第二章 苦悩の街~ 不幸の中でこそ望む幸福(1)
パール王国の王女として生まれたシルク=アルファンス・パール。
彼女は国王である父親から命を受けて、神の洗礼という仕来たりのために、長きに渡り封印されてきた、城内地下奥深くにある”あかずの間”へと赴いた。
ところが、そこにあったものは、数百年以上も使われていないと思われた神の祭壇。そして、彼女を謎めいた異空間へと引きずり込んだ暗闇だけであった。
それはシルクにとってあまりにも悲運な宿命だった。
人間が住まう世界と、魔族が蔓延る闇魔界の境界となる”鬼門”を越えてしまった彼女。
生きることも、帰ることも許されない地獄へと迷い込んでしまった彼女は、絶望に身も心も打ちひしがれるも、一人の老人との出会いにより、進むべき希望への道を見出すことができた。
シルクは今、お供であるワンコーとともに、闇魔界からの脱出という冒険へと旅立つのであった――。
* ◇ *
固く尖った石ころがあちこちに散乱し、どこからともなく吹いてくる風で、渇き切った砂埃が舞い上がる。
ここは険しい岩肌を露出して、登山者の行く手を阻まんとする岩山の上。
シルクとワンコーは目を覆いながら、その足場の悪い道のりをひたすら歩いている。
彼女たちは獣道のような轍を頼りに、”破滅の洞門”という名の地を目指していた。
「ワンコー、ほら、あそこを見てみて」
岩山から見下ろした先にある、古めかしい建造物らしきものを指差したシルク。
ワンコーは細い目をさらに細めて、彼女が指で示している建物に目を凝らしてみた。
「何か建っているワン。あそこが破滅の洞門かワン?」
「わからないけど、この岩山から見える建物ってあれしかないし、きっとそうだよ」
シルクたちは期待と緊張を胸に抱き、脇目も振らず、その古めかしい建造物へ足を急がせる。
少しずつ目前に迫ってくる、砂だらけの砂漠の中に佇んでいる建物。
それは古めかしいというよりも、屋根や壁の至るところが剥がれており、強風ぐらいで崩壊してしまいそうなほど貧相な有り様であった。
建物の正面らしきところには、開きっ放しの入口があった。よく見てみると、その入口の扉は破壊されているようで、黄色い砂の上に残骸となって朽ち果てていた。
「…………」
そこはもはや、生命すら蔑にした廃墟である。
あまりの痛々しさに、シルクたちは正面入口の前で絶句するしかなかった。
ここは人の住まうところではない。シルクはそう感じていたが、鼻の利くワンコーだけは、この廃墟からかすかに漏れてくる、人間の弱々しい息遣いを感じ取っていた。
「姫。この中に人がいるワン」
シルクとワンコーは神経を尖らせつつ、廃墟の入口の敷居を跨いだ。
その瞬間、咽る臭いが鼻を刺激し、彼女たちは一様に顔を顰める。
木製の床もほとんどが腐っており、そこらじゅうが穴だらけだ。しかもその床も、壁の隙間から入り込んできた砂で埋もれてしまっている。
そして、彼女たちは驚きのあまり言葉を失う。
砂の上に横たわる複数の人間の姿。暗くてはっきりしないが、その人たちから、生きている証しである息吹が感じられない。
「ワンコー、大変だわ! 魔法で助けてあげて」
「了解だワン!」
シルクたちは大急ぎで横たわる人間のそばに寄り添う。
ここに倒れて時間が経過しているのか、その人たちの体には、たくさんの黄色い砂埃が降りかかっており、まるで埋葬されているかのようだった。
彼女の励ます声も、ワンコーの魔法でも、横たわる人たちは息を吹き返すことはない。それでも、彼女たちは叫び声を止めようとはしない。
「……無駄なことさ」
「え?」
事態が逼迫している最中、突然、投げやりに呟く男性の声が聞こえた。
その声がした方向へ反射的に振り向いたシルク。
「そいつらはもう、とっくの昔に死んでるよ」
見た目が三十代ほど、泥と埃にまみれた服装をしているその男性。彼の弱々しい声から、生気といったものがまったく伝わってこない。
よく注目してみると、壁にもたれかかる彼の近くには、膝を抱えて震えている数人の男性の姿もあった。
ここに生存している人間たちは皆、薄汚れた身なりのままで、そこから一歩たりとも動こうとはしない。生きる希望を見失い、このまま死を迎えようとしているかのように。
死者を蘇らせる術などないシルクとワンコーは、悲しみの瞳を静かに閉じて、砂にまみれた亡骸にそっと手を合わせる。
彼女はこの先の進路を辿るために、塞ぎ込んでいる男性のもとへ近寄っていく。
「失礼ですけど、ここは破滅の洞門でしょうか?」
「……ああ、そう呼ばれているな」
ここが目的地であることを知り、悲痛の心情ながらも、少しばかり安堵したシルクたち。
その男性は吐き捨てるような口調で語る。ここは人間の失望だけが虚しく漂い、潤いを失った砂埃に晒された”破滅の洞門”だ、と。
洞門という名前だけに、建物の奥へ進んでいくと、この疑似空間と別の疑似空間を接続する、洞窟のような通路があるのだという。
しかし、ここで座り込んでいる男性たちは、誰一人として通路を越えていこうとはしない。そこには、人間の生血を食らうおぞましい魔物が棲んでいる。彼らはそう口を揃えるのだった。
これからの道中、魔族との交戦は避けられないことを把握していたシルク。それが命の危機だとわかっていても、彼女はここで立ち止まるわけにはいかない。
「その通路というのは、この奥にあるんですね? あたしたちは先へ進んでみます」
男性たちの震える声を耳にしても、シルクは臆面もなくそう言い切った。
彼らは虚ろな目で彼女を見据えると、その数秒後、ケラケラと肩を揺らして嘲笑し始める。
「おいおい。俺たちの話を聞いてなかったのか? 女と犬っころで何ができるんだよ。たとえ通路に行けたとしても、腹を空かした魔物どもに、食い殺されるのが関の山ってもんさ」
そんな馬鹿げたことよりも、歌を歌ったりダンスを踊ったりして楽しませてくれと、女子供のシルクたちのことを卑下する男性たち。
彼女はこれでも、一王国の王女の証しであるシルバーのイヤリングを飾る、誇り高きプライドを自負している。
侮辱されたことに腹立たしさを覚えた彼女だったが、絶望の淵にいる者の苦心に何を言っても響かないだろうと思い、多くを語ることもなく、声を荒げることもなかった。
「あたしたちには生きる希望があります。先へ行かせてもらいます」
無謀にも強行しようとするシルクたちに、一人の男性は呆れた顔つきで溜め息をつく。
「まあ、無理に止めやしないさ。洞門の入口に立っている兵士みたいな男に声を掛けてみな」
「兵士みたいな男性、ですね。わかりました」
「でも、言っておくけど、簡単には通路まで辿り着けないぜ? 行ってみりゃわかるさ」
意味深な言葉を告げた男性をその場に残し、シルクとワンコーは洞門の入口があるという奥へと向かう。
彼女たちはその途中、他にも生存している人たちとすれ違った。
その中には、老若を問わない女性の姿も少なからずあった。
意気消沈としすすり泣く声、自暴自棄となり泣き叫ぶ声、そのすべてが、まだ十五歳のシルクの心理を崩壊しそうになる。
ここにいる人たちを救わなければ――。彼女は悲しみに心を痛めつつも、気落ちしそうな気持ちを奮い起こした。
歩き続けること数分後、建物の中で窪んでいる一角まで到着したシルクたち。
ここが洞門であるかのように、怪物が口を開けたような不気味な穴が、彼女たちの視界に広がった。
先ほどの男性が口にしていた通り、その洞門の入口のそばに、軽装ながらも防具に身を包んだ兵士らしき男性が立っている。
そこへゆっくりと近づいていくと、兵士は怪訝そうな目つきで彼女たちを睨みつけた。
「何だ、おまえたちは? ここは”苦悩の街”へ通じる通路への入口だ。おまえたちのような、女子供に用事などないはずだ」
兵士はそう警告を発すると、手に持っていた長い棒で洞門の入口を塞いでしまう。
ちょっとだけ強面のその兵士は、憮然とした態度のままピクリとも動かない。それはまるで、子供が悪戯に立ち入らないよう見張っているかのようだ。
闇魔界から脱出する術を求めて、この先にある街まで行きたい。シルクはそう説得を試みるも、兵士から厳つい顔のままで高笑いされてしまった。
「がっはっは、何をバカげたことを申すか! おまえたちのような子供に、この先の通路を越えられると思っているのか? 邪悪な魔物がうようよいるのだぞ。おまえたちなんぞ、あっという間に食い殺されてしまうわ」
シルクたちの才知長ける能力を知らず、見下したような口振りで悪態付くその兵士は、テコでも動かんばかりにどっしりと構えていた。
そればかりではなく、腰に下げた名剣まで軽視されてしまった彼女。しかしそれは、初対面の相手であれば致し方のないところだ。
「それは、あたしたちに、魔物と戦える技量がない、そう言いたいんですか?」
「当然だろう。魔物退治を気取っているようだが、子供の遊びじゃないんだぞ」
これまでに、この洞窟の中へ血気盛んに突入し、魔物の餌食になった人間を大勢見てきたというその兵士。彼は彼なりに、人間たちを守る衛兵という立場で、これ以上の犠牲者を出しなくない本音も覗かせた。
シルクにも彼の気持ちがわからなくもない。しかし、ここから先へ進むことこそ、この地に住まう人間たちを救うきっかけになるのではないか。それが、使命感を背負った彼女の本音でもあった。
無謀に突き進もうとする者、それを意地でも阻もうとする者。取り留めのない膠着状態が続く。
どうしても通してくれないのなら仕方がない。彼女は深い吐息をこぼしてから、一つ提案をする。
「兵士さん、それなら試してみますか? あたしが魔物に食い殺されるかどうかを」
「な、何だと?」
シルクの余裕たっぷりの表情に、兵士は眉をピクリと動かし一瞬だけたじろいだ。
しかし、所詮は子供の戯言だ。彼はまたしても、強面を緩めて高らかに笑い出す。
「がっはっは。こりゃまた威勢のいいガキじゃないか。おう、やれるもんならやってみろ!」
次の瞬間、シルクと兵士の隙間に閃光が走った――。
彼女の右手には、居合切りのごとく抜かれた、光り輝く名剣スウォード・パール。
いつの間にか切り裂かれた腰のベルト、そして、緩み切ったズボンが彼の腰からずり落ちていく。
「な、何だ、これは!?」
慌てふためく兵士は、脱げそうになるズボンを咄嗟に掴んだ。
何が起こったのかわからず、彼は顔を引きつらせながら右往左往している。
シルクは勝ち誇ったようなしたり顔で、名剣を鞘の中へ戻すと、黒ずんだ床の上に落ちたベルトを手に取って、これが通行証と言わんばかりに見せ付ける。
「これでどうかしら? ここを通る資格ぐらいはあると思いますけど」
「お、おまえは、いったい?」
この小娘の剣捌きはただ者ではない。少なからず戦いに実績のある兵士の目には、シルクの存在がそう映ったようだ。
彼は動揺を隠せないままに、洞門の入口を塞いでいた長い棒を取り外した。これ以上拒んだ挙句、ズボンまで切り裂かれたらたまったものではないからだ。
シルクとワンコーはお互いに声を掛け合い、いよいよ、魔物が生息しているという洞窟めいた通路へと進んでいこうとする。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
シルクたちを呼び止める兵士の表情は、先ほどとはまた違う雰囲気で強張っていた。
「いいか、これだけは言っておく。この通路の中にいるジジイにだけは絶対に見つかるんじゃないぞ。もし、見つかってしまったら、いくら剣を使えるおまえたちでも……」
目前にあるのは、身の毛もよだつ悪の巣窟。無論、警戒するに越したことはない。
”ジジイ”というキーワードを頭の中に仕舞い、シルクたちは気を引き締めて、禍々しい悪魔が巣食う大穴の中へと突き進んでいった。
◇
シルクたちの降り立った洞窟は、ぬかるんだ泥で覆われた細長い空間だった。
ヘドロでドロドロした壁には、ゆらゆらと火を灯す松明がある。それでも、真っ暗なこの通路の中では、それも一寸先は闇と言えるほど役に立たない。
ぬかるんでいる地べたも異様に柔らかく、じっと立っていたら、そのまま地中へと引きずり込まれてしまいそうだ。
耳を澄ましてみると、どこからともなく響いてくる何者かの雄叫び。それこそが、この地に邪悪なる生物がいる証しであろうか。
できることなら体力を消耗したくはない。シルクたちは敵に見つからないよう、静かに歩いていく。
しかし……。侵入者を黙って見逃してくれるほど、ここに巣食う悪魔は優しい心など持ち合わせはいない。
「姫。さっきの兵士が言っていた”ジジイに見つかるな”って、どういう意味なんだワン?」
「ジジイということは、年配の男性なんでしょ? どうして、おじいさんがこんな洞窟にいるんだろう」
シルクたちはお互い、不思議そうに首を捻る。
この足場の悪さ、先が見通せないほどの暗闇、それに輪を掛ける魔物の存在。
こんな危険極まりない通路の中に、どうして”ジジイ”と呼ばれる人がいるのかと、彼女たちは理解に苦しむばかりであった。
人間のわずかの臭気を察知してか、恐ろしい魔物はゆっくりと彼女たちに迫っていた。
彼女たちの進んでいる足が、緩やかなカーブに差し掛かった、まさにその瞬間だった。
「危ない――!」
シルクたちに突如襲い掛かる魔の手。
地べたに足を取られながらも、それを持ち前の瞬発力で何とか防ぐことができた彼女たち。
『ガァァ!』
魔物の叫び声に弾かれて、シルクとワンコーは即座に、汚泥まみれの両サイドの壁際へと散った。
彼女たちに攻撃を仕掛けたのは、頭がオオカミで人間と同じような体格を持った魔物だった。その魔物の手には、鋭利に尖った小刀が握られている。
「やっぱり現れちゃったね、魔物」
「どうするワン?」
「どうするも何も、向こうはやる気満々みたいだよ」
シルクたちに対策を練る暇も与えず、オオカミの魔物は第二の攻撃を仕掛けてきた。
瞬時のスピードでスウォード・パールを引き抜くシルク。
激しい金属音がこだまし、魔物が振り下ろした小刀と、彼女の構えた名剣が重なり合う。
「うぅ、すごい力……!」
邪悪なる小刀と神聖なる名剣が対峙するも、オオカミの魔物は圧倒的なパワーで、力で劣るシルクをどんどん押し込んでいく。
魔物の口から粘り気のあるよだれが滴り落ちるたびに、彼女の足元がより一層ぬかるんでしまいそうだ。
怪しく光る野獣の眼が、力が抜けていく彼女にさらなる脱力感を抱かせる。
反対側の壁際にいたワンコーはというと、彼女のピンチを救おうにも、両手足が竦み上がって身動きが取れなかった。
恐るべき怪力に押され気味だった彼女は、ついに右足の片膝をぬかるみに付いてしまった。
だが、危機的状況に陥っても、彼女は気を抜かずに踏ん張り続ける。こんなところで、無駄に時間を潰している余裕などないのだ。
「ていっ!」
『ガハァ!』
シルクはわざと体勢を崩して、自由の利いた左足をオオカミの魔物の腹部へ叩き込んだ。
そのクリーンヒットにより、魔物は呻き声を上げて後ずさりした。しかしすぐに体勢を立て直し、彼女にさらなる敵意を剥き出してくる。
「ワンコー、あたしたちのすべきこと、それはたった一つよ」
「えっ?」
「あたしたちは、目の前に現れる敵と戦い、そして勝つことよ!」
シルクはそう宣言すると、ぬかるみに足を取られるよりも早く、目の前の魔物目掛けてダッシュする。スウォード・パールを握り締める両手に、渾身の力を込めながら。
彼女の振り抜いた名剣から、目に眩しいほどの神秘なる輝きが溢れ出す。
その名剣の太刀筋は美しいほどに綺麗な弧を描き、オオカミの魔物の全身を、盾にした小刀ごと真っ二つに引き裂いた。
『ギャァァ!』
断末魔の絶叫が洞窟内を駆け巡り、二つに分かれたオオカミの魔物の体は、ぬかるみの上に崩れ落ちていった。
女性ならではの特徴を生かし、柔よく剛を制す精神で臨んだシルクは、何とか魔物を打ち破ることができた。彼女は乱れた息を整えながら、スウォード・パールを鞘へと仕舞い込む。
「姫、お見事だワン」
「さあ、のんびりしてられないわ。先を急ぎましょう」
シルクとワンコーは足場の悪い道のりを、出口に向かってひたすら駆けていく。
途中で躓いたり、転びそうになっても、シルクたちはおどろおどろしい通路の上を疾走していった。
外壁に吊るされた松明の火が、彼女たちの駆け抜ける疾風で揺らめいている。
どういうわけか、その松明の小さな火が、まるで後を追いかけるように、一本、また一本と消えていってしまう。
それは瞬く間に彼女たちを追い越して、周囲にあった松明の火がすべて消えた瞬間だった!
「真空破ジャァァ!」
風殺魔法を唱える叫びと同時に、シルクたちの行く手を阻んだ鋭利なかまいたち。
体の一部に異変を感じた彼女たちは、本能的に身の危険を察知して、ぬかるんだ地べたに滑り込んでいった。
水を打ったような静けさの中、明かりを失ってしまった洞窟内。
シルクとワンコーはお互いの手で、お互いの無事を確かめ合う。握り締めたお互いの暖かい手。どうやら、肌を少しばかり掠ったものの、双方とも何事もなかったようだ。
シルクの敏感な感覚にも、ワンコーの鼻にも、すぐ近くに浮遊している不穏な気配は伝わっていた。
迫りくる敵の耳に届かぬよう、彼女たちは声を潜めて話し合う。
「ワンコー、さっきのかまいたちって、まさか……」
「風殺魔法の真空破に間違いないワン」
「ということは、さっきのオオカミよりも強敵というわけね」
「そう思った方がいいワン」
ひそひそ話を終えたシルクたちは、周囲を警戒するように耳を澄ます。
闇に包まれて視界が利かないせいか、いつも以上に耳の感覚が研ぎ澄まされていく。
彼女たちの鼓膜に小さく伝わる足音。それはぬかるみの上を歩く、気味の悪い耳障りな不快音だ。
そして、彼女たちの見据える先が、少しずつ明るくなっていく。
(誰か来た――!)
シルクとワンコーは心の中でそう叫んで、緊張の息をゴクッと呑み込んだ。
彼女たちのわずかな視界に入ってきたもの、それは、緑色の衣をまとった年老いた人影。
そう、彼こそ出会ってはいけないはずの、破滅の洞門の兵士が忠告していたあの”ジジイ”であった。
「フォッフォッフォ。キサマたちはどうやら、タダ者ではないようだな」
手に持つランタンの薄明かりに照らされるその容姿は、シルクだけではなく、誰の目から見ても、彼女と同じ人間の体格をしていた。
「ワシの真空破を紙一重でかわすとは。フォッフォッフォ、これは殺し甲斐があるというもの」
不気味な声でせせら笑うジジイ。薄明かりの中で光る蔑むような目が、残忍な狡猾さを漂わせていた。
シルクは這っていた上体をゆっくりと起こし、ぬかるみの地べたの上に立ち上がる。
「待ってください。見たところ、あなたは魔物じゃないわ。どうして、同じ人間のあたしたちを襲うの!?」
良心が痛まないのかと言わんばかりに、シルクは胸に手を宛てて懸命にそう訴えかけた。
それでもジジイは笑いを止めようとはしない。むしろ、糾弾されることに快感を覚えるのか、満足げな顔を浮かべていた。
人間を襲う理由など簡単なこと。ジジイは悪びれる様子もなく、その答えを生々しく吐き捨てる。
「知っての通り、この闇魔界は魔族が支配する世界。ツマリ、人間として生きるより、魔族として生きた方が何かと都合がよい」
人間ならば、いつまでも魔族の殺戮に脅かされることになる。しかし魔族ならば、たとえ他の人間から罵倒されることはあっても殺されることはない。
魔族として人を殺めて、魔族の世界に溶け込むことで、生涯、末永く生き続けることができる。これこそが、狂気と殺意が渦巻くこの暗黒の世界で生き抜く、ずる賢いしたたかな処世術なのだ、と。
人間を裏切り、悪魔に魂を売った鬼畜を前にして、シルクは心の奥から激しい怒りが込み上げる。虚しさと悔しさが入り交じり、彼女の表情はやり切れない憎しみに満ちていた。
「それじゃあ、あなたは魔族に寝返ったというの?」
「フォッフォッフォ。人間界にもこんな言葉があるダロウ? 長いものに巻かれろ、とな」
血の気が引くような感覚が走り、シルクの全身が小刻みに震え出す。
魔族という偉大なる権威にひれ伏し、長いものに巻かれるのは仕方がない。だが、そのためだけに、同じ人間に危害を加えることだけは断じて許し難い。彼女の王家伝承の正義感が一気に爆発した。
「許せない……。この世界に引きずり込まれたすべての人に対する冒涜。あたしは、あなたのことを絶対に許しはしない!」
シルクが言い放つ正義感を、ジジイは所詮は妄言と嘲笑する。
いくら良心ぶっていても、人間として生まれたからには、誰でも死ぬことを恐れ、誰もが生きることを望むはず。
それはキサマも同じだ! 彼の突き出した人差し指が、人として生きる彼女の本心に突き刺さった。
「人間という生き物は、自分のことが一番カワイイ。生き抜くためには、他の人間を蹴落とし、騙すことさえも平然と犯し、それにナニモ罪の意識も持たぬ」
ジジイはそう窘めて、潜在的に眠っているシルクの邪な人間性に迫った。
それはもう、悪魔となることの魅力、存在価値、そして計り知れない快楽を、彼女の心に植え付けようとせんばかりに。
しかし、どんなに唆されても、彼女の正義感は揺らぐことはなかった。
生きることの価値は、人を虐げたり、殺めたりして手に入れるものではない。人を救い、人のために戦うことが、生まれ持っての人間としての使命なのだと、彼女は毅然たる態度でそう捲し立てた。
「あたしは絶対に魔族になんて屈しないわ。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、この世界から人々を救うまで、あたしは人間の一人として最後まで諦めない」
愚かなのことよ。ジジイの吊り上った口角から、そんな呟きが漏れる。
彼は魔族に成り上がった者として、目の前にいる人間を抹殺しなければならない。それが、彼に与えられた極悪非道な使命なのであった。
「哀れな人間め! 今こそ、魔族に生まれ変わったワシの、究極の魔術をとくと見せてヤロウ」
人間という存在を捨てて鬼畜と成り果てたジジイは、突き出した手のひらからいくつもの疾風を放った。
その疾風は外壁のヘドロを吹き飛ばしつつ、シルクたち目掛けて襲い掛かってくる。
ぬかるみに伏せたままのワンコーを抱きかかえると、彼女はかまいたちの一つ一つを、しなやかな体を操り巧みにかわしていく。
「フォッフォッフォ! ワシの真空破をどこまでかわせるかな?」
シルクはワンコーを抱いたまま、襲い掛かる風殺魔法を必死に避けていた。だが、この足元の悪さでは、いつまでも避け続けることは容易ではない。
案の定、少しずつ動きが鈍ってきた彼女の体に、身を切るような疾風が掠り始めてしまった。
敵は空中攻撃とも言える魔術、彼女たちは地上攻撃とも言える剣術。このぬかるみというリングの上では、彼女たちの方が圧倒的に不利な情勢だ。
(こ、これだけの真空破では、かわすのがやっとだわ……)
防戦一方なこの戦況で、打つ手がないまま体力を消耗していくシルク。
その窮地を救うべく名乗りを上げるは、彼女の手の中にいた愛犬のワンコーだ。
「姫、オイラをアイツに向かって投げてくれワン!」
「えっ? な、投げるの?」
足が使えないのなら飛んでいくしない。それがワンコーの捨て身とも言える奇策であった。
あまりの無謀さに、シルクは眉を顰めて困惑してしまうも、なす術のないこの事態を打破するためには、多少の奇策も必要と考えるに至った。
シルクは迫りくる風殺魔法の間隔を見計らい、ぬかるんだ地べたに左足を押し込んだ。そして彼女は、その左足を踏ん張って、振りかぶったパートナーを両手で思い切りぶん投げた。
投げ飛ばされたワンコーの小さい体が、吹き荒れるかまいたちの間を縫うように突進していく。
「な、何ジャ!?」
真っ白な毛色をした弾丸が、ジジイのすぐ目の前まで迫ってきた。それに気付いた時には、ワンコーが顔面にピタッとへばりついた。
「オイラの牙と爪攻撃を食らえワン!」
「ギャワァ!」
ワンコーはジジイの頭に噛み付いたり、剥き出した爪で顔を引っ掻く。
この致命傷には至らない攻撃でも、ジジイの魔法攻撃を食い止める役目はしっかり果たせたはずだ。
傷だらけの顔を手で覆い隠し、怯みながら体勢を崩したジジイ。手放されたランタンが、彼のふらつく足元をぼんやりと照らしている。
「姫、今がチャンスだワン!」
ワンコーはそう促しながら、ジジイのもとから瞬時に飛び退けた。
この値千金のチャンスを逃さぬよう、シルクは腰に下げたスウォード・パールを引き抜く。
彼女は名剣を逆手で握り締めると、槍投げのようなポーズを取った。
切り裂く得意技も、この足場では威力が半減してしまう。それならば、この名剣を投てきして相手の体を貫くしかない。彼女は瞬発的にそう判断したのだ。
ランタンの明かりでわずかに浮かぶ、緑色に包まれた敵に狙いを定めるシルク。
片目を閉じた彼女の表情に緊張が走る。もし、万が一狙いを外してしまったら、怒り狂うジジイの逆襲が待っているのだ。
しかし、そこには一つの躊躇いもあった――。
(いくら寝返ったといっても、相手はあたしと同じ人間……)
それでも、シルクに迷っている暇などない。心の葛藤を振り払い、勝たねばならぬ魔族のことを凝視した。
(届け、名剣スウォード・パールよ!)
シルクは渾身の力を振り絞り、名剣を持つ右手を勢いよく振り抜いた。
名剣スウォード・パールは輝く軌道を描き、まるで線路の上を走るかのように直線的に突っ走る。
その眩しい光が走るレールは、彼女の狙った通りに、緑色の衣をまとったジジイの胴体へと導かれていた。
「ギャワワァァ!」
名剣は光の速さで、ジジイの体に突き刺さった。
生き抜くことだけに執着し、死ぬことを排除したはずだった彼は、この時、死の恐怖を儚くも知った。
「バ、バカなぁ! こ、このワシが。ま、まさか、このワシがぁ……」
彼は悶え苦しみながら、着ていた衣だけをそこに残して、萎みながら跡形もなく消えていった。
シルクは憔悴し切ったように、ぬかるみの上に膝から落ちていく。
そんな彼女のもとへ、スウォード・パールを口にくわえたワンコーが駆け寄った。
「姫、大丈夫かワン? しっかりするワン」
「……あたしは、大丈夫よ」
突如、薄暗かった洞窟内が急激に明るくなった。
シルクとワンコーはその光源に視線を向ける。そして、眩しさにまぶたを伏せた。
その光源とは、ランタンの熱がきっかけで燃え出した、置き去りにされた緑色の衣だった。
土に還った魔物を火葬するかのごとく、緑色だった衣が真っ赤な色の炎に染まっていく。
ワンコーから手渡された名剣を、シルクはゆっくりと鞘の中へ差し込んだ。その時の彼女の表情はどこか優れなくて、思い悩んでいるように見えなくもない。
「姫、どうかしたのかワン?」
ワンコーが首を捻って尋ねてみても、シルクは押し黙り青ざめた表情のままだ。
彼女はおもむろに、小刻みに震える両手を見つめる。
「あたしは、この手で人を殺してしまった……」
それがたとえ魔族に寝返り、大勢の人を殺めてきた存在だったとしても、一人の人間を手に掛けてしまったことは紛れもない事実だった。
赤く燃えさかる炎を見つめて、彼女は髪の毛を振り乱し、深い後悔に苛まれていた。
ワンコーはそんなご主人様を一生懸命に励まし、精一杯慰める。
それ以外に選択肢はなかった。戦わなければ、こちら側が殺されていた、と。
シルクは儚く心に思う。この地獄と呼ばれる闇魔界は、人間の心優しい本質をも狂わせて、ここまで残忍な悪魔に仕立て上げてしまうのか。
彼女はますます、悲劇しか生まない死の淵から、脱出しなければならない深刻さを痛感させられた。
「ワンコー、先を急ごう。まだ生きている人たちのためにも」
「了解だワン」
シルクたちの見据える先には、炎の明かりで映し出された階段らしきものが見える。きっと、あの階段を上がった先が、目指していた”苦悩の街”に違いない。
重大な過ちを犯した罪滅ぼしか、どうやら、ジジイと呼ばれる者の亡骸が、彼女たちの道しるべになってくれたようだ。
シルクとワンコーは気を引き締めて、さらなる冒険への第一歩足を踏み出す。
幾多の困難も試練も乗り越える覚悟で、苦痛にあえぐ人たちの希望の光となるため、彼女たちは苦悩の街へ繋がる階段を上っていった。
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