第一章 パール城~ 運命という名の旅立ち(3)

 国王の間を後にしたシルクは、自分の部屋に戻らないまま、城内二階のテラスへとやってきていた。

 お城のテラスから望める遠景には、パール王国の風光明媚な自然が美しく浮かび上がる。

 青々しい山の稜線、緑豊かな木々の揺らめき、水色に映える川の流れ。青空に浮かぶ太陽から光を浴びて、そのすべてがキラキラと眩しいぐらいに輝く。

 どこからともなく吹いてくる爽やかな微風。温もりを包んだその風が、シルクの柔らかな髪の毛とともに、心の中にある虚無感をも掠めていった。

(お父様とお母様は、いったい何を隠しているの?)

 シルクはやり切れなさに唇を噛み締める。

 尊敬の眼差しで信頼してきた誇らしき両親の姿。どんなに叱られても、どんなに怒られても、その敬う気持ちに変わりなどなかった。

 だからこそ、すべてを打ち明けてほしかった。彼女の傷心は癒されることなく、不安と不満と不信といったネガティブな思考ばかりに覆われてしまう。


 それから数分後のことだった。

 シルクのことを血眼になって捜し回っていたワンコーは、ようやく、テラスに佇んでいる彼女を見つけることができた。

「こんなところにいたのかワン。やっと見つけたワン」

 疲れた息を吐いているワンコーに、シルクは落ち込んだ顔で振り返る。

 ところが、彼女は無言のままゆっくりと、はるかかなたの景色へ視線を戻してしまった。

 底抜けに明るいご主人様の、あまりにもかけ離れたその変貌ぶりに、彼はただ戸惑うばかりだ。

「姫、いったいどうしたんだワン。お願い事しなくてもよかったのかワン?」

 シルクはテラスの手すりに手を付き、景色を眺めながらか細い声で答える。

「とてもそんな雰囲気じゃなかったわ。あなたは何も感じなかったの?」

「そうかワン? オイラには、いつもの国王様と王妃様に見えたワン」

 前足で長い耳を掻いているワンコーには、先ほどの国王と王妃の容姿は普段通りに映っていたようだ。

 ワンコーの目はごまかせても、娘として長らく触れ合ってきたシルクの目はごまかせない。彼女は不穏を拭い切れぬままに、重々しい口から独り言を漏らす。

「……お父様とお母様。何かを隠してる気がする。あたしに言えない何かを」

 そんなシルクの心中など理解に及ばず、ワンコーは繰り返し首を捻るばかりであった。

「それより、ワンコー。あたしのこと捜していたみたいだけど?」

「ああ、そうだワン。国王様から伝言を受け取っていたんだワン」

「お父様から?」

 ワンコーが国王から授かったその伝言とは、王国王女にとって大切な使命を申し付けるが故、落ち着いてからでよいので、もう一度、国王の間に来訪してほしい、といったものだった。

 王国王女にとって大切な使命――。これまでに聞いたことのない、その穏やかとも感じられない言葉に、怪訝な表情を浮かべるシルク。

 そう……。彼女は俯き加減でポツリと囁く。

 思いがけないことばかりで、靄がかかったように視野が狭くなっていた彼女。それでも、このもやもやした気分を少しでも振り払おうと、彼女は意を決して振り返り、テラスの手すりに背を向ける。

「これから行くのかワン?」

「ええ。大切な使命のことが気になるから」

 テラスを離れようとするシルクの足元に、ぴったりと白い体毛をくっつけるワンコー。

「……何してるの?」

「オイラもお供するワン」

 そこまで子供じゃないと、シルクが出しゃばりの愛犬の付き添いをやんわりと拒否するも、彼の方はお供する気満々である。それには、それ相応の理由があったからだ。

「そうはいかないワン。だって国王様、オイラも一緒に来てくれって言ってたんだワン」

「え?」

 シルクは目を見開いて驚いた。もちろんワンコーも、同行するよう命令されてびっくりしたという。

 もう何が何だかわからず、頭の中がどんどん迷走していくシルク。そして、お供のワンコー。

 いったい、何が待っているというの? 彼女たちは心音の動きを速めつつ、その答えが待っているであろう国王の間に足を向けるのだった。



 国王の間には、いつにない緊迫感が漂っていた。

 険しい顔つきを差し向ける国王と王妃。そして、懐疑的な表情で身構える王女とそのお供。

 会話ではなく、目線というコミュニケーションで向き合う親子三人。まるで、お互いの腹の中を探り合っているかのようだ。

 肌を切り裂くような、刺々しい気流が辺りに充満していく中、口火を切ったのは、口元に真っ白なひげを生やした、冷静沈着を振る舞おうとする国王だ。

「シルク。おまえは先日、十五歳の誕生日を迎えた」

 十五歳の記念に贈られた、シルクの耳にぶら下がるシルバーのイヤリング。

 煌めきを放つはずのそのイヤリングは、まるで今の彼女の心情を示すかのように、銀色の輝きを失っていた。

「我がパール国王家ではな、王女が十五の齢(よわい)を迎えた暁には、守護の神である、神聖なる天神から洗礼を受けねばならない習わしがあるのだ」

「習わし、ですか……」

 そんな習わしなど初めて聞いた、といった顔で、シルクはその洗礼の詳細を問う。

「洗礼とは、いったいどのようなものなのですか?」

 落ち着きをなくしている王女に、国王は険しい顔つきのまま話を続ける。

「おまえは知らぬと思うが、この城の地下深くには”あかずの間”と呼ばれる、立ち入ることを禁じた区域があるのだ。おまえには、そこにある神の祭壇に赴いてもらうことになる」

 先祖代々の王家より、近寄ることも、立ち入ることも禁忌されてきた”あかずの間”。

 その謎めいた部屋があるという、静寂に包まれたパール城の地下通路は、王国兵士たちが厳重に警護しているせいか、長らくお城で暮らすシルクでも、一度も足を踏み入れたことがなかった。

 まさに寝耳の水だった彼女にとって、それはあまりにも現実味がなく、恐怖という印象だけが胸の中に深く刻まれる。

 パール王国の王女である限り、定められた宿命のままに、シルクは神の洗礼を受ける義務を背負っているという。それがどんなに理不尽に思えても、覆しようのない王家の仕来たりなのであった。

 彼女は王女でありながらも、一人のか弱い少女でもある。危険極まりない区域に行くことに、抵抗がないと言ったら嘘になるだろう。

「お待ちください。前触れすらないままに、あかずの間へ遣わすこと、さらに、封印されているそんな区域に神の祭壇があるなんて、おかしくはありませんか?」

 国王は瞬時に全身を硬直させる。シルクの指摘があまりにも理にかなっているからだ。

 咳払いをして押し黙ってしまった彼に代わり、平静を装うとする王妃が紅をさした唇を動かす。

「あかずの間はもともと、神のご加護を授かる教会の役割を果たしていたの。わたくしたち王家は、神のお告げにより、祭壇への無闇な立ち入りをしないよう仰せつかっていたのよ」

 神聖なる神の祭壇への開放は、王家の仕来たりである洗礼の時のみと定められていた。そして今、シルクが洗礼を受けるために、あかずの間の入口を解き放つ、まさにその時がやってきたのだという。

 王妃から、それこそ理にかなった説明で説得されてしまったシルクは、もう抵抗を口にする術を失い、洗礼を受けるという使命から逃れることができない。

 それでも彼女は、幼い頃からの英才教育で得た英知、さらに、剣術で鍛え抜いた度胸と忍耐を持ち合わせている。気持ちこそ臆していても、それを断じて声に表すことはなかった。

「わかりました。それであたしは、その神の祭壇で何をしたらよいのですか?」

 シルクが毅然としたまま尋ねると、国王は合図するように、横隣りで控えていた王妃に目配せをする。

 その合図を受けた王妃は、王室宝物庫から兵士に運ばせたという宝箱のふたを開くなり、美しく宝飾された鞘付きの剣を取り出した。

 王妃はまるで託すかのごとく、鞘に収まったままの美しい剣をシルクにそっと手渡す。

「これはパール王国が代々受け継いできた名剣、スウォード・パールです。あなたはこれを祭壇に捧げて、守護の神から大いなる祝福を受けるのです」

 シルクの両手の中にある名剣。それは見た目よりも軽量で、女の子の彼女でも軽々と振れる業物だ。

 国王と王妃の了解を得てから、彼女はゆっくりと剣を鞘から抜いてみた。

 それは鏡のように磨き上げられた刀身と、神々しく研ぎ澄まされた両刃を持つ、スラリと細く伸びた西洋型の剣であった。

 お互いを引き寄せているのか、小粒な宝石で散りばめられた柄が、シルクの手のひらにぴったりと相性よく馴染んでいた。

「あたしはこの剣を用いて、神の祭壇にて、神の洗礼を受けるだけでよいのですね?」

 シルクは悲壮なる覚悟を決めて、光り輝くスウォード・パールを鞘に仕舞い込んだ。

「そうだ。あかずの間だからといって恐れることはない。王国王女の一人として、これからの栄えある将来の誓いを立てるべく、神のご加護を授かると思えばよいのだ。それに、赴くのはおまえ一人だけではない」

 国王はそう告げると、シルクの横で他人事のような顔をするワンコーを見つめた。

「ワンコー。おまえもあかずの間へ行き、その身をもってシルクを守るのだ」

「オ、オイラがですかワン!?」

 思ってもみなかったことだったのか、ワンコーは腰を抜かしそうなほどに驚いた。

 シルクの愛犬であり、お供でもある彼が、彼女と一緒にここへ呼び出された理由はここにあったようだ。

「何、それほど怖がることではない。あかずの間は暗闇の部屋ではあるが、物の怪といったものが存在するわけではない」

 奇々怪々はなくとも、朽ち果てた壁や床、倒壊する恐れのある収納棚があるため、あくまでも用心するという観点での、いわゆるボディーガード的な役割が近いとのこと。

 国王からのほぼ強制的な言い付けにより、ワンコーは泣く泣く、シルクの神の洗礼に同行する羽目となった。

「シルク。本来であれば、いくら洗礼とはいえ、おまえをあかずの間に遣わすなんてことはしたくない。だが、これも神からのお告げである以上、わしたちは従わねばならんのだ」

「わたくしたち王国の民は、遠いいにしえの時代より、神のご加護を授かってきたわ。それこそ、神に背くことになれば、天変地異なる災難を呼ぶことになるでしょう」

 逃れられない定めを悔いて、悲しみの視線を下へと落とす国王と王妃の表情は、絶望の淵にいるかのように苦痛に満ちている。

 シルクはこの時、両親がつい先ほど、あれほどまでに苦しんでいたわけを悟った気がした。きっと、愛娘の呪われた宿命を悲観し、それを自分のことのように悲しんでくれていたのだろう、と。

 緊張なる洗礼を前にして、シルクの心は少しばかり救われた。

 誇り高き両親の信頼と愛情を感じて、彼女の不信感も少しずつ薄らいでいった。

(……己の保身ために、わしはとんでもない過ちを犯してしまった)

 父親である国王が嘆かわしく呟いた言葉――。

 その言葉に違和感こそ覚えていたものの、それでもシルクは両親の優しさと心遣いに感謝した。それに応えるために、あかずの間にて、しっかりと神のご加護を受けることをここに誓うのだった。

「お父様、お母様。あたしは王国の誇りある王女として、お言い付け通り、あかずの間で洗礼を受けて参ります」

 勇ましくそう宣言するシルクを見て、安堵したのか胸を撫で下ろした国王と王妃。

「わしたちは安心しておる。おまえは知恵も剣術も人並み以上の力を秘めている。きっと、訪れる困難や試練を乗り越えられるはずだ」

「シルク。必ず無事に戻ってらっしゃいね。ここへ戻ってきた時には、城に務める皆を集めて、盛大なパーティーを開催するわ」

 国王と王妃の二人は両親らしく、シルクのことを愛情一杯に励ました。それは未知なる領域へと出掛ける娘を危惧し、哀れむ心情を表しているように見えなくもなかった。

 あかずの間の入口の鍵を手にしたシルクは、神の祭壇に捧げる王国伝承の名剣を腰に下げて、血気盛んに出発する決意を表明した。

 お供兼ボディーガードのワンコーと一緒に、威風堂々と国王の間を後にする彼女。

 父親である国王は項垂れて、母親である王妃の手を握り締めたまま、勇敢で逞しい娘の後ろ姿を忸怩たる思いで見守り続けていた。

(すまん、シルク……。王国の民のため、我が王家のためなのだ。どうか、わしたちを許しておくれ)



 神の祭壇が祭られているという、城内地下の奥でひっそりと眠るあかずの間。

 その地で神の洗礼を受ける使命を背負った一人の王女は、まさに冒険に旅立つような不安を胸に、自分の部屋まで戻ってきていた。

 シルクはクローゼットから一着の武闘着を取り出した。

 傷を負いにくい特殊な繊維で洋裁された、ピンク色が鮮やかなその武闘着は、彼女が二年前、パール城主催の剣術大会に参加した時に着衣したものだ。

 ちなみに、その剣術大会での彼女の成績は、主催者側の王家からの参加であったが故に、順位こそ付かなかったものの、優勝候補の中級クラスの兵士を打ち負かすほどの腕前を披露した。

「まさか、こういうきっかけで、これを着ることになるなんて」

 シルクはもちろん、これから闘いに赴くわけではない。それでも、丈夫のわりに軽量でフィット感のある、思い入れの強いこの武闘着を選んだのは、それなりのわけがあった。

 それは虫の知らせというやつか。彼女はこのたびの使命に、怪しく不気味な悪寒を感じ取っていた。

 警戒を強めて用心するに越したことはない。彼女はそう思い立ち、武闘着に袖を通しながら気持ちを奮い立たせていた。

 武闘着を身に纏い、名剣スウォード・パールを腰に従えて、ふんわりボブヘアを丁寧に整えたシルク。国王王女の証しであるシルバーのイヤリングも装飾し、出発する準備は万端のようだ。

 意気揚々と部屋のドアを開け放つと、彼女の身支度が終わるのを待ち焦がれていたワンコーが、呆れ果てた顔でポツンと佇んでいた。

「遅いワン。姫はいつも支度に時間がかかるワン」

「あのね、あたしは年頃の女の子なの。身支度に時間がかかるのは当然でしょう?」

「薄暗~いところへ出掛けるのに、どうしておめかしするのかわからないワン」

 ワンコーはオスであるがために、年頃の少女の女心だけはどうにも理解し難かったようだ。


 忘れ物がないことを入念に確かめ合ったシルクとワンコーは、いざ、城内地下通路を目指して、二階の廊下を下って一階大広間ロビーへ向かう。

 階段を下りていくその途中も、彼女たちはいつもと変わらない雑談をしていたが、心ここに有らずか、シルクもワンコーも意識はすでに、地下通路の奥にあるという”あかずの間”に飛んでいた。

「あかずの間って、いったいどんなところなんだワン? オイラたちが封印を解いちゃって大丈夫なのかワン? ユーレイとか、ゴーストとか本当にいないのかワン?」

 臆病者のワンコーに至っては、声を震わせながら矢継ぎ早に質問してくる始末だった。

 一方のシルクにしても、人生初めての経験でもあり、しかも、両親からも詳しく聞かされていないだけに、悩ましい表情を突っ返すしかなかった。

「うるさいな、もう。あたしにだって、どんなところかなんてわからないよ。あなたね、あたしの護衛なんだから、もう少しちゃんとしなさいよ」

 ご主人様から諌められて、しゅんとしてしまう愛犬の姿は、情けないもののちょっとだけ微笑ましい。

 どうやら、剣術に長けているシルクの方が、ワンコーの護衛という構図が出掛ける前から出来上がってしまったようだ。


 大広間ロビーまで辿り着いたシルクたち。

 彼女たちは真紅の絨毯の上を越えて、国王の間へ繋がる階段の裏手にある、地下通路への入口ゲートまでやってきた。

 そのゲートの前を警護している、黒光りする甲冑をまとった上級クラスの王国兵士たち。それだけこの先にあるものが、厳重に入場制限をしなければいけない危険区域であることを示していた。

 国王からすでに情報が伝わっていたらしく、王国兵士たちは敬礼をしながら、ゲートの前から機敏な動きで立ち退いた。兜で顔を隠した彼らの表情を窺い知ることはできない。

「姫様、こちらよりお進みください」

 鋼鉄製のゲートが軋みながら開くと、その奥には、地下通路へ結ばれた梯子のような階段が待っていた。

 漂ってくる不穏な物々しさに、緊張の生唾をゴクリと呑み込んだシルクたち。

「いくよ、ワンコー」

「……ワン」

 シルクが先頭となって、重みで切れそうな縄製の梯子を、ゆっくりと慎重に下りていく。

 彼女たちの行き着く地下はまさに真っ暗闇。シルクもワンコーも、その暗闇の中に溶け込み、ただならぬ緊迫感に囚われていった。


 梯子に手を掛けてから数分後。シルクとワンコーは地下通路の入口に降り立った。

 そこは地下という名の通り、太陽の光が届かない闇夜のような世界。雑踏も喧噪も届かない、異空間のような世界だ。

 風通しが悪いせいか、通路内は異様なほどに生暖かくて湿っぽく、カビ臭さが鼻につく。

 シルクはロウソクに火を灯す。すると、地下通路の輪郭がぼんやりと映し出される。

 暗くてはっきりとは見えないが、この通路は茶色い土製の煉瓦で覆われており、蛇行することなく真っ直ぐに伸びていた。

「どうやらここ、一本道みたいだね」

「姫、早く行こうワン。こんなところでじっとしていたくないワン」

 シルクとワンコーはぴったりと寄り添い合い、静寂に包まれる通路を歩き出す。

 一歩、また一歩と足を床に置くたびに、足音がまるでリズム感のない音色のように反響していく。

 狭苦しい空間にいるせいだろうか、進んでいくうちに、周囲が狭窄している感覚に陥ってしまう。

 前進しても闇、後退しても闇。神経が狂いそうになる中、シルクたちは息を潜めつつ前へ前へと突き進んでいった。

「姫、きっとあそこだワン」

 シルクたちの前に立ちはだかったのは、朽ちてもなお、存在感を残したままの木製の扉だった。

 日が当たらないせいか腐食しかかっているその扉は、飾り付けの金具が牙のように剥き出して、今にも彼女たちを飲み込まんとしているようだ。

 来訪者の立ち入りを拒んでいるのか、”ここはあかずの間 立ち入ることを禁ず”と殴り書きされた看板が、扉の近くにひっそりと立てかけてあった。

 間違いない――。ここがシルクが洗礼を受けることになる、あかずの間であろう。

「……さ、さすがに目の前まで来ると、ちょ、ちょっと怖いわね」

「……ひ、姫も、やっぱり怖がりなんだワン」

 シルクとワンコーは恐怖心に身を縮こまらせる。それほどまでに、あかずの間の扉から漂う威圧感に圧倒されていたのだろう。

「よし、ワンコー。扉を開けてちょうだい」

 シルクはそう言いながら、怯えきっているワンコーに真ちゅう製の鍵を差し出した。

 その鍵を凝視ながら、呆然としているワンコー。

「オ、オイラが開けるのかワン?」

「当たり前じゃない。こういう時は、お供がそういう役目なのよ」

 ワンコーは両方の前足をバタバタと振って拒絶を示した。

「姫、それは横暴だワン! ここは洗礼を受ける姫が開けるべきだワン」

「い、嫌だよ、そんなの! あなた、まさか、ご主人様の命令に従えないというの?」

「そ、それはないワン。こういう時ばかりお供に辛いことばかりさせて、職権乱用だワン!」

 あかずの間の入口の前で騒ぎ始める一人の少女と犬が一匹。

 恐れをなした彼女たちに、もう勇気も責任感もあったものではない。実際に子供ではあるが、子供じみた口論が真っ暗闇の中に虚しく響いている。

 しばらく言い争った結果、あかずの間の扉を開ける羽目となったのは、ご主人様のシルクの方だった。なぜかというと、犬であるワンコーの背丈では、鍵穴に前足が届かなったという下らないオチである。

「いい、開けるわよ?」

 シルクは震える右手で鍵を持ち、左手で持ったロウソクの明かりで鍵穴を照らす。

 そっと鍵穴に鍵を差し込もうとする彼女の後ろで、ワンコーは身を縮めてブルブル震えている。

 鍵を持つ右手が震えているせいか、真ちゅう製の小さな鍵は、なかなか鍵穴へと吸い込まれてはくれない。

「……ふぅ、ダメだ。ちょっと深呼吸させて」

 シルクはいったん仕切り直そうと、姿勢を伸ばして深呼吸をした。

 なぜか、ワンコーもそれに倣って深呼吸をしてしまう。

 さあ、今度こそ……。彼女は勇気を振り絞って、もう一度鍵穴に鍵を差し伸べる。

 ゆっくりと……。ゆっくりと……。小刻みに震える鍵が鍵穴へと近づいていく。

 そして……。小さな鍵の先端が、丸く象られた鍵穴に滑らかに吸い込まれた。

「えっ――!」

 それは驚愕の出来事だった。

 シルクの意思とは裏腹に、差し込まれた鍵が独りでに回り始めて、その直後、カチっといった金属音が鳴り、自動的にロックが解除されてしまったのだ。

 しかも驚くのはそれだけではない。

 施錠を解かれた大きな扉は、まるで生きているかのごとく勝手に動き出し、隠されてきたその全貌を、シルクたちの目の前にさらけ出したのだ。

 あかずの間は数十年という長い年月を経て、ついに、今ここに開放されたのである。

「…………」

 シルクとワンコーは愕然とし一様に押し黙る。

 彼女たちが見据えるあかずの間の室内には、本当に神の祭壇は存在するのだろうか?

 どんなに目を凝らしても、そこは真っ黒な気配だけが覆い尽くしており、ここから何があるのか窺い知ることはできない。

「行ってみましょう」

「やっぱり、行かなきゃダメかワン?」

 力いっぱいの勇気を振り絞り、シルクは怖気づいたワンコーの前足を握ったまま、異空間のようなさらなる暗闇の中へと足を踏み入れた。


 ロウソクの明かりに照らされた室内は、まさに廃墟のような様相であった。

 ひび割れている壁や穴だらけの床、木製の椅子や棚が倒壊しており、至るところに聖書らしき本や紙切れが散乱している。

 母親である王妃が言っていた通り、ここはかつて、神に祈りを捧げる教会の役割を果たしていたようだ。

 数十年間も閉ざされてきたであろうあかずの間。この凄惨な荒れ果てように、シルクとワンコーは戦慄のあまり絶句するしかなかった。

「……ここが教会だったら、神の祭壇はきっと奥にあるってことよね」

 ぼんやりとした視野の中、手探り状態で奥へと進んでいくシルクたち。

 室内に漂う薄気味悪い空気が、彼女たちの足を拘束するように絡みついてくる。まるで、ここから引き返せと警告しているかのごとく。

 それでも、彼女たちは立ち止まることなく、床の穴といった障害物を避けながら前進する。

 奥へ進めば進むほど、圧し掛かる重圧感が増大していくようだった。これにはシルクもワンコーも、不快なほどの胸苦しさを感じてしまう。

 先頭を歩いていたシルク、そして彼女の足元にしがみ付いていたワンコー。そんな彼女たちの薄っすらな視界に、暗がりながらも、祭壇らしき建造物が入り込んだ。

「あ、きっとあれだわ」

「わっ、姫。待ってくれワン!」

 シルクは勢いのままに走り出してしまう。

 ワンコーはそのせいで置いてけぼりを食らってしまう。

 その時、彼の姿がフッと消えてしまったことに、彼女は気付くことはなかった。


 埃まみれの十字架を掲げて、アーチ状の構造をしたその祭壇は、このあかずの間の奥深くで死んでしまったかのように佇んでいた。

 ここが教会として機能していた頃のものだろう。燃え尽きたロウソクは焼けただれて、飾られていた草花はすっかり枯れ果てて、生血を失ったミイラと化していた。

 まるで神からも見放されてしまったような祭壇。このみすぼらしさと痛み具合、これはどう見ても、数十年どころか数百年以上も放置されていたとしか思えない。

 荒廃した神の祭壇を目の当りにし、シルクの頭の中に拭い切れない疑念が浮かんだ。

「ここで洗礼だなんて。やっぱりおかしいわ」

 いくら長年封印されてきたとはいえ、いにしえの時代より仕来たりで崇拝されてきたこの祭壇まで、これほど廃れているのはどうにも腑に落ちない。

 ここまでの道中にも、洗礼そのものを不安視していたシルクは、この時、ある結論に辿り着く。

(これはもしかして、お父様とお母様が、あたしを怖がらせるために仕組んだこと? それとも、恐怖心に打ち勝つための試練だったというの……?)

 思い巡らせていくうちに、シルクは沸々と怒りが込み上げてきた。

 その怒りの矛先こそ、神の洗礼というわざとらしい理由を付けて、こんなに暗くて埃っぽいところに遣わせた、両親である国王と王妃であった。

「お父様もお母様もひどいわ! あたしに王国王女の風格がないからといって、こんな仕打ちをするなんて」

 シルクは悔しさのあまり、砂埃を巻き上げながら地団駄を踏んでいる。

「頭に来たわ。こうなったらお父様たちに文句を言いに行かなきゃ。さあ行くわよ、ワンコー!」

 静まり返った真っ暗な室内に響き渡るシルクの呼び声。ところが、返ってくるのは無音という返事だけ。

 彼女が不審に思い周囲を見渡すと、そばにいるはずのワンコーの姿がどこにもない。

 いつの間にか彼女は、暗黒の空間の中で独りぼっちになってしまった。

「……ねぇ、ワンコー? どこにいるのぉ?」

 恐怖と不安に駆られながら、恐る恐るお供の名を呼び続けるシルク。しかし返ってくるのは、虚しくも、彼女自身のこだまだけであった。

「ちょ、ちょっとぉ~、まさか、ワンコーまでお父様とグルになって、あたしのこと怖がらそうとしてるのぉ?」

 シルクは涙目になって、行方不明のワンコーのことを捜し続ける。

 いつも呆れることばかりして、疎ましく思えることが多くても、それでも、大切で頼りがいのある愛犬であることに変わりはない。

 これが悪戯でも怒ったりしないから、早く出てきて……。そんな彼女の切実な懇願にも、この室内からは、犬の遠吠えも物音すらも聞こえてこなかった。

 時も流れてゆき、ロウソクの火が弱まるにつれ、闇の中に一人残された彼女の孤独感は、言葉では言い表せないぐらい大きくなる。

 頭の中がパニック状態に陥ってしまったシルク。

 彼女はそのせいで、足元に忍び寄っていた、さらに大きい暗黒空間が待っていることに気付くことができなかった。

「えっ――?」

 シルクは吸い込まれるように、その暗黒空間へと取り込まれていった。

 凄まじい速さで落下していく感触に、彼女はいつしか意識を失っていた。

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