04 おっさんと約束
男は大通りから少し外れた辺りでゆるゆると速度を落とした。幸い警備隊の目には留まらなかったらしく、声をかけてくる人もいない。男はゆっくりと碧を肩から下ろした。途端に碧は口元に手をやって前かがみになる。
「おわッ、ごめんね! 大丈夫?」
「だいじょうぶ、で……」
碧は弱々しくも何とかそう答える。正直大丈夫ではなかったのだが、反射だった。俵担ぎされていたせいで腹部を圧迫された上にひどく揺れたものだから、胃の中が盛大にかき回されていた。絶叫マシーンなんてものではなかった。幸いなのは朝食の消化がとっくに終わっていたことだろうか。気分こそ最悪だが、道端で粗相するなんて事にはならないだろう。
「おっさんちょっと水買ってくるよ、じっとしててね」
「は、ぃ……」
男は慌てて走っていった。碧は通行人の邪魔にならないようにふらふらと道の端により、壁を背にしゃがみこんだ。まだ少し世界がぐるぐると回っていた。ゆっくりと深呼吸し、頭を振る。俯いていた視界にふと2本の足が入ってくる。
「ねぇ、君大丈夫?」
声を見上げれば見知らぬ男が碧の目の前に立っていた。心配そうに声をかけてきた男は碧の頬に手を伸ばした。体温が低いのか、ひやりとした感覚に碧は小さく震える。
「顔色も随分悪い……どこかで休んだ方がいいんじゃないかな」
「……ご心配ありがとうございます。でも、人を待っているので」
「立てるかい?」
ぐい、と腕を引かれ、碧は目の前の男にもたれるように立たされた。不意に強く甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「……ぁ、れ?」
くらりと意識が揺れた。手足の先が痺れるような感覚に襲われる。目蓋が妙に重い。かくりと足が笑った。
「君、大丈夫かい? 早く医者に見せないと!」
男の慌てたような声を最後に、碧は意識を手放した。
◆◆◆◆◆
「あれ、アオイちゃん?」
水の瓶を片手に戻ってきた男はきょろきょろと辺りを見回した。碧の姿が見えないのだ。勝手にどこかへ行くはずもない。この辺に座ってたはずなんだけど、と道の端に近寄る。
「ん……?」
ふわりと甘い匂いが漂った。男はすんすんと鼻を鳴らしてその匂いを確認する。途端に険しい表情を浮かべた。
「ヘルメスの眠り薬か……?」
揮発性と睡眠効果共に高く、一般的には出回っていない睡眠薬だ。特徴的な甘い匂いは今漂っているそれに酷似している。どうしてこんなところで。そんな疑問を抱いた男の脳裏に、警備隊長が言った言葉が浮かび上がった。
『最近誘拐事件が多発しているもので……』
拳を握り締めて歯噛みする。碧を独りにするんじゃなかった。だが、悔やんでも後の祭りだ。それに男がここを離れたのは数分程度のこと。そう遠くへは行っていないはずだ。男は短く息を吐くと空を仰いだ。遥か上空で鳥が輪を描いて飛んでいる。男はゆっくりと指を咥え、甲高い音を吹き鳴らした。
「ちょっと力貸してくんないかな……ヴェズル」
恐ろしいほどに低い声。それに応えるように男の目の前を黒く、大きな影が横切っていった。
◆◆◆◆◆
大通りから少し離れた通りの中心にその店はあった。リサイクルショップ『メイト』と書かれた古びた看板がぶら下がっており、少しだけ道にせり出した商品棚には種々様々な商品が並べられている。そしてその店の奥には、数名しか存在を知らない地下室があった。
「『仕入れ』は終わったぜ」
床に偽装されていた隠し扉が開き、大きな袋を担いだ男がその隠し部屋に足を踏み入れた。中にいた数名の男たちがそちらへ視線を飛ばす。男はどこか得意げな表情で袋を床に下ろし、口を開く。
「黒髪黒目のレア物だぜ」
袋から顔を出したのは碧だった。手足を縛られ、目が覚めても騒げないようにと猿轡を噛まされている。ヘルメスの眠り薬の効果でかなり深く寝入っているようだ。乱暴に袋から引っ張り出されても起きる気配はない。
「ほ~ん……細っこいが、顔はなかなか上等じゃねぇの」
「コイツ男? 女? どっち?」
「服脱がしゃー、一発だろ」
口々に勝手な感想を述べている彼らは、まさしく警備隊長の言っていた人攫いだった。ここ、キファの町は観光客や出稼ぎの労働者など、彼らの商品になり得る多種多様なヒューマーが混在している。その上大きな町であるが故に、自然と警備の目の行き届かないところが出来てしまうのだ。
「んじゃ、ま。確認しましょうかね」
下卑た笑みを浮かべた男が碧のシャツをまくる。が、直ぐにその手を止めた。大きく目を見開いて硬直している。
「オイオイ、どうしたよ?」
「いや……これ……」
男が指差したのは碧の腰骨の辺り――異世界人の証の紋様だった。一瞬で男たちの顔が青く染まる。
「コイツ、まさか2人目なのか!?」
「いや、そんな情報全くねぇぞ! 偽物なんじゃねぇのか?」
「……ん、ぅ」
大声に反応した碧がぴくりと動き、男たちは一斉に声を潜めた。
「いや、この色は墨じゃ出せねぇ……正真正銘、本物だ……!」
紋様をまじまじと見た男がそう断言すると、男たちの反応は2つに分かれた。
「オイオイオイ、どうすんだよ。目が覚めたら暴れだしたりしねぇだろうな!?」
「『神の子』にこんな……俺らこれからどうなっちまうんだ……?」
恐れおののく者と。
「『神の子』ねぇ……王宮に連れてったら、報奨金貰えるんじゃねぇのか?」
「いや、それよりもっと高く売れるところに持ってった方がいい! 何てったって『神の子』だぜ!? 他国だって欲しがるだろ!」
そろばんを弾き、喜ぶ者。
後者の方がやや多いようで、男たちの空気は徐々に歓喜に染まってゆく。その内の1人が、思いついたように口を開いた。
「いや、売っ払っちまうよりもっと金になる方法があるぜ」
興奮した様子の声音に他の男たちの目がそちらに集まる。その男は碧の身体を引き寄せると顔が見えるように顎を持ち上げた。
「コイツをシンボルに新興宗教でも立ち上げるのはどうだ? そうすりゃ、長く稼げるぜ!」
異世界人は平和の象徴のようなものだ。化け物を倒して20数年経った今なお、その伝説は色あせてはいない。紋様をモチーフにしたお守りなども売り出され、魔物除けとして人気を博していた。
実際、20年以上前に立ち上がった異世界人を信仰対象とした宗教は、ここ最近でも衰えを見せていない。
「どーせ身寄りなんてねぇんだ。巧く説得すりゃ何とでもなる。お互いに利益のある話だしなあ」
言葉に含みを持たせ、まろい頬を撫でる。ニタニタと笑う男に釣られた数人が声を上げた。
「いいな、それ!」
「コイツが起きるまでに教団名でも考えとくか?」
ぎゃははは、とそう広くない地下室に笑い声が弾けた。ドアが軋む音と重い足音、大きな羽音を掻き消すほどの音量だった。
「楽しそうだねー」
間延びした声が呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかっただろう。が、ドアの一番近くにいた男が正面の壁に向かって吹っ飛んでいったのは誰の目にも見えていたはずだ。
轟音を上げて壁にめり込んだ男は暫くそのままへばりついていたが、やがて重力に引かれて床に仰向けに倒れていった。潰れたトマトのように真っ赤な顔を晒しながらぴくぴくと蠢いた後、動かなくなる。
「……は?」
誰かが疑問符を吐いたのと同時に、辺りが静まり返った。男たちがほぼ同時に隠し扉の方を振り返る。大きな影が扉を背に立っていた。今しがた蹴りを放ったのだろう。男は高々と上げていた片足をゆっくりと下ろしていた。
「お邪魔してますよっ……と」
侵入者は被っていたフードを脱ぎ捨てる。頬を走る傷跡が目を引く精悍な顔立ち。撫でつけられていたロマンスグレーは少しだけ緩んで額にかかっていた。大粒のアクアマリンのような瞳は今は鋭く尖り、人攫いたちを冷たく見下ろしている。
「てめぇは、アクア……っ」
「まー、ホントは違うんだけどね」
仮の名を呼んだ男に相変わらず腑抜けた返事が返る。ようやっと脳が働くようになった人攫いたちは手に手に武器を構えて男を囲む。
「『番人』が何でこんなところに……ッ」
「警備隊にでも頼まれたのか!?」
男は緩く首を振った。そうして部屋の隅に転がされていた碧を手のひらで指す。
「その子、おっさんの連れなのよ」
君らは虎の尾を踏んじゃった訳なんだわ。
普段とまるで変わらない口調と声のトーン。表情こそ柔らかく笑みを浮かべているが、その瞳に温度はない。
男はそこに立っているだけだ。腰の剣も抜いていない。片足に体重をかけ、壁にもたれて立っているだけなのだ。それだけで、この場の空気を支配していた。勝てる勝てないなんて次元ではない。勝負を挑むことすら正気の沙汰ではないと思えるほどに、男は絶対的な存在だった。
「……ッ」
「ん、何?」
微かに漏れた声に男が反応して、そちらに視線が飛んだ。青い瞳に射られ、短剣を構えていた男は身をすくませた。が、直ぐにじりっと後退して引き攣った笑みを浮かべる。
「このガキにえらくご執心だなぁ、アクアさんよ」
「……普通に気づかいの出来るいい子だからね」
ふぅ、と溜息を吐く。遠慮しいとも言えるだろう。最初は警戒されているのかと思ったが、どうもそう言う性格らしい。
「なぁ、勘違いしないでくれよ……俺らは別にアンタの連れを傷つけようだなんて思っちゃいないんだ」
「そう……それ聞いて安心したよ」
言葉とは裏腹に男の表情は変わらない。人攫いの男は嫌に渇く喉を生唾を飲んでしのぎながら再び口を開いた。
「アンタは知らないかもしれないが、この子は『神の子』だ。ただそこにいるだけで平和と安心をもたらしてくれる」
ぴくりと男のこめかみが動いた。人攫いたちはそれに気づかずに調子のいい話を続ける。
「そりゃ、アンタがグリョートの麓に住み始めてから魔物はぱったり見なくなったけどよぉ……いつだって人は魔物に怯えてる。拠り所が必要なんだよ。だから――」
「そういや、さっきそんな話してたね」
温度を下げた声が、人攫いの言葉を遮った。もう一度溜息を吐いた男は一歩前へと踏み出した。弾かれたように人攫いたちは武器を構え直す。その内の1人が部屋の隅へと走った。眠ったままの碧の襟首を掴んで引き上げ、喉元にナイフを当てて叫ぶ。
「う、動くなよ! コイツが――」
テンプレートな台詞は半分も言わせてはもらえなかった。一足飛びに碧の目の前まで飛んできた男はその勢いのまま足を振り抜いて、人攫いの頭を爪先でサッカーボールのように蹴り上げた。身体ごと斜め上に飛んで行った人攫いは後頭部を壁にめり込ませて沈黙する。
固まった空気と人を気にも留めず、男は膝をつくと碧の口元に手をかざす。規則正しい寝息がかかり、男はほっと息をついた。そうしてコートを脱いで碧の身体を包んだ。
「ところでさ」
「……ッ!!」
男がゆっくりと立ち上がる。
「人ってどのくらい殴ったら記憶飛ぶんだろうね」
みしり。男の腕の筋肉がたわみ、音を立てた。数人が武器を取り落とす。
「頭ごと吹っ飛ばした方が確実だとは思うんだけど、さ……」
こつん。ブーツが床を叩いた。男は笑みを浮かべている。
「殺すのは、ちょっとね」
「う、うわぁああああああッ!!」
1人が叫び、扉へと向かう。それに釣られて他の男たちも我先にと出口へ走る。男はそれを黙って見ていた。開いたままの扉をくぐろうとした人攫いたちは不意に羽音を聞いた。続けてぴぃい、と鳥の鳴き声が鼓膜を震わせ、大きな影が彼らを覆う。
「な、何だ!?」
ぎょろり。暗がりで赤い目が光る。翼を広げたそれは、大人と変わらない大きさの魔力を持つ鷹――ヴェズルだった。思わず足を止めた人攫いたちを一瞥し、ヴェズルはその目の前にゆっくりと舞い降りる。
「ど、どうして魔物がこんなところに……!」
うろたえる男の肩に、不意に大きな手のひらが乗せられた。再び空気が凍り付く。振り返ることすら出来ない人攫いの耳元に口を寄せ、男は相変わらず平坦な口調で囁いた。
「自発的に忘れてくれる方が、お互い楽でいいと思うんだけど」
「う、ぁ……」
「どうかな?」
人攫いたちはぶんぶんと首を縦に振りたくった。拒否すればどうなるかは仲間の2人が身をもって教えてくれている。それ以上に逆らう気になるはずもなかった。
「ん、じゃあ約束ね」
男は膝をついてしまった人攫いの頭を一度撫でると、優しい声でそう言った。碧をコートに包んだまま抱き上げると扉へと向かう。自然と左右に分かれた人攫いたちの間を通り、階段を登っていく。
「あ」
不意に男が足を止めた。人攫いたちがびくっと大きく肩を揺らす。男は首だけで振り返るとのびている2人を顎で指した。
「その2人にも伝えておいてね」
再び人攫いたちが首を縦に振る。男は目を細めると人攫いたちの方へと向き直った。
「約束、だからね」
そう言った男の肩に、ヴェズルが舞い降りた。鋭い目がぎょろりと動いて人攫いたちを睨みつけ、甲高い声で鳴く。それに呼応するように、幾つもの鳴き声が外から聞こえてきた。人攫いたちは否応なく理解する。
――彼らはいつも、自分たちを見張っている。
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