11 おっさんの腹の底
不意に鳥の鳴き声が耳をつんざいた。碧は本に落としていた視線を上げてきょろきょろと辺りを見渡す。例によって男のいない1人の午後だった。傍らで眠っていたチビが身体を起こし、せわしなく鼻を動かしている。
「今の……ヴェズルの鳴き声?」
良いながらベリルの方を見やれば、既にそこにはいなかった。慌てて周りを見れば、玄関扉の上部分につけられたベリル用の通路をくぐっている所だった。焦っているのか、羽を何度か引っ掛けながらも外に出て行ってしまう。
「ベリル!?」
ベリルの仲間に何かあったのだろうか。確かにどこか切羽詰まったような鳴き声だった気はする。碧は急いでベリルの後を追った。玄関を出た段階で見失ってしまったが、チビがついて来いとばかりに駆けだすので、碧はそれについて走った。
数分と経たない内に、嗅ぎ慣れない匂いがツンと鼻を刺した。ほとんど同じ頃にベリルの羽音と鳴き声が聞こえ始める。碧はチビと顔を合わせ、そちらへと向かう。腰ほどもある草をかき分けた時、爪先が柔らかい何かをつついた。
「何か落ち――」
言葉が喉の辺りに詰まって息が止まった。ベリルがけたたましく鳴く声が、聞こえなくなる。脳が現実を拒絶しようとしているのだ。
それでも事実は変わらない。血だまりにうつ伏せに横たわるエドワードの姿は、目の前にあり続けた。ざんばらに切られた髪、背中を袈裟懸けに走る赤い傷跡。布で覆われていて良く見えないが、明らかに長さの足りない左腕。
「エ、ディ……さん……?」
恐る恐る名前を呼んでも返事は無い。だが、閉じていた瞼が少しだけ震えた。こういう時はどうすればいいのだったか。中学辺りで受けた人命救助の知識を引っ張り出そうとするが、目の前の光景に邪魔されてどうにもうまくいかない。
生まれてこの方事故現場の野次馬すらやったことはなかった。血なんてせいぜい指先を切ったくらいのものしか見たことはない。匂いと光景に眩暈がする。どこかへ行ってしまいそうな意識を繋ぎとめたのは、チビとベリルの鳴き声だった。視線を向ければ、赤と金の瞳がじっとこちらを見つめている。そうだ、ここには今、自分しかいないのだ。
「ぁ、ご、ごめん……」
震える身体を叱咤してエドワードに触れる。そっと起こそうとすると、空いた隙間にチビが身体をねじ込んできた。背負うつもりらしい。それに合わせてベリルと共にエドワードを持ち上げる。何とかチビの背中に乗せ、ゆっくりと歩き出す。揺れが傷に響くのか、時折小さな呻き声が上がっていた。
家に着くと直ぐにエドワードを何とかソファにうつ伏せに寝かせ、救急箱を取りに走った。念の為にと男に習っていた応急手当の手順を思い出しながら、タオルと湯を用意する。チビとベリルはエドワードの周りをうろつき、時折心配そうに顔を覗き込んでいる。
「エディさん、失礼しますよ」
一応一言声をかけ、シャツを脱がせる。そっと背中を濡れタオルで拭けば真っ白なタオルはたちまち赤く染まった。
続いて手早く消毒を済ませる。染みるのだろう、身じろぎと共に呻き声が上がる。無意識なのか、残されていた片手が力一杯クッションを握っていた。額や首筋にかかる髪を払い、滲み出ていた汗を拭う。そっと身体を起こすと包帯を巻き始めた。身体が分厚すぎるせいでややもたついてしまったが、何とか巻き終えると端をピンで止める。
エドワードをもう一度横たえ、碧はごくりと唾を飲んだ。身体の横に投げ出された左手をそっと取る。上着らしきボロ布でぐるぐる巻きにされていた。
固い結び目を解き、くるくると解いていく。じっとりと重い布は血が固まりかけていたらしく、時折引っかかるような感覚があった。最後の布を引っ張ると、にちゃりと粘着質な音と共に色々な液体が垂れ落ちた。びくっと震えた指先が上着を取り落とす。
スプラッターはそこそこ平気なつもりでいた。映画やアニメなんかでは下腹の辺りがもぞっとするものの、目を覆うこともなく見れた。だが、どんなにリアルでもそれらは所詮作り物だったのだと改めて思う。
声も出なかった。剥き出しになった骨の断面とそれを覆うピンク色の筋肉。じゅわりじゅわりと血液と組織液が染み出し、珠になって滴り落ちる。
「……ぅ」
空気に触れるのが辛いのか、エドワードが小さく声を上げた。碧ははっとしてエドワードの顔を見る。震えていた瞼がゆっくりと持ち上がった。焦点がぶれた瞳がゆらゆらと揺れた後、碧を映して止まる。瞬きを2回。
「あー……」
きゅ、と眉が寄った。反対の手がクッションを引き寄せ、口元に抱え込む。
「ひと思い、に、やっちゃって……」
それだけ言うと、クッションを噛み締めた。碧は暫く固まっていたが、意を決して固く絞った真新しいタオルを傷口にそーっとあてる。
「ぐ、っ……ぁ!‼」
反射で逃げようとする先の無い手を何とか押さえ、消毒を済ませる。間断なく響いていた潰れた声が、荒い息に変わった。切断面に分厚いガーゼを当て、包帯を巻く。そうして万歳をさせるような格好でソファの肘掛に手を乗せた。
「っ、はー……は、ぁ……あんがと、な」
うつ伏せから片腕を上げた胎児のような格好になったエドワードは全身汗みずくだ。こちらを安心させる為か、へにゃりと笑った後静かに目を閉じた。
碧は暫くその場から動けずにいた。色々なショックをひとまず呑み込むと、次々と疑問が浮かんでくる。誰が、どうして、こんなことを。
チビが鼻先をエドワードに擦りつけ、額に滲んで頬を滑り落ちる汗を舐め取る。彼が起きていたら、泣いて喜んだのかもしれない。そんなことを考えられる程度には気持ちに余裕が出来たのだろうか。
「……よし」
とにかく男が帰ってくるまでの間は、自分1人で何とかしなければならない。碧は両頬を叩くと、取り敢えず救急箱や汚れたタオルを片そうと動き出した。
◆◆◆◆◆
太陽が傾き始めた頃、男は『魔法使いの弟子』の前に人だかりを見つけて首を傾げた。約束の日には少し早かったがクエストの関係で近くを訪れたので進捗を聞こうと立ち寄ったのだ。
「あの、何事です?」
男は近くにいた女性に声をかけた。女性は振り返って驚いたように目を丸めた。フードの大男に話しかけられた人は大概こういった反応をする。反射的に逃げられることも多いが、幸い彼女は肝っ玉が据わった女性のようだった。
「あら、知らないの? 王都に魔族が現れたのよ!」
男の目の色が変わる。が、女性は当然そんなことには気づかずに話を続ける。
「それが、ずっとここに住んでたらしくてね。今、警備隊が調査してるのよ。仕立て屋なんて言ってるけど、本当は何をしていたんだか……」
吐き捨てるように投げられた言葉に、男は黙り込んだままだ。
「式典に潜りこんでたんですって。国王様の命を狙ってたのかもしれないわ。それに――」
「すいません、もういいです」
男は冷たい声で女性の言葉を遮った。びくりと肩を揺らした女性が口をつぐむ。男は人混みを掻き分けて前に出ると、フードを脱ぎながら警備隊の1人の肩を叩いた。
「いっ……! ちょっと、あん……た……?」
力が強かったらしく、文句を言おうと振り向いた隊員の目が大きく見開かれる。人垣の方からもざわめきが起こり始めた。
「ここで何してるの?」
にこりと笑って問う。対峙する隊員のこめかみを汗が流れていくのが見えた。笑った、つもりだったのだが、エドワードの言うところの『噛みつきそうな顔』をしていたのかもしれない。だが、取り繕う余裕もその気も、もう、なかった。
「ア、アクア様……どうしてここに……?」
「……何してるのって訊いたつもりでいたんだけど」
疑問に疑問で返され、男の眉間にしわが寄る。いつもの軽さを沈めてしまった低い声が隊員の鼓膜をひっ叩いた。
「ぁいや! えぇと、その……ま、魔族の家宅捜索を、ですね……」
「…………ふぅん……入っていい?」
隊員がどうぞ! と半ば叫ぶように言って道を開けた。男はずかずかと店内に入る。
店内は燦々たる有様だった。物取りに入られた方がまだマシだと思うぐらいに荒らされている。引き出しと言う引き出しは引き抜かれ、ひっくり返され、棚の中身もぶちまけられ、足の踏み場もないほどに物が散乱していた。エドワード愛用の裁縫道具も床に落ちていた。乱雑に扱われたのだろう、壊れている物や傷のついている物も多い。
それらを拾い上げ、ぼうっと見つめていると後ろから声がかかった。面倒くさそうに振り返れば、いつぞやか男を誘拐犯と勘違いして声をかけてきた隊長が立っている。
「お初にお目にかかります、警備隊長のモンスと申します」
「あぁ……どうも」
お初じゃないんだけど、と。そんな冗談を言える精神状態でもなかった。丁寧に腰を折って挨拶をしてきたモンスは、男の声の温度に少し戸惑っているようだった。
「ぇえと……アクア様は、どうしてこちらに?」
「贔屓にしてた店に人だかりが出来てたからね、気になったんだ」
「そうだったのですか……アクア様まで騙すとは、何という……ッ」
怒りのあまり途切れた言葉に男は眉間にしわを寄せた。が、何も言わずに息だけを吐いた。
「何か知りたいことがあればお調べいたしますよ。何か無くなっただとか、ぼったくられただとか――」
「ごめん、ちょっと……黙ってて」
我慢しきれずに零れた、自分でも驚くほどに棘々しい声。ひくっ、とモンスの喉が音を立てた。だらだらと冷や汗を流す彼を軽く押し退け、荒れた店内からリビングへと入っていく。数名の警備隊員が驚いたようにこちらを見るが、声を駆けてくる者はいなかった。むしろ皆、避けるように道を空けていく。
目的の場所はわかっていた。エドワードが前に見せてくれた秘密の場所。鍵も持っている。男は部屋の隅に膝を着くと、フローリングを一枚外した。剥き出しになった床板には南京錠のような紋様が描かれている。
男は紋様の鍵穴の部分に指を立てる。何の抵抗もなく沈み込んだ指先を左に半回転させれば、カチッと小さな音がした。途端に男の姿はその場から掻き消えた。混乱とどよめきを残して。
何もかもを置き去りにした男は、大きな石造りの洞窟に立っていた。背後には入口と同じ紋様が刻まれた木製の扉がある。
「相変わらず静かだな……」
男は独り言ちて歩き始めた。歩く、と言ってもさほど広い空間ではない。扉と同じ幅の細い道を抜ければ、直ぐに目の前が開けた。
そこにあったのは、2つのお墓だった。真新しい花輪と炎の揺れるろうそくから微かな甘い匂いがする。薄緑色の石で出来た墓石は丁寧に磨き上げられ、埃1つ被ってはいない。
刻まれている名前は、フランサスとグレイ――エドワードの、両親の名だ。ここは、キファの町の地下深くにエドワードが創った、2人の為の空間だった。
男は初めてここに来た時の事を思い返していた。瞬きの間に景色が変わり呆然とする男を、エドワードが笑いながらここへ案内してくれた。嬉しそうに、誇らしげに。
エドワードはこの世界では珍しくヒューマーとデミヒューマーの純愛の末に産まれたハーフエルフだった。世界が始まってから今に至るまで続く確執の中で、人と共に生きることを望んだエルフと、エルフを心から愛したヒューマーの存在の証明だった。
だから、彼は母の故郷であるキファの町に彼らの墓を立て、そこに住んでいた。表立って愛し合うことの出来なかった2人の為に、2人きりの場所を創ったのだ。そうして自分を殺し、偽って2人の墓をずっと、守っていた。
一歩、墓石に近づく。膝をついて、十字を切った。そうして隅の方に置かれていた木箱を開く。当然のように黒い大剣がビロードに寝かされていた。
「やっぱここに隠すよね……」
ぼそりと呟いて木箱を閉じ、抱え上げる。そしてもう一度墓石へと顔を向ける。
「すみません、フランサスさん、グレイさん。貴方たちの息子さんはまた、しばらくここには来れなくなる」
そしてそれはきっと、自分のせいなのだ。彼は自分の本質を知っている。抱えているものを知っている。それが危険なものだと知って、同じように抱え込もうとしてくれている。王都で騒ぎを起こしてしまったのも、全ては自分の為なのだろう。
「でも、いつか、絶対に。またエディをここに連れてきます」
男は墓石に手を伸ばし、そこに置かれていた一対の指輪を手に取った。エドワードは前にも訳あってキファに帰れなくなった時期があった。その時に彼らの形見の指輪を大事に持ち歩いていたそうだ。恐らく本人はここにはこれないだろう。迷惑をかけてしまった、せめてものお詫びのつもりだった。
男は来た道を戻り、扉に指を差し込んで鍵を開ける。途端に彼は地上へと転送された。紋様を囲むように立っていた警備隊員で出来た人垣を一瞥し、木箱を抱え直す。
「ア、アクア様、よくぞご無事で……」
罠にでもかかったのかと。そう続けたモンスの言葉は今の男の神経を波立たせるだけだ。男はフードを被り直して表情を隠すと、軽く頭を下げてその場を後にしようとする。
「あ、あの! 今までどちらにいらしたのですか? その荷物は一体――」
「俺から言える事は何もないよ……これ以上、引き止めないでくれるかな」
叩きつけるような重さを持った声に、モンス以下警備隊員が息を飲む。傍若無人な振舞いに自覚はあったが、それ以上に煮え立つ腹の中を抑えるに精一杯だった。
自然と左右に分かれた人の間を足早に歩き、店を出る。野次馬も今の男には近寄りたくなかったらしく、男が進むに従って道が出来ていった。
「無事……だよね、エディ」
そうじゃなかったら……何もかもぶちまけてしまうかもしれない。どちらにせよ、火がついてしまったことに変わりはないけれども。
ぼこぼこと沸騰する音すら聞こえそうなものを抱え込んで、男はひたすら帰路を急いだ。
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