13 おっさんの支え

 その日碧は眠れなかった。目を閉じるとエドワードの腕の断面が頭の中に浮かんでくる。何度も何度も脳裏をよぎっては碧の意識を現実に繋ぎとめてしまう。碧は結局寝るのを諦め、ベッドに腰かけた。


 視線を向けた先ではベリルがとまり木の上でうとうとと船をこいでいる。うらやましいと思うと同時に、今日の記憶が延々と巡る思考回路に嫌気がさす。


 嫌なこと、怖かったことを碧は決して忘れることが出来ない。ふとした拍子に思い出しては自己嫌悪やら恐怖やらに苛まれてしまう。今回のような強烈な記憶だけではない。日常的な些細な事さえ、思い出すたびにおかしな具合に凝り固まっていくのだ。


 ゴムみたいに臭くて硬くて、味わうことなど出来やしない。丸呑みにするしかないから腹はいつでも膨れていた。だから、少し、うらやましいと思った。


「すごかったな……」


 熱すら感じるほどの激しい怒り。質量すら持った確かな殺意。何の遠慮も躊躇もなく吐き出されたそれらを、素直にうらやましいと感じた。本人にとっては厄介な事なのだろうが、自分にはそんなこと出来はしないから。


 それに、あの時。ほんの一瞬に過ぎないあの瞬間にだけでも、碧は男の事を支えていた。すがってきた木の幹のような大きくて硬い腕を思い起こしながら、碧は自分の手のひらを見つめる。比べようもない細い腕、内包する脆弱な精神を体現したかのような貧相な身体。


「……すごかった、な」


 ついさっき呟いたばかりの言葉が転がり落ちる。碧は溜め息を吐くと立ち上がった。考えすぎて喉が渇いてしまった。時計を見れば、短針が2と3の間を指している。流石に男も寝ているだろうと碧は足音を殺して階段を下りた。


 そっとリビングへの扉を開ける。エドワードに自分のベッドを明け渡した男が、ソファで毛布に包まっていた。はみ出た足が肘掛から垂れ下がっているのが見える。チビはその傍らで丸くなっている。碧が降りてきたのに気づいたのか、無意識に鼻先だけふこふこと動かしていた。


 大きさに似合わない愛らしい仕草に声は出さずに笑い、リビングを横切ってキッチンへと向かう。水切りに置かれていたコップに水を組んで飲み干した。コップを軽く洗い、元の位置に戻して振り返ったところで――据わった青の中で瞬きをする己と、目が合った。


「……お水、飲みます?」


 こくりとロマンスグレーの頭が上下した。碧は洗ったばかりのコップに再び水を満たして男へと渡す。こくこくと喉仏が動くのを見るともなしに見ていた。やがてコップを干した男がシンクの方へと手を伸ばしたので、碧は一歩ずれて場所を譲った。少しの水音の後、コン、と軽い音を立ててコップが水切りに戻される。それを合図にするように碧は視線を前に戻した。変わらず表情のない瞳が碧を見下ろしていた。


「眠れなかったんですか?」


「……うん」


 そう答えた男が幾分か幼く見えた。どこか叱られた子供のような雰囲気を漂わせている。泣きそうな子供の慰め方は、知っていた。


「どうぞ」


「……うん?」


 碧は男の前で軽く両腕を広げた。男は目を瞬いたが、直ぐに倒れるように碧の肩に顔をうずめた。近づいてきた頭を撫で、背中をさすると男が笑う気配がした。


「何か、小さい子になった気分」


「妹にもよくこうしていたので」


「……妹、いたんだ」


 はい、と碧が応えた。男は額を押し付けていた肩に今度は顎を乗せて、撫でてくる手を甘受する。


「気が強いから反発しては怒られてましたね。兄ちゃんともよく喧嘩してました」


「お兄ちゃんもいたの!?」


 少し驚いたような男の声に碧も驚く。


「そんな珍しいですかね?」


「や、何か勝手に一人っ子だと思い込んでたからさ。もしくは一番上」


「ふふ、それよく言われました」


 なんででしょうね、と碧が首を傾げる。さらりと流れた髪が男の頬をくすぐった。とん、とん、と鼓動に合わせて背中を叩かれ、男は大きく息を吐く。そうして碧の両肩に手を置くと身体を離した。


「ありがとね、なんかちょっと落ち着いた」


 お返しとばかりに男は碧の髪をくしゃくしゃと撫でて笑う。が、不意にうわっ、と悲鳴を上げて片足を跳ね上げた。


「あぁなんだ、チビか。びっくりした……」


 2人で視線を落とした先には男の足に身体を擦りつけているチビの姿があった。寝ぼけ半分らしく、ぷうぷうと濡れた鼻から寝息が漏れている。男はチビを抱き上げるともう一度碧の頭を撫でた。


「引き留めちゃってごめんね……ほんとに、ありがと」


「いえ、どういたしまして」


 不謹慎かもしれないが、碧は少し嬉しかった。役に立てた気がして、男に少しでも返せた気がして。男がチビをぶら下げてソファへと戻る。


「じゃあ、おやすみ」


「はい、おやすみなさい」


 男がチビと一緒に毛布に潜り込んだのを見届けて、碧はリビングの扉を閉めた。階段を上り、寝室への扉を開ける。途端、待ち構えていたようにベリルが飛びかかってきた。


「お、わ、ちょ……っ」


 慌てて腕を前に突き出して受け止める。ベリルはびいびいと鳴いて何か抗議しているようだった。碧は少し困惑したが、直ぐにその意味に気付く。


「黙って出てってごめんね、喉渇いたから水飲みに降りてただけだよ」


 目を覚ましたら自分がいなかったから心配したのだろう。寝起きに軽いパニックを起こしたのか、抜け落ちた羽が部屋のそこかしこに散らばっていた。ベリルを腕にとまらせたまま、ベッドに腰かける。


 腕を軽く上げるとベリルは大きく羽ばたいてとまり木へと戻っていく。そしてじーっ、とこちらを見つめていた。寝るまで見張っているつもりなのだろう。碧は苦笑してベッドに身体を横たえる。そうしてそのまま、朝になるまでじっと目を閉じていた。


 ――次の日。碧はベリルの鳴き声を聞いて身体を起こした。直ぐに飛んできたベリルが碧の顔を心配そうに覗き込んでくる。


「おはよう、ベリル」


 そう言って顎の下を掻くように撫でてやると、途端にふにゃりと破顔して身体を擦りつけてくる。ひとしきり戯れた後、着替えを済ませて階段を下りた。


「おう、おはよ」


 そう言って軽く片手を上げて見せたのはエドワードだった。ドアを開けた体勢のまま固まる碧。そんな様子を見てエドワードはけたけたと笑いながら、長さの足りない腕を掲げて見せた。ざんばらに切られていた髪も肩の辺りで整えられ、ハーフアップに結い上げられている。


「取り敢えずは元気になってるよ、心配かけてごめんな……後、嫌なモン見せた」


「っいえ、そんな……」


 ベリルに軽くつつかれて解凍された碧は慌てて両手を振った。エドワードは眉を下げて碧の頭を撫でる。


「あ、アオイちゃんおはよう。悪いんだけど、ちょっとこっち来てー」


 遅れて勝手口から顔を出した男が碧を手招く。ベリルがエドワードの方へと飛んでいったので、碧も男の方へと小走りで向かう。男は畑で収穫をしていたらしく、抱えていた籠にはつやつやしたトマトとナスが幾つか入っていた。


「これ小さめに切っといてくれる? ミネストローネにするから」


「わかりました」


 男から籠を受け取り、キッチンへと戻る。エドワードはチビとベリル用の水入れに水を入れていた。その傍らにチビが擦り寄っている。普段は興味なさそうな対応だが、流石に心配なようだ。先の無い手を見上げてすんすんと鼻を鳴らしていた。


「役得かもしれねぇな」


 もふもふの毛皮を堪能しながらエドワードは冗談めかしてそう言った。ベリルの視線が少しとげとげしい気がするが、大丈夫だろうか。


「本当に大丈夫なんですか? 背中の方は……」


「エルフは自己回復能力が高めなんだよ。切り傷ぐらいなら一晩で治る……っつっても、今回の結構深かったから完全回復とまではいかねぇけど」


 動かすと突っ張るらしく、エドワードは時折眉を寄せていた。


「腕の方はまぁ……流石に俺でも生やしたりは無理だな。繋ぐぐらいだったらまだ何とかなったかもしんねぇけど、置いてきちまったし」


 事も無げにそう言いながら余った袖をいじっている。碧が言葉を発せずにいると、エドワードはきまり悪そうに頬をかいた。


「まぁ、何だ。生きてるだけでもラッキーだったよ……ありがとな、見つけてくれて」


 後半は碧と、ベリルにも向けた言葉のようだ。エドワードは碧の頭をぽんぽんと叩くと、チビとベリルを引き連れてリビングの方へと向かってしまう。碧は少しの間立ち尽くしていたが、やがてキッチンに向かって朝食の準備を始めた。暫くすると男も戻ってきて、こちらも採れたての卵を幾つかボウルに割り入れる。


「昨日はちゃんと眠れた?」


「……少しだけなら」


 細かく切った野菜を鍋に入れながら何てことのない嘘を吐いた。


「色々話さなきゃいけないことがあるからさ……つまんない話だけど、寝ないでね?」


 碧はこくりと頷く。その後はコトコトと音を立てる鍋を見張りながら、男がオムレツを焼くのをぼんやりと見ていた。


 完成したミネストローネをよそい、オムレツとパンを皿に乗せたところで男がエドワードを呼ぶ。チビとベリルもそれぞれ焼いた肉が乗せられた深皿の前でちょんと座っていた。


「じゃ、いただきます」


「いただきます」


 男の音頭にエドワードと碧が声を揃え、2匹も一声鳴いて食事を始める。碧はミネストローネをぐるぐるとかき回しながら誰かが何かを言うのを待っていた。


「さっき、話なんだけどよ」


 食いちぎったパンを呑み込み、エドワードが口を開く。


「王都でアクアの件が御前会議にかけられてるみてぇだな……お前、人が寝てる間に何してんだよ」


 王国からの協力要請の拒否、迎えに来た騎士たちへの暴行、というよりは殺人未遂。これだけでも良くて投獄、悪ければ死罪だ。その上、王国の希望ともされるモリオンを突っ返すどころか投げつけるとは。エドワードは物言いこそ呆れた様子だったが、そこに非難の色はなかった。


「普通なら爆速で賞金首だけどな。明らかに様子がおかしかったから、色々ごたついてるみてぇだ……何らかの洗脳を受けてるかもしれねぇってさ」


 うわ、と男が心底嫌そうに呟いた。そうまでして、彼らは信じて疑わないのだ。魔物やデミヒューマーのとなる人間がいるはずはない、と。


「しばらくはぎゃーぎゃーやってるだろうな。投獄にしても死刑にしても、無罪にしても1回お前に会いに来るだろ」


「だろうね……まぁ、おっさんとしては? 何言われたって戻る気ないけど」


 男は空笑いするとミネストローネをすすった。随分と吹っ切れたというのか、さらけ出したというのか。もはや隠そうともしない嫌悪を滲ませて吐き捨てる。


「別に、さ。変わってくれると信じてた訳ではないんだけどね」


 不意に男は声を沈めた。


「せめて、近寄らないようにしてればいいかなって思ったんだよね……認識が甘かったよ」


 どこか自身を責めているような口調。慰めるように擦り寄ってきたチビを撫でて、男は言葉を続ける。


「だから、今回の騒動は全部俺の所為だ……本当に、ごめん」


 男が頭を深く下げる。碧とエドワードは一瞬目を合わせ、また男へと視線を向ける。


「オッケー、許した」


「許すも何も……特に何とも思ってないです」


 だから顔上げろ。エドワードがそう止めを刺せば、男は緩慢な仕草で顔を上げた。ひでぇツラ、とエドワードがからからと笑った。男も少しだけ笑っていた。


「ありがと」


 3人で顔を見合わせて、笑う。2匹もこちらの空気を感じ取ったのか、口々に鳴いていた。そんな和やかな空気の中、不意にエドワードが顔を引き締める。


「そんで、昨日言いかけてたことなんだけどよ」


「……モリオンについて?」


 男がそう問うとエドワードは首肯する。そうして、昨日の出来事をかいつまんで話し始めた。


「昨日がノアの建国300年記念だったってのは知ってるよな?」


「……なんか手紙にそんなの書いてあったような気がする」


 曖昧な記憶をたぐりながら男が答える。碧は当然首を傾げていた。


「……まぁ、それで王都でやってたパレード見に行ってたんだよ。教団も出るって聞いたからな」


「教団?」


「バーデン教団って言う王国お抱えの教団だよ。『神の子』信仰教団の中じゃ最大手だ」


 聞き慣れない言葉をオウム返しにする碧に、男が簡単に説明する。


「モリオンを見つけたのも教団だ。魔物を打ち払う聖なる力を秘めている鉱物だとさ」


 昨日の演説を思い出しながらエドワードは言葉を続ける。が、魔族だのヒューマーだけの世界の樹立だのに関しては黙っている事にした。男が落ち着いているところに起爆剤をまくこともない。


「その演説の途中で、何でか俺がデミヒューマーだってバレて騎士が斬りかかってきたんだわ」


 男から一瞬怒気が立ち昇った。エドワードも一瞬身構えたが、長く息を吐いて熱を逃がしているのが見えたので話を続ける。


「王国の騎士団長が例のモリオンの剣を持ったからよ。斬られて腹立ったのもあるし、丁度良かったからちょっとばかし実験したんだが――」


 エドワードが右手を軽く掲げる。その手の中で空気が猛スピードで擦り合わされ、火花が散る。


「モリオンは、魔力の変換増幅装置なんかじゃねぇ」


 エドワードの声はひどく重かった。

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