05 おっさんと秘密


 夢を見ていた気がした。目の前には女の人が2人。1人は碧に少し似た若い人、もう1人は頭に白髪の混じった老人。代わる代わる話しかけてくるその人たちが嫌いだった。でもそれはおかしいことなのだ。


 だって彼女らは――家族なんだから。だから嫌うのはおかしいことなのだと、そう思っていた。自分はきっとおかしな子供なのだと。


 普通になりたい。普通にならなきゃいけない。どれほど時が経とうとも、この人たちは永遠に自分の家族なんだから。好きにならなきゃいけない。好きでいなきゃいけない。そうじゃなきゃ普通じゃない……家族じゃ、ない。



◆◆◆◆◆



「なーんかうなされてるっぽいんだけど」


 起こした方が良いか? とエドワードが続ける。男は首を横に振った。


「ヘルメスの眠り薬は自然に目が覚めるまでは何しても起きないんだよ……タオルある?」


 男は碧を連れて『魔法使いの弟子』に戻ってきていた。今は店の奥にある生活スペースに碧を寝かせている。エドワードが持ってきたタオルで優しく汗の滲む額を拭く。閉じた瞼が震えていた。黙って見ていたエドワードが不意に口を開いた。


「本当に誰にも明かさないつもりか?」


「エディには言ったでしょ」


 硬い声音にエドワードは口をつぐんだ。そうして自分のベッドに横たわる碧を見下ろす。大柄なエドワード用のベッドは碧が2人並んでもスペースが空くほどだ。そのせいで余計に碧が小さく見える。……何の力も持たない、無力で小さな子供だ。


「前の子もそうだったのかね……」


 エドワードがぽつりと呟いた。碧よりは体格が良かった記憶はあるが、それでも年若い青年だった。遠目に見ただけだが、『神の子』『天使様』と持ち上げられて戸惑っていたのを覚えている。そしてそのまま、いなくなってしまったことも。


「まぁ、またあんなことになるよかはいいだろな」


「でしょ?」


「……輩どもにはきっちり釘刺してきたんだろーな?」


 男は黙ったまま口元だけで笑った。エドワードはわざとらしく身震いして見せる。そうして立ち上がって大きく伸びをした。


「さて、俺は仕上げしてくるわ。終わったらメシ買ってくるけど何がいい?」


「チーズパイとかその辺の適当に頼む」


 はいよー、と片手を振り、スカートを揺らしながらエドワードは部屋を出ていった。男は碧に向き直る。


「……君は何も知らないままでいてね」


 男は指先で額に貼りついていた髪を払ってやった。



◆◆◆◆◆



 ぼんやりと意識が浮かび上がった。じっとりと滲んだ汗が冷えて身体が冷たく感じる。不意に頬に温かい手が触れた。碧は無意識にその手に擦り寄った。小さな笑い声が降ってくる。


「起きた?」


「え、ぁ……?」


 碧は反射的に目を開いた。ベッドに寝かされていたらしい。そのすぐ傍の椅子に男が座っている。身体を起こすと掛けられていた毛布と額に乗っていた濡れた布が滑り落ちていった。


「あれ……?」


「ここは『魔法使いの弟子』だよ。びっくりしたよ、戻ってきたら倒れてたんだから……ごめんね、おっさんが振り回したからだよね……」


 男がしょんぼりと眉を下げる。碧は慌てて両手を振った。


「いえ、大丈夫ですよ! こちらこそご迷惑を……」


 そこまで言って碧はふと意識を失う前のことを思い出す。


「あの、傍に男の人いませんでしたか?」


「あぁ、いたよ。おっさんが戻るまでアオイちゃんのこと見ててくれたんだって。なんか急いでたみたいだから、おっさんが戻るなり行っちゃったけどね」


 男は笑顔で嘘を吐いた。記憶がおぼろげな碧がそれに気づくことはない。


「そうですか……今度会ったらお礼言わないとですね」


「おっさんもちゃんとしといたから大丈夫だと思うよ。でもまぁ、気になるんならいつか会って言えるといいね」


 会えない方があっちは幸せだと思うけど。そんな言葉を呑み込んで、男は碧の頭を撫でた。むしろ向こうは出会わないように必死だろう。優秀な監視もついている中で碧の姿を一目見ることすら叶わないはずだ。そしてそれら全てを、碧が知ることはない。


「戻ったぜー……お、起きたか」


 エドワードが紙袋を幾つか抱えて部屋へと戻ってきた。食欲をそそるいい匂いがする。ふと時計に目をやれば、針はとっくに天辺を通り越していた。碧は目を見開く。ゆうに2時間近く眠っていたらしい。


「アクア酔いしたって聞いたけど、大丈夫か? メシは食えそう?」


 アクア酔い……と碧は思わず繰り返した。当の本人は眉間にしわを寄せている。けらけらと笑ったエドワードは持っていた紙袋をテーブルの上に置いた。


「オメー自分の脚力考えろよ、馬車よりヤベェわ」


 エドワードは言いながら紙袋を2つ男に投げた。受け取ったのを確認して自分の分の袋を漁る。焼きたてのパイの香ばしい匂いと濃厚なチーズの香りが広がった。


「食えそうならこっちきてあったかいうちに食べな。トロトロに溶けてる時が一番ウメェぞ」


「あ、はい。ありがとうございます」


 男から受け取った紙袋はエドワードの言う通り温かい。中を見ると三角形の紙包みとジュースらしき瓶が入っていた。この世界にペットボトルはないらしい。


 男の隣の椅子に腰かけて包みを開くとサクサクのパイが顔を出した。とろりと溶けたチーズがはみ出して包み紙に張りついている。


「いただきます」


 さくりと小気味いい触感が歯に伝わる。途端に溶けたチーズが流れ出てきた。細かく切られた玉ねぎやハーブが混ぜられているらしく、塩気の強いチーズによく合う。名産と聞いただけあって濃いが、重くない逸品だ。


「ん~、やっぱキファのチーズは格別だわ」


 男が目を細める。エドワードは既に2つ目の包みを解いていた。


「あ、そーだ。頼まれたのもう出来てっから、忘れて帰んなよ」


 口元に垂れたチーズを舌で拭い、エドワードは持っていた瓶の底で傍らの箱を指した。開いたままの木箱には綺麗に畳まれた服が詰め込まれている。


「相変わらず仕事が早いね。あんがと」


「おー、崇め奉れよ」


「そこまででもないかな」


 軽い調子で交わされる会話に碧は小さく笑った。男は自分の分を食べ終えると、仕立てたばかりのシャツに着替えた。代わりにコートを箱に詰め込み、エドワードに預ける。


「市場寄りたいからちょっと預かっててくんない?」


 言いながらオールバックをくしゃくしゃと崩し、前髪を適当に流す。エドワードはそんな男を暫く眺めていたが、やがて踵を返した。直ぐに戻ってきたエドワードの手には銀色のハーフフレームの眼鏡。


「最初っからそのカッコでくりゃ良かったじゃねぇか」


「何枚かはち切れてて代えがなかったんだよ。エディがいつもぴちぴちに作るからだろ」


 眼鏡をかけながら文句を言えば、ハン、とエドワードが鼻で笑う。


「俺ァ、似合う服しか作らねぇんだよ。お前みたいなゴリラがオーバーサイズなんざ着るんじゃねぇ」


 どうもこだわりが強いらしい。そう言われればどんな服を作ってくれたのか気になってきた。碧は手拭いで手を拭くと、箱の中を覗き込んだ。


「アオイは華奢だし、肩幅も相当狭ぇ上になで肩だから、ポンチョ中心に何着か仕立てといたぜ」


 何となく選んで引っ張り出したのは藍色のフード付きポンチョだった。裾に銀河を模した刺繍と星のようなビーズが縫い付けられている。


「気に入った?」


 自信満々に碧を覗き込むエドワード。碧はしばらくポンチョに見惚れていたが、エドワードの方を見て大きく頷いた。


「はい! ありがとうございます!」


「そ、よかった。ついでだし着ていきな。サイズ合ってねぇだろ、それ」


 エドワードは店へと続く扉の方を指しながらそう言った。碧はその言葉に甘えてポンチョを抱え、いそいそと部屋を出ていった。それを確認した後、エドワードは男の方を振り返る。そうして傍らにあった鏡に手を触れた。


「顔まではっきり見られてはいねぇみたいだぜ」


 鏡面が揺れる。水のように波打ったその表面に映るのはエドワードや男ではなかった。噂話にいそしむ数人の男女だ。声は聞こえないが、表情や口の動きは見て取れるほどにはっきりと映し出されている。


「黒髪黒目、細身で小柄。アクア様とは親し気だった……ロリ? ショタ? なんか色々言われてるぞ、お前」


「心外すぎる……」


 男は深く溜息を吐いた。対してエドワードはけらけらと笑っている。鏡をひと撫でして鏡像を消し去ると、ドアの方へと目を向けた。ぱたぱたと軽い足音が駆けてくる。


「すいません、お待たせしました」


 ドアから碧が顔を覗かせる。大きめに作ってあったのだろう。袖が余って手の甲を覆っている。元から小柄なことも相まって、幼い印象が強くなっていた。エドワードは黙ったまま碧と男を見比べる。


「まぁ、ぎりぎり親戚ぐらいには見えなくもない……か?」


 パッと見誘拐犯ではなくなったかね、と失礼なようだがエドワードは本気で心配しているだけだ。目を細め、男の頬へと手を伸ばす。顎から頬を斜めに縦断する傷跡は他より皮膚が薄く、触れると微かな凹凸を指先に伝えた。


「やっぱ堅気には見えねぇんだよなぁ」


「……マスクでもつけようかな」


「あぁ? やめとけ、やめとけ。怪しさ倍増するだけだ」


 辛辣だがその通りだった。しょんぼりする男に碧もかける言葉が見つからない。


「まぁ、堂々としてりゃ大丈夫だろ」


 最終的にエドワードは思考を放り投げたが、こればかりは仕方のないことだ。


「じゃ、行ってくるわ」


「おー、帰り寄るの忘れんなよ」


 ウチは宅配やってねぇからな! とエドワードが念を押す。男は笑って手を振った。碧も頭を下げ、2人は『魔法使いの弟子』を後にした。連れ立って市場へと向かう。町の中心部へと向かうほどに活気に満ちた声が飛び交い、人が溢れる。


「アオイちゃん」


 不意に男が名前を呼んだ。見上げれば大きな手のひらが差し出されている。


「はぐれたら大変だし、掴まってて」


「あ……はい」


 手をつなぐのは何となく気恥ずかしく、碧は男の指を握った。大きく硬い手のひらに反して柔い力が握り返して来る。


 こういう人が父親と呼ばれるのだろうな、と思った。親に限ったことではないが、誰かと手を繋いだ記憶など久しくない。高校生にもなれば普通かもしれないが、さかのぼれる限り父親と手を繋いだ記憶は無かった。実際はあったのだろうが、きっと、碧は思い出せない。


「どうかした?」


 くい、と手を引かれ、我に返った。いつの間にか足を止めていたらしい。男が心配そうにこちらを覗き込んでいた。本当に聡い人だ。そしてこちらを気づかえるだけの度量と優しさがある。


「大丈夫、です。少し、ぼんやりしてしまって……」


「……そ、疲れたんならすぐ言ってね」


 聞かれたくないことを聞かないでいてくれるのは正直にありがたい。碧はゆるく頭を振って余計な思考を頭の隅に追いやり、静かに深呼吸する。採れたての果実の甘い匂いと、新鮮な野菜の青い香り。スーパーの青果コーナーとはまるで違う匂いと熱気が漂っていた。


「せっかくだし、チビへのお土産一緒に選んでくんない?」


 男は手近の精肉店を指した。寂しそうに耳を伏せていたチビが脳裏に浮かび、碧は小さく笑って頷く。目の前で少し足を止めた途端に、店先にいた店員が声を上げる。


「いらっしゃい、ウチのは他のと一味違うよ! まずは一口食べてみて!」


 ずい、と目の前に小さな皿を突き出される。2人は一瞬顔を見合わせ、皿の上の干し肉を1つずつ摘まんだ。


「あ、これおいしい」


「でしょう?」


 嬉しそうな店員に男が目を細めた。思ったよりも柔らかいがしっかりと噛み応えがある。噛むほどに滲む甘い脂にブラックペッパーがぴりっとした刺激を添えていた。


「これペッパー抜きとかあるかな?」


「ありますよー。あ、ペットちゃん用ですか?」


「うん、食べ盛りのワンコがいてね。お留守番頼んだからご褒美にって」


 男も出掛ける前のチビの様子を思い出しているのだろう。少し頬を緩めている。


「ウチのジャーキーならどんなワンちゃんでも大喜びですよ!」


 こちらへどうぞ! と店内を指す店員は男が“アクア様”であることには気づいていないようだった。店員のおすすめだと言うブラックペッパーとチビ用のプレーンを買い、店を後にする。


 その後、碧と男はしばし市場をぶらついた。目に映るものは碧も知っているようなものばかりだ。動物や植物に関してはさほど元の世界と変わりないようだった。


 ただ、見る限り科学的な部分は元の世界よりは遅れている様子だった。灯りは炎、町中を走るのは馬車。車などは勿論ないし、電力という概念もどうもないようだ。辛うじて水道やガスが通っている程度らしい。


「どうかな? 普通に生活出来そう?」


 出店で買ったアイスを舐めながら男が尋ねる。碧はこくりと頷いた。


「慣れれば、なんとかなると思います」


「そ、良かった」


 そう言った男がふと立ち止まった。碧も足を止めて男の視線を追う。通りの真ん中辺りの店に人だかりが出来ていた。


「何かあったんですかね?」


「みたいだねぇ……」


 巻き込まれたら面倒だ、と男は踵を返した。碧も店――リサイクルショップ『メイト』に背を向ける。


 人垣の中心では件の人攫いが摘発されていたのだが、それを知っているのは男だけだ。碧に気取られないよう、男はこっそり振り返る。


 手錠で繋がれ、連行されていく人攫いたち。不意にその内の1人と、目が合った。男は眼鏡を少しずらし、人攫いにその青い視線を突き刺した。途端に人攫いは腰を抜かしてへたりこむ。


「どうかしたんですか?」


「ん、ちょっと虫がね」


 碧が男を見上げたときには、男はもう前を向いていた。ずらしていた眼鏡を外して軽く拭き、かけ直す。


「そろそろ帰ろうか。今晩は何食べたい?」


 青い瞳が打って変わって碧に優しく笑いかけた。

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