第二章 苦悩の街~ 不幸の中でこそ望む幸福(2)

「……眩しい」

「……ワン!?」

 シルクたちの第一声はそんな短絡的な一言だった。

 苦悩の街――。そこは目の眩しいほどの陽光が射し込んだ、青空が広がる緑豊かな田舎町のようであった。

 生い茂る木々が緑に映えて、色鮮やかな草花が絨毯のように広がる。

 そこにポツンポツンと佇んでいる煉瓦造りの家並み、そして、まばらにも女性や子供らしき人間の生きる姿。

 闇魔界という地獄に、なぜこんな心安らぐ光景が? 彼女たちは通路の出入口で、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

「ここが苦悩の街……。あたしたちの住む人間界と何ら変わらないわ」

「ホントだワン。どうなってるんだワン……?」

 破滅の洞門で見た景色とまるで違い、長い夢を見ていたのではないかと勘違いしてしまうシルクたち。単純とも言えるその思考も、人間界に帰還したいという気持ちの表れだったのかも知れない。

 呆気に取られるそんな彼女たちのもとに、短髪頭の一人の少年が駆け寄ってきた。

 破滅の洞門で見掛けた人たちと違い、その少年は明るく振る舞い、とても元気いっぱいだ。

「ねぇねぇ、お姉ちゃん。もしかして、通路の向こうからやってきたの?」

 その少年はちょっと驚いた顔で質問してきた。

 それに対し、シルクはちょっぴり頬を緩めて答える。

「そうだよ。ここは苦悩の街だよね?」

「うん! ここはクノーノマチだよ。でも、すごく久しぶりなんだ。通路の向こうからやってきた人見るの」

 それはそうだろう。

 魔物が巣食う、あのぬかるんだ洞窟を越える者など、ただならぬ勇気と能力を身に付けたシルクたち以外、そう易々といるはずもない。

 この少年が大人たちから聞いた話では、通路の向こうにある破滅の洞門は閉鎖されてしまい、もう人の往来もなくなってしまった、とのこと。

 だが実際には、廃墟と化してもなお、破滅の洞門はそこに存在し、存在していたからこそ、彼女たちはこの街に辿り着くことができたのだ。

「ねぇ、キミ。もしよかったら、大人の人たちのところへ連れていってくれる?」

 まずは情報を集めよう。そう思い立ったシルクは、少年に道案内をお願いした。

 少年は屈託のない笑顔を零して、喜んで快諾してくれた。むしろ、向こうからやってきたヒロインたちを、この街の大人に紹介したいと言わんばかりだった。


 のどかな風景を眺めながら歩いていくシルクたちと少年。

 あちこちに点在している家は、目新しい印象はないものの、オンボロと呼ぶほど廃れてもいない。

 赴きすら感じさせる、この自然が織り成す佇まい。見れば見るほどに、これが暗黒から切り取られた闇魔界の一部とは、とても想像し難いものがあった。

 だが、一点だけ疑問も浮かんでいた。

 街中には女性や子供の姿はあっても、男性の姿がまったく見当たらない。まさか誰一人として存在しないとは考え難いが。


 歩き続けること数分後、少年が連れてきてくれた家は、入口らしい門が完全に開いたままの、木造の床に御座を敷いた、雑魚寝できるような休憩スペースであった。

 少しだけ埃っぽい御座の上には、数人の大人の人たちが、それぞれの気楽な姿勢で休憩している。その中で、男性の姿もようやく見つけることができた。

「ボク、それじゃあ遊んでくるから。じゃあね!」

 少年は役目を終えた途端、元気いっぱいに駆け出していった。

 彼の純粋無垢な笑い顔、そして溢れんばかりの明るさを目の当たりにして、シルクは少しばかり気持ちが救われた気がした。

 周りの人たちに恐縮しつつ、空いている御座の上に腰掛けるシルクとワンコー。

 彼女たちはその周囲の大人たちの顔色を見渡してみる。

 無駄な労力を使いたくないのか、皆ぐったりとしており、弾んだ会話も聞こえてこない。とはいえ、生きる気力まで失っているほどの絶望感はなかった。

 キョロキョロしていた彼女たちとピタリと目が合った一人の女性。その女性は三十代ぐらいで、ちょっぴりふくよかな印象を感じさせる顔立ちをしていた。

「あなたたち、どこからやってきたの?」

 その女性は頬を緩めて、優しげな口調で声を掛けてきた。

 シルクは問われるままに、破滅の洞門から洞窟を潜り抜けてきたことをつぶさに伝える。そして、この世界から脱出する術を探していることも付け加えて。

「あらまあ、またそんな夢のようなことを。わたしの知る限りだけど、この世界から脱出した人がいるなんて、これまで聞いたことがないわ」

「そうですか。でも、そういうことに詳しい方はいらっしゃいませんか?」

 突如、シルクとその女性との会話に割り込んでくる罵声。それは、薄汚れた作業着を着たまま横になっている、無精ひげを蓄えて険しい顔をした中年の男性のものだった。

 この世界から脱出するなんて何を馬鹿なことを! 彼は苛立たしく舌打ちしながら、そんな夢物語を探し求めるシルクのことを貶していた。

 横槍を入れてきた男性のことを見やり、ふくよかな女性は呆れたような吐息を漏らした。

「あの人の言ってることは気にしないでね。この街にいる男たちはね、すっかりやる気を無くして、毎日、ああやって寝そべっているだけなの」

 その女性は寂しそうな顔を俯かせて語り始める。

 この街に住まう男性たちはかつて、少しでも生きる希望を見出そうと、切り取られた空間で血気盛んに奔走し、人工の資源を活用した街造りを実践したそうだ。

 それを指揮したという町長を筆頭として、小規模ながらもここまでの市街地を形成したわけだが、そんなある日、その町長が突然失意に陥ってしまい、街の発展が機能しなくなってしまったという。

 それからというもの、男性たちはすっかり士気を失い、家の中や休憩スペースから動かなくなってしまった。この闇魔界という地獄の中で、死ぬゆく覚悟を決したかのように。

「町長がこのままでは、この街は衰退の一途を辿るでしょうね。ここは苦悩の街。ここに暮らすわたしたちに、希望や未来なんてものは存在しないのよ」

 その女性の儚げな横顔が、シルクの心にも物悲しさを募らせた。

 生きる希望を失ってほしくない。生き抜くことを諦めてほしくない。彼女は彼女なりに、この街で何か役立てることはないかと思案する。

 とはいえ、初めて訪れた彼女に名案などあるはずもなく、思いつくことはたった一つ。そう、この街の指導者である町長と面会することぐらいだ。

 そう思い立ったシルクは、その女性に町長の居場所を尋ねてみることにした。

「すみません、その町長さんは、どこにいらっしゃるんでしょうか?」

「町長だったら、ここから少しばかり奥に進んだところの、大きなお屋敷に住んでるわ。周りが小さいお家ばかりだから、近くに行けばすぐにわかるわよ」

 シルクの問いかけに親切に答えてくれた女性だが、その直後、無事に会えるかしら……と、穏やかな表情を崩して眉を顰める。

 ここ最近、失意のどん底にいる町長は、外出もしないで屋敷の中で塞ぎ込んでいるという専らの噂。いきなり見ず知らずの人が訪ねても、面会してくれるかどうか微妙なところらしい。

 それでも、それ以外の選択肢がない彼女。進むべき道があるならば、そこへ突き進むしかないのだ。

「ありがとうございます。それでは、町長さんのお屋敷を訪問してみます」

 シルクとワンコーは礼儀正しくペコリと頭を下げる。

 彼女たちは疲れた体を休める間もなく、町長が暮らしているお屋敷を訪ねてみることにした。

 ふくよかな女性に暖かく送り出されて、一歩足を踏み出そうとした矢先、そんなシルクたちを呼び止める男性の声があった。

 その声の方を一瞥するシルクたち。すると、呼び止めた人物の正体とは、先ほど、彼女のことを蔑視したあの無精ひげの中年男性だった。

「どうせ暇だからさ、町長の家まで案内してやるよ」

 予期もせぬ中年男性の気遣いに、シルクとワンコーは懐疑的な表情を向け合う。

 しかし、進んで道案内をしてくれようとする人を、理由もなく無碍に断ることは失礼に値する。王国王女として礼儀作法を学んだ彼女は、内心戸惑いながらも、彼の親切心を快く受け入れることにした。

 ぶっきら棒な中年男性に連れられて、物静かな休憩スペースを後にするシルクたち。

「ほら、こっちの方だ。付いてきなよ」

 街の奥の方へ進路の舵を取り、ヨタヨタしながら歩き出す中年男性。

 そんな彼に指示されるがままに、シルクたちは彼の煤けた背中を追いかけていく。

 彼女たちの目指す先は、この街の奥の方にあるという大きな屋敷。そこにいるであろう町長は、果たして面会に応じてくれるのだろうか?

 そこへ向かう道中、彼女はできる限り情報を手に入れようと、町長の特徴や人柄などを彼に質問してみた。しかし、返ってきたその回答とは、気難しく堅物なオッサンだという、至ってシンプルな人物像だけであった。


 歩き続けること数十分。町長が住むという屋敷の姿は一向に見えてこない。

 それどころか、先ほどまで点々としていた住居も視界から消えており、鬱蒼とした緑ばかりが周囲を取り囲んでいた。

 水を打ったような静寂、さらに薄暗くなるこの様相で、シルクとワンコーは不安の面持ちを隠せない。

 いったいいつになったら辿り着くのだろうか? そう問いかけてみようと思った瞬間、中年男性の歩く足がいきなり急停止した。

 彼女たちは辺りを見渡してみる。だがそこは、風で小さく揺らめく生い茂った緑ばかりだ。

「どうしたんですか? こんなところにお屋敷なんてないですよ」

 中年男性は無言のまま立ち尽くし、シルクの方へ振り向こうともしない。

 彼女は不審に思い、いったい何が起きたのかと、彼を咎めるように追及した。

 その数秒後、彼は独り言のような呟きを漏らし始める。まるで、ここへ誘い込まれた人生を呪い、これからの運命を悲観するかのように。

「なぁ、おたくらさー。本当にさ、この欲望も何もない世界から脱出できると思ってるの?」

 振り向きざまにそう囁きかける中年男性の態度は、シルクのことを蔑み、完全に見下したものだった。

 それはまさに、女子供に何ができるというのだ?という、これまでに何度も味わった、成熟していないが故の劣等感だ。

 彼女はそのたびに、自負心を傷つけられるたびに、悔しさのあまり唇を噛み締める。

 どんなに背伸びしても大人になれない彼女、自らの誇りある志を知らしめるには、磨き抜いた才知と剣術でそれを示すしかない。

「あたしたちは生半可な気持ちで、そう言っているわけではありません。可能性は低くても、ゼロではないと信じて行動しているだけです」

 シルクは毅然たる態度でそう捲し立てた。

 しなやかに揺れるボブヘア、幼さが残る艶やかな肌と唇、武闘着に包まれる細く引き締まった体型。その少女ならではの要素が、絶望の淵に追い込まれた中年男性の理性を狂わせる。

 瞳孔が開いた彼の目は、すでに狂気に満ちていた。激しい動悸も、彼の異常性を物語っている。

 じわりじわりと忍び寄るその歩調が、彼女の身に降りかかる危機をあからさまに告げていた。

「ここにいてもさー、おもしろいこと、なーんもねーんだぁ。だからさー、俺と一緒に、楽しいママゴトでもしようぜぇ……」

 それはもう、鬼畜が少女に襲い掛かる一触即発という非常事態。

 身の毛がよだつ思いに、シルクの表情が瞬時に凍りつき、これまでに感じたことのない戦慄を覚えた。

 次の瞬間、ご主人様の危機をいち早く察知したワンコーが、迫りくる彼の足首に噛み付いた。

「イテテ、何しやがる、この犬っころめ!」

 中年男性は足を振り回し、牙を剥いたワンコーを無理やり引き剥がした。

 地面に叩きつけられたワンコーのもとに、一目散に駆け寄るシルク。そして、憎しみを宿した潤みがちの瞳で、悪意に染まった中年男性のことを凝視した。

「あなたは最低の人間よ。あたしたちが女子供だからって、蔑視されたり、見境なく襲われる理由なんてどこにもない!」

「最低、だと? 小娘の分際で知ったような口を叩くな!」

 中年男性はブルブルと全身を震わせる。もう誰にも、彼の衝動を抑えることはできない。

 彼は崩壊寸前の理性をかなぐり捨てて、目の前にいる美少女に向かって突進していった。

 その直後、ドスっといった鈍い音が鬱蒼とした緑の中を駆け巡った――。

 震える口から生唾を垂らし、シルクに覆いかぶさるよりも手前に崩れ落ちる中年男性。先ほどの鈍い音の正体とは、彼女の抜き出した名剣の柄が、彼の鳩尾を打ち付けた時のものだった。

「うぐ、ぐぅ……」

 地べたに這いつくばり悶え苦しんでいる中年男性。それでも彼は、起き上がろうと必死になっている。

「お、俺だってな……。好き好んで……こんなマネしてるんじゃねぇ……」

 彼はガタガタと歯軋りを響かせて、込み上げてくる憤りを爆発させた。

「……こんなところに来ちまったら、誰だって最低男になっちまうだろうがっ!」

 その中年男性は人間界にいた頃、大工という職務に全うしていたという。

 堅調な仕事に順調な私生活、何もかもがこれからだった矢先に、歪んだ空間のように姿を現した鬼門に、有無を言わさず吸い込まれてしまった彼。

 職も仲間もすべて失った彼に残ったものとは、絶望という現実と、死滅という未来しかなかった。

「町長が本気だった頃はまだよかった。大工の経験者である俺を現場監督にしてくれて、ここにいる男たちもみんな活力があった。ところが、今はこの有り様さ……」

 男性たちは皆、生きる糧を無くし、力を持て余したまま家に引っ込んでしまった。

 現場監督を務めたというその中年男性も、技術や才能を生かす場面を奪われた末に、埃っぽい休憩スペースで雑魚寝したまま、ただ時が流れるのを虚しく過ごすしかなかった。

 言いたいことをすべて吐き出し、彼は悔し涙さえも零し始める。その遣る瀬無い涙の滴は渇いた地面を濡らし、シルクの心にまで浸み込んでいくようだった。

「あなたの非礼はもう咎めないことにします。だからもう、泣くのは止めてください」

 中年男性の悲痛に暮れた顔に、シルクは小さな微笑みを向ける。

 彼女は彼の肩に手を置き、町長の屋敷へ案内してほしいと頼み込む。もう二度と、こんな過ちを犯さないでほしいと切願しながら。

「今のあたしたちにできることは、希望を捨てずに諦めないことです。あなたも監督として人の上に立つ人なら、下にいる人たちの希望の光になるべきじゃないですか?」

 シルクの諭すようなその言葉に、中年男性は激しく心を打たれる。まさか、こんな小娘に説教されるなんて……と、目から鱗が落ちる思いであった。

 彼は零れる涙を拭い取ると、意を決したように起き上がる。そして彼は、勇敢なる美少女に対する無礼を、腰の骨が折れんばかりの低姿勢で謝罪した。

「正直さ、あんたがどれほどのお嬢さんか知らないけど、でも、あんたのその若さと勇気にかけてみるよ」

 中年男性は改めて道案内を快諾した。そんな彼の表情は、先ほどまでの素っ気ないものではなく、何かを吹っ切ったように晴れやかな笑顔であった。

 ほんの少しだけ暖かな空気を感じながら、彼女たちはそれぞれの希望の光を目指して、町長の待つ屋敷へと歩いていった。



 心を入れ替えた中年男性の道案内により、シルクとワンコーは目的となる町長の屋敷へ到着した。

 彼は役目を終えると、ちょっぴり気恥ずかしそうに歩き去っていった。許してもらえたとはいえど、先ほどの突発的な行動を深く猛省していたのだろう。

「本当に大きなお屋敷だね」

「すごいワン。ここに町長一人が住んでるのかワン?」

「さっきの現場監督さんの話だと、娘さんが一人いるみたいよ」

 シルクたちの前に悠然と佇むその屋敷は、他の住居とは比べものにならないほど、威厳を感じさせる壮観な造りであった。

 まるで城壁のように築き上げられた門構え、そして、木製ながらも綺麗に磨かれた玄関扉が、彼女たちの来訪を出迎えていた。

 建物も色彩豊かな煉瓦で造られており、綻んだ部分やいびつな箇所も見当たらず、この緻密でかつ豪華な造成が、建築に携わった人たちの努力の結晶と言えなくもない。とはいえ、人間界によくある豪邸とは程遠かったようだが。

 町長のお顔とお宅を拝見しようと、木製の扉の真ん前までやってきたシルクたち。

 緊張の面持ちで、いざ、扉をノックしようとした瞬間だった。

「キャ!?」

 いきなりその扉が内側から開かれて、シルクは危うくそれにぶつかりそうになった。

 すると、住居の方から一人の女性が飛び出してきて、その彼女が振り向きざまに大声を上げる。

「このわからずや! あたし、もう絶対にここには戻らないからね。お父さんなんか大っ……嫌い!」

 顔を紅潮させるその女性は、怒鳴るだけ怒鳴り散らした後、憤慨しながら背中を向けて歩き去ってしまった。

 そんな彼女を追いかけるように、玄関先まで血相を変えて駆けつけてくる一人の男性。

「お、おい、シンディー、待ちなさい! まったく、何という聞き分けのない娘なんだ」

 その男性も気性が荒いのか、独り言を怒鳴り散らした後、嘆くように首を左右に振って、ガックリと肩を落としていた。

 髪の毛に少しばかり白さが混じり、額にも年輪のようなしわが寄るその男性。背広を羽織った恰幅のいい背格好からして、この人物が町長であろうか。

 揉め事の一部始終を眺めていたシルクたちは、どうしてみようもなく、ただその場に立ち尽くしている。それもそのはずで、親子喧嘩と思えるこの光景に、遠慮もなく口を挟む方がおかしいだろう。

 重々しく踵を返して、住居の方へとんぼ返りしようとする男性に、彼女は臆しつつも声を掛ける。

「あ、あの、失礼ですが、町長さんですよね?」

「ん、何だ、きみたちは?」

 町長らしき男性は苛立ちを隠せないのか、眉を吊り上げたまま来客に応じてしまう。

 彼から仏頂面で受け答えされてしまい、シルクもワンコーも縮こまるように恐縮していた。

「実はあたしたち、折り入って町長さんとお話させていただきたくて」

 ピクリと眉を動かして、怪しい者を見るような目つきをする町長。

 彼はたった一言だけ、忙しくてそれどころではないと吐き捨て、シルクたちの来訪を門前払いしてしまった。

 彼女が十分でも五分でもとせがんでも、彼はまったく聞く耳を持ってくれそうにない。

 まったく取り合ってもらえず、シルクとワンコーは困惑の顔を向け合う。面会の相手が多忙ならば、こちらの方が出直すしかないだろう、と。

「仕方がないわ。ワンコー、いったんさっきの休憩場所へ戻りましょう」

「そうするしかないワン」

 シルクたちの会話を耳にした途端、町長の顔つきが突然変わった。

 彼はもの凄い勢いで振り向いて、彼女の足元で従順としているワンコーに視点を合わせる。

「おい、ちょっと待ってくれ。今、その犬はしゃべらなかったかね?」

 犬一匹を震える指で指し示した町長は、驚愕するかのように声まで震わせていた。常識的に考えたら、犬が人間と会話していること自体摩訶不思議なことである。

 彼女は臆面もなく正直なままに返答した。ワンコーはスーパーアニマルであり、生まれ持って特殊な能力を備えた貴重な存在であることを。

 それを知るや否や、町長は再び眉を顰めて表情を険しくする。

 しばらく考えに耽っていたが、その数秒後、彼は態度を軟化させて、彼女たちを自宅へ招き入れることを了解した。

 その心変わりを、シルクとワンコーは不審に思ってしまうものの、願ったり叶ったりということもあり、町長からのお招きを頂戴することにした。

 草花が生けてある形だけの庭を眺めながら、彼女たちは誘われるがままに自宅へお邪魔した。


 町長邸のリビングらしき部屋へ通されたシルクたち。

 赤茶色の煉瓦で囲まれた壁や、光沢のある丸太造りのテーブルと椅子が、穏やかで暖かい温もりを抱かせるそんな室内だった。

「それで、話があると言っていたが、どんなことだね?」

「あ、はい。実はあたしたちは人間界では、パール王国というところにいまして」

 丸太の椅子に腰を下ろしたシルクは、知らぬままに闇魔界へ辿り着いてから、これまでの経緯について触れていく。この世界から抜け出せる術があるのかどうか、それを見つけるためにここへやってきたのだ、と。

 彼女の話に耳を傾けていた町長は、気難しそうに眉をひそめて、大きな唸り声を上げる。その険しい表情からして、そんな突拍子もない話など知らぬ存ぜぬといったところか。

「少なくとも、わたしが町長として、この苦悩の街にいる限り、そんな事実を聞いたことはない」

 苦悩の街に住まう人間たちは、この世界から逃れる術を知ろうにも、他の空間へと繋がる通路には魔物が群がっており、無闇にここから離れることができない。

 もし、逃れる術がそこにあるのならば、人々は死ぬ覚悟で迷いなくそこへ向かうだろう。しかし、過去にはそういう話題が沸騰したこともなく、混乱を来したこともないと、町長はそれこそ苦悩しながらそう打ち明けてくれた。

 それでも、シルクは些細なことでもいいからと、彼に情報提供を懇願する。

 行き着く先がこの街で終わってしまうと、彼女たちの冒険もここで終幕となり、人間界へ帰るという切なる希望も永遠に潰えてしまう。

「何か、思いつきませんか?」

 シルクから真剣な眼差しを向けられて、町長は腕組みをしながら渋い顔で考え込んでいる。頭の片隅にある、かすかな記憶を模索しているようだ。

 シルクとワンコーは固唾を飲み込んで、彼から語られる耳寄りな情報を期待した。

 沈黙が流れることその数秒後、もしかしたら……と、彼は何かを思い出したように小さく呟いた。

「この先にある”困惑の村”なら、何か情報があるかも知れんな」

「困惑の村……ですか?」

 苦悩の街のさらに奥にある通路から、困惑の村という空間へ行けるそうだ。

 これはあくまでも噂だが、その村には、人間界にいた時、とある王国の一級兵士だった、”覇王三剣士”と呼ばれる三人の男性が住んでいるという。

 闇魔界でも修羅場を潜り抜けてきた彼らなら、もしかすると、この地から脱出する何かを知っているのでは?と、町長は顎を指で弄りながらそう教えてくれた。

 しかし、困惑の村へと通じる通路への入口は、現在固く閉ざされているとのこと。それは、通路から魔物が這い上がってこないようにと、町長自らが鍵を掛けて管理しているそうだ。

「困惑の村に行くには、魔物がうろつく通路を越えねばならん。果たして無事に辿り着けるかどうか……」

「その心配には及びません」

 シルクは胸に手を宛てて、自信満々に訴える。

 破滅の洞門から悪路を越えてきた彼女たち、磨き上げた剣術と冴え渡る魔法があれば、魔物が蔓延る通路など何も支障はない、と。

 町長はそれでも、通路の入口を開け放つことに難色を示した。いくら魔物を退治してきたとはいえ、彼女たちの戦闘力をまったく知らないからだ。

 悩んだ挙句、彼は目前にいる少女の力強い瞳に懸けてみることにした。もしかすると、彼女たちなら自分自身の憂いべき失意を取り除いてくれるかも知れない、そういう結論に至ったのだ。

「わかった。困惑の村への通路の鍵をきみたちに託してもいい」

「本当ですか?」

「ただし、一つ、わたしの頼みを解決してくれることが交換条件だ」

 喜んだのも束の間、ビクッと鼓動を震わせるシルクたち。

 交換条件っていったい――? シルクとワンコーは不安げな顔を見せ合っていた。

 町長は少しばかり気まずそうに、その交換条件となる頼み事の概要を明らかにする。

「率直に言うとだな、わたしの娘であるシンディーをここへ連れ戻してほしいのだ」

「娘さんを連れ戻すんですか?」

 シルクは首を捻って、不思議そうな顔でオウム返しした。

 そんな彼女の脳裏に浮かぶのは、ここを訪れた際に玄関先で見掛けた、あの憤慨していた女性のことだ。

 町長が嘆きながら曰く、娘を連れ戻さなければいけない事情は次のようなものだ。

 ほんの二週間ほど前、彼の娘であるシンディーは、些細なことで父親と口論となってしまい、勢いのままに自宅から家出してしまったという。

 このままでは何も解決しないと判断したこの二人、もう一度腹を割って話し合おうと、本日、討議の席を設けてみたが、事態は平行線のまま終結し、またまた彼女が家を飛び出してしまったということだった。

「……いやはや、さすがにわたしの娘だよ。わたしに似て頑固一徹でな」

「そういうことだったんですね」

 シルクが同情しながら、娘と口喧嘩したその些細な理由を尋ねてみると、町長はわざとらしい咳払いをして、渋るように言葉を濁してしまった。どうやら、触れてほしくない親子なりの事情があるようだ。

「シンディーが隠れている場所はわかっているんだ。この屋敷より少しだけ下ったところに”未練迷宮”という名の洞穴がある。シンディーはそこにいるはずだ」

 ここまで話を聞いていたシルクに、ふと素朴な疑問が浮かんだ。

 それは、娘の隠れ家を知りながら、なぜ、父親である町長自らが連れ戻しに行こうとせずに、他人に任せるのだろうか、ということだ。

 その辺りをやんわり問うてみると、彼はしかめっ面をして苦言を零し始める。

「もう行ったさ。ところが、シンディーは迷宮の奥の方を大きな岩で塞いでしまったんだ。その岩と壁の間に、ほんの少しだけ隙間があるんだが、わたしのような体格はもちろん、子供でも入ることができないんだ」

 町長はここからが本題とばかりに、のんびり構えていたワンコーを指差した。

「そこで、そこにいる犬のタンコーくんに、その先へ行って娘を連れ戻してほしいというわけだ」

「あ、あの。彼の名前はタンコーじゃなくて、ワンコーです」

 名前こそ間違えられたが、名指しで指名されたしまったワンコーはというと、その重責を担うことに困った顔を浮かべていた。

「オイラに、そんな役目は難しいワン。あんまり気が進まないんだワン」

 ワンコーの言い分も尤もで、彼の使命たるもの、どうみても犬がやるべき行為ではないだろう。

 そうとわかっていても、シルクは泣く泣く彼を説得しようと試みる。この先の道を切り開くべき使命が、小さい体を持つ彼にしかできないからだ。

「でもワンコー。この役目を達成できないと、あたしたちは困惑の村へ行くことができないわ」

「う~ん、そこを突かれると、オイラ、何も言えないワン……」

 ご主人様と愛犬の交渉はしばらく続いた。

 ワンコーほどの知識と才能があれば、女性一人の説得役は十分にこなせるだろう。しかも、説得の相手が動物の方が、警戒されたり拒絶されたりしない可能性も高い。

 そこに根拠があるのかどうかわからぬままに、ワンコーは渋々、その役目を引き受けることになった。この背景に、ご主人様の絶対的権力があったことは言うまでもない。

「どうもありがとう。未練迷宮の入口だが、シンディーがきっと鍵を締めているはずだ。この未練迷宮の入口の鍵を持っていきなさい」

 町長から装飾をあしらった銀色の鍵を授けられたシルク。

 手のひらサイズながらも、少しばかり重量を感じるその鍵。これからの説得という任務が、それにさらなる重みを加えていたのだろうか。

 シンディーが隠れている未練迷宮は、その名の通り、迷路のような構図になっているそうだ。

 町長や娘のように慣れている者ならまだしも、初めて入ることになるシルクたちでは、迷ってしまう危険性があるという。町長は警戒を怠らないよう警鐘を鳴らした。

「きみたちのことだから心配ないと思うが、迷宮には邪悪な魔物が潜んでいるかも知れない。迷っているうちに遭遇したら大変だから、何事にも用心してくれ」

 そうと決まれば、善は急げ。

 シルクたちは町長の娘であるシンディーを連れ戻すため、未知なる領域である未練迷宮へ赴くことになった。

「とにかく頼んだよ、アンコーくん!」

「……あの。彼の名前はワンコーです」

 果たして、ワンコーはシンディーを連れ戻すという重責をしっかり務めることができるのだろうか?

 ご主人様であるシルクも一抹の不安があったが、当事者であるワンコーの方が、彼女よりももっと不安に駆られていたであろう。

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