワンコーがいた。
眠りから目覚めるなり、犬特有の瞬発力を生かした彼は、彼女の足を力の限り後方へと引っ張った。そのおかげで、彼女は何とか、火の玉の直撃を免れたというわけだ。
「まだ、勝負はついてないわ。ねぇ、ワンコー?」
「そういうことだワン」
ワンコーから回復魔法を掛けてもらい、シルクは闘志をみなぎらせて立ち上がる。
人間のくせに生意気だ! 魔物たちは怒りの感情のままに悔しがる。
大きな図体を持ったデーモンが、怒り心頭をその表情に映したまま、彼女に向かって突進を始めた。
四本の剛腕を振り回し、力任せの攻撃を繰り出してくる魔物。しかし、そんな能のない攻撃など、脅かすどころか、彼女を後ずさりさせることすらできない。
「お遊びはここまでよ!」
敵の四つの拳を払い除けたシルクは、右手で握ったスウォード・パールを翻す。
眩しいほどに輝く軌跡を描きながら、彼女は渾身の力を込めて名剣を振り抜く。
名剣は襲い掛かる四本の腕を切り落とし、その勢いのまま、デーモンの大きい胴体をも一瞬のうちに引き裂いた。
『……グワァ!』
地響きのような呻き声を上げて、魔物は昇天するかのごとく膝から崩れ落ちていった。
疲れた様子も見せないシルクは、残された魔術師のような魔物に向けて、睨みを利かした眼差しをぶつける。
「ムキ~、俺様を本気で怒らせたなぁ! もう一回催眠波を食らえぇ~!」
いきり立った魔術師のような魔物は、魔法パワーを駆使して催眠波を唱えた。
ここで眠ってしまうわけにはいかない! 迫りくる歪んだ空間を前にして、シルクは周囲を見渡しながら回避策を練った。
その時、彼女は白く光った優しい気流を背中に感じた。
慌てて振り返ると、そこには、魔法を唱えるポーズをしたワンコーが立っていた。
「姫。そのまま突進するんだワン!」
「え? でも、そんなことしたら、あたしが……」
「大丈夫だワン。オイラの補助魔法で、アイツの魔法をブロックするワン」
ワンコーが解き放った白い光線が、魔物が差し向けた歪む空間と衝突した。
補助魔法同士が狭い通路内で激しくせめぎ合う。
負けてたまるかと歯を食いしばり、魔法を召喚した者たちは、パワーが底を尽きるまでの根競べに突入した。
「姫、今のうちに、アイツに必殺技を決めるんだワン!」
「わかったわ!」
シルクは軽快につま先で地面を蹴ると、催眠波を放出し続けている魔物の頭上へと舞い上がる。
その魔物に焦点を合わせて、彼女はスウォード・パールを高々と振り上げた。
雅やかに空中を舞う、華麗なる剣術殺法。
それに気付き、目を剥いて驚愕の顔つきをする魔物、だが時すでに遅し。シルクの織り成した一閃により、その小さな体は光の速さで引き裂かれた。
「ウギャァァ~、この俺様がぁ……」
魔術師のような魔物は無念の叫びを残し、さらさらとした渇いた砂となって絶命した。
軽やかな動きで地面に着地し、役目を果たした名剣を鞘に挿入するシルク。フーッと大きく溜め息をつき、彼女は安堵の笑顔で振り返った。
「ワンコー、あなたのおかげで勝つことができたわ。どうもありがとう」
あなたこそ最高のパートナーだと、シルクは晴れやかな顔でそう称賛した。
ご主人様からの賛美なる声が嬉しくて、ワンコーは照れくさそうに笑った。下がったまなじりがすっかり緩みっぱなしだ。
「でも、今の魔物は手強かったわね」
「まさか、催眠波を使ってくるとは思わなかったワン」
苦戦を終えたとはいえ、シルクとワンコーはまだ不安を拭えない。
彼女たちが進むべき道のりには、先ほどの魔物よりも強力な魔法を放ち、強靭なパワーで襲撃してくる強敵がきっといるはずだ。
これからも一緒に乗り切ろうと、互いが互いの熱い手を取り合い、彼女たちは気持ちを鼓舞させるのだった。
「さあ、町長の娘さんがいる奥へ急ぎましょう」
「了解だワン」
シルクとワンコーは弾んだ声を掛け合って、迷路のような未練迷宮の奥深くへと突き進んでいった。
◇
迷宮内を彷徨うこと一時間以上は経過したであろうか。
シルクたちはどうにか、迷宮の奥深くにある岩で塞がれた通路まで辿り着くことができた。
町長が悩ましく話していた通り、大きな岩と外壁の間には、ワンコーほどの小さな体が通り抜けられそうな隙間が存在した。
「どうやらここみたいね」
「きっとそうだワン。オイラが入れるぐらいの隙間があるワン」
ワンコーはその狭窄な隙間に頭を突っ込んでみる。そして、尻尾の先まで通り抜けられることを確認した。
ホッと胸を撫で下ろしたシルク。そんな彼女だが、ふと、通路を塞いでいる硬そうな岩を見上げて、一つ判然としない疑念を抱いた。
(町長の娘ってことは女性だもんね。実際に見掛けているから、間違いないんだけど……)
シルクの頭にある疑念とは、これほどの大きな岩をどうやって一人で動かしたか?ということだ。
町長の娘が奥へ入ったり、また街へ帰ったりするためには、この大きな岩を動かす必要があるはず。
障壁となる岩にそっと手を触れてみる。これを仕掛け無しで動作させることなど絶対に不可能であろう。女性である彼女には、それが一目瞭然であった。
しかし、ここで考えていても始まらない。これ以上先へ進めない彼女はこの場に残り、頼りがいのある愛犬のことを、期待を込めて送り出すことにした。
「ワンコー、ここから先はあなたに任せるわ。何としても、町長の娘さんを説得してきてね」
「がんばってみるワン」
いつになく表情を引き締めるワンコーは、隙間を潜り抜けると、いよいよ迷宮のさらなる深部へと進んでいった。
彼は四つん這いのまま、駆け足で先へ先へと突き進む。
魔法パワーを大量に浪費した、先ほどの戦闘での疲労など微塵にも感じさせず、彼はどんどん奥の方へ突き進んでいく。
奥に進むにつれ、わずかに人間がいる気配が彼の耳鼻を刺激した。
渦巻き型に蜷局を巻いた通路の行き止まり、ワンコーはそこに辿り着くと、まるで部屋のように仕切られた空間を発見した。
(間違いなく、ここにいるワン)
聞き耳を立てたワンコーは、その優れた聴覚で話し声をキャッチした。それこそが、ここに人間が隠れている確固たる証拠と言えよう。
抜き足、差し足、忍び足で、彼はそろっと部屋の中を覗き込んでみる。
するとそこには、町長の娘であるシンディーの他に、もう一人、年の若い爽やかな風貌をした男性もいた。
息を潜めて室内を窺ってみると、大きなテーブルと椅子、さらに、小さな収納ケースやバケツのような容器などが置いてあり、あたかも、この男女二人がここで生活しているように見えなくもない。
「あら?」
シンディーらしき女性が、顔だけ覗かせているワンコーに気付いた。茶色い髪の毛を斜めに傾けた彼女は、キリっとした切れ長の目をより一層細めている。
彼は慌てて逃げようとしたが、自らに課せられた使命を思い出して、踵を返すように踏み止まった。
「どうして、こんなところにワンちゃんが?」
「え?」
その問いかけるような声につられて、もう一人の男性の方も、穏やかで爽やかな顔を振り向かせる。
見知らぬ犬の姿を食い入るように眺めていたその男性。そんな彼の目には、ワンコーのことが物欲しさに迷い込んだ野良犬に見えたようだ。
パール城に身を置く誇り高いワンコーは、そこらへんの野良犬と一緒にされたことに立腹してしまった。彼は前足を突き出して、大きな口を開けてワンワンと怒り始める。
「失礼だワン! オイラはスーパーアニマルのワンコーだワン。歴とした使命を持って、ここまでやってきたんだワン」
使命って何のこと? それよりも、犬がしゃべった!? シンディーとその男性は顔を突き合わせながら狼狽した。
スーパーアニマルのワンコーは、ここを訪問した目的について、この二人に身振り手振りを交えて説明した。
町長から直々に、娘であるシンディーを連れ戻してほしいと依頼を受けたこと。さらに、それを成し遂げて、困惑の村と呼ばれる地へ向かう必要があることなどを。
「そういうわけで、シンディーさん、オイラと一緒に帰ってほしいんだワン」
「…………」
シンディーは苛立ちをあらわにして、ワンコーから視線を背けてしまう。
「ワンちゃんには悪いけど、あたしはもう、あの家には帰らないわ。だから、連れ戻そうったって無駄よ」
「ズバリそう言われると、身も蓋もないワン」
あっさりと袖にされてしまい、垂らした耳とともに、肩までガックリ落としてしまうワンコー。
それでも、ここで引き下がるわけにはいかない。町長のためにも、ご主人様のためにも、シンディーを連れ戻さなければいけないのだ。彼の場合、シルク姫のカミナリがただ怖いだけなのだが。
それこそ骨身を削る思いで ワンコーはせがむように懇願を続ける。しかし、シンディーの意思は思いのほか固く、首を縦に振ってくれそうにない。
ワンコーは如何ともし難く困り果てていた。そんな彼の目に、ふと、シンディーの隣で立ち尽くす男性の姿が留まった。先ほどまでの爽やかさとは違い、彼の表情はどこか冴えなかった。
彼女はワンコーの目線に気付いたのか、片手を添えながら、隣にいるその男性のことを紹介する。
「この人はあたしの恋人で、ジャンクっていうの」
ジャンクと紹介された男性は、曇りがちの顔のままでワンコーにお辞儀をした。
その直後、シンディーはちょっぴり頬を赤らめる。
いくら来客が犬とはいえ、この話の流れとなってしまっては、やはり、正直に話しておいた方がいいだろう。彼女はコホンと咳払い一つしてから話し始める。
「あのね、ワンちゃん。あたしと彼はね、結婚の約束を交わした仲なの」
愛の契りを交わしたシンディーとジャンク、この二人の出会いは人間界ではなく、闇魔界から切り取られた空間、苦悩の街なのだという。
もちろん、二人とも父親である町長に黙っているつもりなどない。それを許してもらうが故に、彼女は父親と向き合い正直に告白したそうだ。ところが……。
「あのわからずや、あたしに何て言ったと思う? ただ一言、結婚なんて許さーん、だもん!」
沸々と怒りが込み上げてきたのか、シンディーの顔がみるみる紅潮していく。
彼女は憤慨するあまり、どう思う? 納得できると思う?と、ワンコーの真っ白な体に掴みかかってきた。
その鬼のような形相に、ワンコーもすっかり怯えてしまった。犬の彼にしてみたら、人間同士の結婚など、どう答えてみようもない愚問であった。
「とにかく! あたしは彼とここで暮らすことに決めたの。あなたに責任はないけど、あたしは帰るつもりなんかないから!」
シンディーは息も継がせぬまま、一息にそう捲し立てた。
親子喧嘩の根深い原因を知り、途方に暮れて項垂れてしまうワンコー。
そして……。彼女と婚約しているジャンクはというと、罪悪感を抱いているのだろうか、その表情はますます雲行きが怪しくなり、後ろめたさに顔を伏せてしまっていた。
ワンコーは手土産なしで戻ることもできず、シルクに相談だけでもしてみようと、クルリと寂しい背中を向けた、その瞬間だった。
「シンディー、やっぱり戻ろうよ」
「えっ!?」
ジャンクの思いも寄らぬ一言に耳を疑い、シンディーは細い目を剥いてびっくり仰天だ。
男のくせに怖気づいてしまったのか?と、彼女は眉を吊り上げて彼の胸倉に掴みかかった。どうやら、彼女はかなり勝ち気な性格のようだ。
「いや、そうじゃないよ。……ただ、こんなやり方はよくない。やっぱりお父さんに許してもらえないままじゃ、何も解決できないと思うんだ」
父親である町長の気持ちがわからなくもないというジャンク。
手塩にかけて育てた一人娘を、まったく知らない国で生まれた、素性もろくに知らない男に奪われてしまっては、どんな父親でも納得なんてできないだろう、と。
彼は爽やかに笑い、唖然としているシンディーの両手を握り締める。そして、もう一度話し合いに行こう、自分も一緒に行くからと、穏やかな口調でそう申し出た。
「……ジャンク、あなた」
「ぼくはお父さんを必ず説得してみせるよ。シンディーのことを絶対に幸せにしますってね!」
ジャンクの勇ましくも爽快な笑顔を、シンディーはうっとりと恍惚とした瞳で見つめていた。
フィアンセにすっかり惚れ直した彼女は、彼と一緒にもう一度、頑固父親の説得に急行する決心を固めた。
「どうもありがとう、ワンちゃん。ボクたちはこれから、お父さんのところへ行くよ。さあ、行くぞ、シンディー!」
「あ! ま、待ってよ、ジャンクゥ~」
ジャンクの逞しい後ろ姿を、手を振りながら追いかけていくシンディー。
そして、水を打ったように静かになった部屋の中で、一匹ポツンと取り残されたワンコー。
「……オイラを置いていかないでほしいワン」
◇
それから十分ほど経過し、迷宮の通路を塞いでいた岩のそばで、シルクとワンコーは無事に合流した。
彼が戻ってきた時には、すでに大きな岩は動かされており、誰でもすんなり通り抜けられる通路となっていた。
シンディーを説得した功労者を、労をねぎらいつつ暖かく出迎えたシルク。
「ご苦労さま、ワンコー」
シルクは満面の笑顔を零して、ワンコーの頭を優しく撫でた。
説得らしい説得はしていないけど……。彼はちょっぴり負い目を感じたが、結果的には使命を果たせたと自分なりに納得し、ご主人様からのお褒めの抱擁に尻尾を振って応えるのだった。
「ついさっき、ここをシンディーさんが通っていったわ」
大きな岩の向こう側で、シルクが一人待ちわびていたところ、その岩を少しずつ動かして、通路の奥から姿を見せたシンディー、そしてもう一人の男性。
シンディーたち二人は、シルクに微笑ましく会釈しながら、迷宮の出口の方へ駆けていったという。
「あの大きな岩を、シンディーさん一人で動かせるわけはないと思ったけど、まさか、男性の人がそばにいたなんて思いもしなかったわ」
町長からの頼み事も解決し、さらに頭の中にあった疑問も解けて、シルクは胸の支えが取れたのか安堵の吐息を漏らした。
シルクとワンコーも街へ戻るため、連れ立って通路から歩き出す。
その道中、シンディーと一緒にいたジャンクのことや、迷宮へ隠れていたわけなど、このたびの騒動について雑談をしていた彼女たち。
「そうかぁ。あの大きな岩を動かすことができたのは、あの二人の愛の力だったのかしらね」
「町長さん、気難しそうな人だから、あの二人がちゃんと説得できるか心配だワン」
シルクは気持ちも晴れやかに、道すらも迷うことなく未練迷宮を後にする。
ところが……。ワンコーが心配した通り、この一件は、そう簡単に一件落着とはいかなかったのである。
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