12 おっさんの臨界点
エドワードの呼吸が落ち着く頃にはチビとベリルも彼に寄り添って眠ってしまっていた。碧はタオルを濡らして身体を拭いたり、背中や腕に響かないように寝返りをうたせたりと中々の重労働を1人頑張っていた。その甲斐あってか、日が傾く頃にはエドワードの顔色は随分よくなっていた。
「晩御飯どうしようか……」
そろそろ男も帰って来るだろう。エドワードには何か血になるものを食べさせた方がいいのだろうか。もしくは体力を消費しないような消化にいいものの方がいいのだろうか。保存庫の中身も思い起こしつつ、碧は頭を悩ませる。
そんな思考に割り込んだのは、ノック音だった。ぞわりと悪寒が駆け抜け、総毛立つ。思わずその場に倒れるように崩れ落ちた。
「アクア様! おられますか!? 緊急事態です、ご協力を!!」
――気持ち悪い。うつむいた視界の中で、床にまだら模様が描かれるのを吐き気を堪えながら見ていた。ノックの音は止まない。
「王都に魔族が現われました! グラン団長が交戦しましたが仕留めきれず……なにとぞご助力を!」
耳の中で血管が波打ったような気がした。同時に理解する。彼らがエドワードを傷つけた人たちなのだと。ソファで眠るエドワードはこんな喧騒の中でも目を覚ましそうにない。チビとベリルはエドワードにくっついて縮こまっている。
帰ってもらおうにも玄関を開けて対応すれば、リビングは丸見えだ。碧1人ではエドワードの巨躯を2階に運ぶことも出来ない。ひたすら息を殺して彼らが立ち去るのを待つしかなかった。
そして不意に、ノック音が途絶える。チビがぴんと耳を立てた。
「人んちの前で何やってるの?」
一瞬碧は誰の声かわからなかった。重く、温度の無い声は普段聞いていたものと違いすぎていた。それは玄関前に集まっていた騎士たちも同じだったらしい。誰も声を発せずに、沈黙が漂う。
「何してるの?」
男は同じ問いを繰り返す。誰も応えない。男は顔をしかめると、扉をノックしていた騎士を押しのけた。たたらを踏む騎士を気にも留めずにさっさと家の中へと入ってしまう。施錠をすると、大きく溜息を吐いた。
「お、おじさん……っ!」
碧の声に男は顔を上げた。泣きそうな表情が見える。その傍らで、怯えて身体を縮こまらせているチビとベリル。そして――ソファに身体を沈めている、真っ赤な包帯が巻かれた親友の姿。
「アクア様、なにとぞご助力を! 手負いの魔族が野放しになっているのです! 何をしでかすかわかりません! 弱っている内に仕留めてしまわねば――」
木製の扉と金属の蝶番が悲鳴を上げた。その前で声を張り上げていた騎士の1人が、弾き飛ばされて転がっていく。騎士たちの視線がそちらを向いている内に、男は一歩外へ出て半壊した扉を力任せに閉めた。
「……ッあ、アクア様、何を――」
震える問いに応える声は無い。男は無様に転がった騎士と、その周りを囲む騎士たちをただ、見ていた。それでもその場にいた者の言葉を喉に詰まらせるには充分だったらしい。
「……で、何の用なんだっけ?」
冷え冷えとした空気がその場を支配していた。
「っ、で、ですから……っ、魔族の討伐に、ご助力を……ッ」
「何で?」
「な、何でって……」
誰にも男の思考は理解できないだろう。男が彼らに向ける視線の意味だって、わからないだろう。
「放っておいては町に被害が出るかもしれないでしょう!?」
いかにも正義感の強い人の言い分だった。だが、男は鼻で笑う。
「知らないよ。俺はもう、ノア王国とは関係ない――これも返すよ」
男はそう言うと抱えたままだった木箱を騎士の足元へと投げつける。衝撃に耐えられなかった木箱は弾けるように壊れ、黒い大剣が投げ出される。騎士は目を見開く。
「アクア様、正気ですか!? それに、王国とはもう関係ないとは……?」
「言葉通りだよ。もう、うんざりなんだ」
男は代表らしき騎士へと歩み寄ると、その肩を軽く掴んだ。鎧越しだと言うのに、その肩が大きく跳ねる。
「俺のこと何も知らないくせにね。自分たちの都合のいいようにでっち上げてさぁ……迷惑なんだよ」
「あ、う゛ぁ……!」
苦悶の声と金属が軋む音が同時に鳴る。男の手の中で、鎧がひしゃげていく。
「ヒューマーを護ってきた? 笑わせないでくれる? 俺はお前らなんか護ってるつもりこれっぽちもなかったよ」
「あ、あぁッ? うわぁああああッ!!」
騎士はとうとう悲鳴を上げて男の手を振りほどいた。くっきりと手形に歪んだ鎧に、恐怖したのだろう。がたがたと震える騎士を支える者も同じように震えていた。男は表情を変えないまま、口元だけで笑って見せた。
「別にどう思われてようと良かったよ、それでお前らが勝手に心安らかに過ごせるんなら。でも、こちら側の領域を犯そうとするんなら話は別だ」
男は腰の剣を抜いた。波を引くように騎士たちが後ずさる。
「俺はさ、本当はすごく怒りっぽいんだ。自分で自覚してる。どうしようもないんだよ。だから、なるべく怒らないで済むように努力してたんだ」
唐突にそんな話をする男に呆気に取られながらも、騎士たちは動けずにいた。抜刀した大剣を身体の横にぶら下げたまま、男は言葉を続ける。
「自分でラインを決めてるんだ。ここまでなら怒らないでおこうって。どんな事にも耐えるし何をされても許すって。あぁでももう駄目だ。お前らは境界線を越えるどころか――俺の内側を踏み荒らした」
刃先が滑るように移動する。切っ先は真っ直ぐに、騎士たちの方へ。
「知らなかったんだもんな仕方ない。仕方ないけど俺は許せない。沸点を超えるともうどうしようもないんだ。俺自身にもどうしようもない。そういう性質なんだ」
つらつらと饒舌に回る舌は騎士たちをただ怯えさせるだけだ。鎧も剣も、男の前では紙っぺら同然だった。何の安心感も与えてくれない、無意味なものになり果てていた。
「気に病むことなんか1つもない。きっとお前らが普通なんだ」
男が一歩、踏み出す。
「危ないとは思ってた。もっと早めに離れなきゃいけなかったんだ。それは俺の判断ミスだった。認めるよ。間違えたのは俺だ。それでも――もう我慢できない」
地面に落ちていた小石が重厚なブーツに踏み砕かれる。ばきりと悲鳴を上げて、男の足の下で砂になっていく。それはきっと、自分たちの末路なのだろう。冷えた声は一層冷たく心臓を握り締める。
「なぁどうしたんだ? 何で逃げない。さっきから俺は気を散らすのに必死なんだよ。人殺しなんてしなくて済むんならその方が良いに決まってる。早く逃げろよ。お前ら死にたいわけじゃないんだろう?」
男が長い息を吐く。煌々と炎の揺らめく瞳で騎士たちを見下ろし、最終警告を放り投げた。
「ほら、早く」
放射された男の怒りは質量すら持って騎士たちを殴りつけた。弾かれるように馬に向かって走り出す。男の脚が無意識のままそれを追おうとした、その時だった。
「おじさん……?」
柔らかい声が男の脚を掴んだ。ぴたりと止まった男がゆっくりと後ろを振り返る。燃えるような瞳に射抜かれ、碧はびくりと震える。
男は黙ったまま、再び騎士たちの方へと向き直った。馬が怯えて、手綱が上手くさばけていないようだ。何をやっているんだ、とぼんやり思う。さっさと逃げてくれれば、自分は殺人者にならなくて済んだのに。
「あ、あの……っ」
小さな小さな力がコートをたぐった。耳の中で血管が暴れる音に混じって声が聞こえる。何故、自分は脚を止めているんだろう。そんな疑問が湧き上がると共に馬の鳴き声が響く。
「あ……」
暴れる馬を何とかなだめ、騎士たちが手綱を繰る。直ぐに男に背を向け、駆けていくのが見える。
「おじさん……」
また、小さな声が呼ぶ。小さな力が男の手を引く。男はゆっくりと、振り返った。
「大丈夫、で――ッ!?」
震える声を発する小さな存在を、衝動的に掻き抱いた。小さな肩に額を埋めて、大きく息をする。全身の血液が煮えたぎるように熱いのに、手先だけが冷え切っていた。
「おじさん?」
応える代わりに背に回していた手に少しだけ力を込めた。柔い身体を壊さないようにしていると、腹の底がすぅっと冷えていく。ぽんぽんと背中を叩かれれば、胸を破らんばかりに轟いていた鼓動もゆっくりと速度を下げていった。
「エディ、は……?」
「あっ、えっと、治療は一応。あのっ、おじさんも見てあげてください」
「ん」
男は短く応えると碧から身体を離した。そのまま碧の背を押しつつ家の中へと入る。チビが尻尾を振りながら出迎えるのを見て、男はようやく強張っていた身体から力を抜いた。膝をついてチビの頭を撫でてやる。
「エディ……」
エドワードは変わらず眠っていた。よく見れば肘掛に置かれた左手は上腕の半分ほど先が無い。どっと心臓が音を鳴らした。
「背中の方の血は止まったみたいなんですけど、腕が……」
泣きそうな声が鼓膜を揺らし、男の意識を現実へと呼び戻した。男はソファの近くに膝を着くとエドワードの身体を傷に響かないよう、細心の注意を払って持ち上げる。
「とにかくベッドに運ぼう。おっさんの部屋に行くから、救急箱持って一緒に来て。チビは保管庫からミルラとヤロウ、後蜜蝋取ってきて。ベリルはすり鉢と乳棒、頼んだ」
チビが一声鳴いて保管庫へと走っていく。ベリルも大きく羽ばたいてキッチンの方へ向かっていった。男は碧の後について2階へと上がる。エドワードを男のベッドに寝かせたところでチビとベリルがそれぞれ頼まれたものを持って上がってきた。
男は2匹の頭を撫でて品物を受け取ると、直ぐに作業を始めた。チビが持ってきた2種の薬草をすり鉢で擦り混ぜる。そこに蜜蝋を加えて滑らかになるまで練れば軟膏の出来上がりだ。男はすり鉢をベッドサイドに置くと、エドワードの頬を軽く叩く。
「エディ、エディ、聞こえるか?」
「……あー」
不明瞭な呻きが返り、瞼が震える。男が尚も声をかけると、うっすらとだが、瞼が上がった。
「よぉ……」
翠の瞳が男を捕らえ、笑う。
「ごめんね、起こして。今から相当痛いことするから、歯ぁ食いしばっててね」
「……おー」
男はエドワードにタオルを渡した。エドワードがそれを受け取って噛み締めたのを確認すると、救急箱から新しい包帯とガーゼを取り出した。
「エドワードさんの手、握ってましょうか?」
少しでも気が紛れるならと碧はそう提案したが、男は首を横に振った。
「多分手加減出来ないから骨持ってかれるよ。碧ちゃんはおっさんのお手伝いお願い」
そう言うと包帯を渡し、エドワードの腕に巻かれた包帯を外し始める。最後に傷口を覆っていたガーゼを取ると、にちゃりと固まりかけた血液が糸を引いた。
「ぐっ、ぅ……!」
男は傷口の周りの血を拭きとると、作ったばかり軟膏をガーゼにつけた。それを素早く傷口にかぶせる。
「碧ちゃん、包帯!」
「は、はい!」
慌てて男に包帯を渡せば、エドワードが目を見開いた。苦悶の声がくぐもる。反射で手を引っ込めようとしているのか、それを抑えている男の腕に血管が浮かび上がる。何とか包帯を巻き終え、男はそっと手を離した。エドワードも咥えていたタオルを吐き出し、荒い息を整える。
「これ暫く日に1回するからね」
「地獄かよ……」
エドワードは息も絶え絶えにそう呟いた。そうして、うつ伏せから横向きに体勢を変える。
「……悪ぃ、色々バレた。俺もう、しばらくここじゃ生活出来ねぇ」
「うん、知ってる」
こっちこそごめんね、と男は眉を下げた。
「あー……そうだ、モリオン、について……1個、わかったことあんだ、けど……」
エドワードの瞼がとろりと落ちる。荒い息が深い呼吸へと変わっていく。
「起きてからでいいよ、とにかく休んで……起きたら何食べたい?」
「何か、胃に……優しいヤツ」
エドワードはそれだけ言い残すと目を閉じた。男はエドワードの不揃いな長さになった髪を一度だけすくと、立ち上がる。
「碧ちゃん」
「あ、はい!」
ただならぬ様子の男に思わず返事に力が入る。男はくすりと笑って、碧に向き直った。
「あんがとね」
「え……?」
ぽす、と頭に大きな手が乗った。そのまま撫でられ、碧は不思議そうに男を見上げる。
「さっき、止めてくれて」
あ、と意味のない音が漏れた。
「おっさん、あぁなるとほんとに自分でもどうしようもないんだ……隠しててごめんね?」
離れていった手が男の顔を覆い隠した。
「物心ついた時からそうだったんだ。だからなるべく自制してたんだけどね。爆発するともうダメなんだよ」
指の隙間からぎょろりと青い目が覗く。さっきのことを思い出しているのか、仄暗い炎が揺らめいていた。
「アオイちゃんが止めてくれなきゃ、きっとあいつらのこと……殺してたと思うから」
「いえ……お力になれたんなら、良かったです」
碧はそう言って微笑んだ。男も瞳に灯った炎を掻き消す。
「それに……これから少し、生き辛くなるかもしれない」
逃げ帰っていった騎士たちは今回のことを報告するだろう。どんな風に伝わるかはわからないが、十中八九これまでのように生活することは出来ないはずだ。エドワードを匿っていることがばれていないのがせめてもの救いだった。だが、それもきっと時間の問題だ。
「近いうちに引っ越すことにもなると思う……本当にごめんね、おっさんがキレちゃったから……」
「そんな……大丈夫ですよ。元々お世話になってる身ですし――それに」
本当は少し、羨ましかった。
そんな思いは、言葉にならずに碧の喉の奥に呑み込まれていった。
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