第3話 追跡

エスカレーターから降りて私も男のもとに駆け寄った。ぐったりと横たえた男の額は割れて出血していた。床は丹を塗っているかのように様変わりしていくのが見えた。


――どうせ死人になる


自分も足を滑らせては洒落にならないから足早になりすぎず慎重に、それでもインモラルな興味という野次馬根性の発露に抗えず、爺さんの横を潜って駆け降りた。

女性が駅員を連れてくるといって駆け出した。彼女だって濡れており、早く帰りたいだろうに、徳の高い人はやることが違う。


右の頬にニキビがあった。和装だからあやふやになっているが、この男は案外に若いのかもしれない。潰れかけで膿んでいる。たとえこれが潰れようとも、今の額ほど血は流れない。私がいても仕方がないのでこのまま帰ろうと決めて、中腰から立ち上がろうとしたときである。


ぐったりと倒れた男の足があがった。呼吸ができるように回復体位にしておいたままの足の形を崩さずに上へと持ち上げているのだ。首と手だけで奇妙な倒立を試みているかのようで、名古屋城のシャチホコがこんな形だったことを思い出した。


ぐにゃりとしなった半月の姿勢から、そのままつま先を頭部よりも前方においた。背骨が折れても仕方がないようなしなり具合である。


これには無視して立ち去ろうとしていた人々も注視せざるをえなかった。帰ろうとした私もそうだ。怪我人が中国雑技芸術団の真似をしようとは思わないからだ。生きている人間なのだろうかという愚かな疑問がよぎった。和装の男は依然として目を開いていない。どころか、血が額からドボドボとこぼれている。


ムービーを撮りはじめた人がいる。シャッター音が幾つも聞こえてきた。自分も撮影しようかしらと迷ったが、後でTwitterにでも上がるだろうと考えた。グロテスクな光景にも関わらず、じわじわと動く和装の男から目を離せないのだ。スラックスの右ポケットに入れたスマホを取り出すことができないのだ。


視界の端で、さっきの爺さんが腰を抜かしているのをとらえた。偉そうにいからしていた肩は可哀想なほど垂れ下がっている。狼狽しているのは、彼だけではない。ムービーを撮りながらイヤァといった声をあげる女子大生ふうの人や、遠巻きに眺めているサラリーマン、駆けつけた駅員とともに唖然としているさっきの女性。


身の毛がよだつとはこういうことかと、痛いほど肌が疼いた。

男は奇妙な起き上がりかたをすると、首は私たちがいる方の右側を向いているのに、てんでデタラメの方に遮二無二走り去っていった。その勢いは先程のエスカレーターのままである。絶句していたのは私だけではなかった。


ここで帰ればいいものの、雨がまだ降り続いているからか、営業のストレスからか、あるいは私にも怪我人を心配するという殊勝な心がけがあったのか、なんにせよ血の跡を残して逃げた和装の男を追尾することにした。

床に点点と血痕を残しているからどこに逃げたかは分かりやすかった。少なくともJR大阪駅とは真反対の方だ。

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